コーヒーメーカーをアマゾンで買って思ったこと。
我が家のコーヒーメーカーが故障した(ミルに豆が噛んだ。掃除してもモータ回らず)。
5年ぐらい毎日使っていて、多分寿命だな。ほぼ同じものを一番安かったアマゾンで買った(10%のポイントバックを加味しても近くの量販店より6%安い、配送無料:プライム会員だからかな)。
注文後44時間でヤマトが配達してくれたが、メーカー梱包にアマゾンの送付先ラベルが貼ってあるだけ。無駄がなくこれでいい。アマゾンの過剰梱包は改善しているなあ(テニスボールを12個買ったときはアマゾンダンボールの外梱包だったけど)。
汎用家電をわざわざ量販店に行って買う理由がない(エアコンのような据付が重要なものはまだ二の足を踏むけど)。
でも、配送の兄ちゃんは(ヤマトのトラックじゃないので、多分個人配送業主のギグ契約配送)は雨の中、息が上がっていたし、メーカーだって薄利多売のジレンマに陥っているだろう(メーカー直納と思われるスポンサープロダクトは宣伝効果を期待して薄利多売を受け入れていると思う)。
ユーザのクレーム返品もメーカ丸受契約だろうなあ(アマゾンのクレーム返品はネットから宛先ラベルを出して、着払いで送り返すだけ。実に簡単。服のサイズが怪しければ、S,M,L 全部買って合わないものを返品する買い方をむしろ推奨しているぐらい)。
アマゾンが強くなって、ものが安く家に届くのは、消費者視点では問題を感じないけれど、流通、配送は強いものしか残れなくなる(特徴ある商品をマーケットプレイスに出す自由度はあるので商品選択の多様性はむしろ量販店の規模を超えて増える)。
むしろ卸、流通系のビジネスを破壊する影響が大きんだろうと思う。弱いベンダーを淘汰して、ラストワンマイルの配送のギグエコノミー化を加速するだろうな(最終的には自動運転ドローンや配送ロボットになって、人の仕事を奪う)。
それでビジネスの中抜きの効率化が進んで、消費者は欲しいものがすぐに見つかって、安くはやく手に入る。それでいいじゃん。という考えに落とし穴はないのか、ちょっと考えている。
つまり独占的なプラットフォーマーが社会基盤となった時に、その、いわば「共有地」を成長至上主義の私企業が管理していることの功罪だな。その中にあふれるデータを使って私企業はビジネスを成長させるんだけれど、そのデータって、もともとは私たちのものでしょ、それでいいの、という視点。
哲学者はそれを「倫理」のような視点で話したがるけれど、ちょっと違うと思う。価値を生み出すデータという資産を私企業がタダで資産計上もしないで使っていて、その企業の本質を見誤っていませんか(RoAが過剰評価になると野口先生にセミナーで習いました)。というような、正しいデジタルプラットフォーマの評価の視点とでもいうのかな。