スペイン旅行記(3) マドリードとトレド マドリードは名画の宝庫、古都トレドは町全体が博物館のような世界遺産だ。
2018年5月26日にフランクフルト経由でマドリードに入った。その翌日のマドリード、トレドの観光をまとめてみた。
プラド美術館は、歴代のスペイン王家のコレクションを展示する美術館。言うまでもなく、ベラスケス「ラス・メニーナス」(1656年)やゴヤの「カルロス4世の家族」(1801年)など、名画の宝庫。スペインの画家だけでなく、ティントレットやティツィアーノなどのヴェネティア・ルネサンス画家の作品もある。
スペインの美術館は館内写真撮影が禁止なのが少し残念。
「ラス・メニーナス」は遠近法で描かれているので、見る角度を変えると絵の見え方が変わるというのを実感できた。お土産で買った絵葉書を撮った写真をあげておこう。
真ん中は有名マルガリータ王女。左端の画家はベラスケス自身なんだそうだ。
次はゴヤの「カルロス4世の家族」。
王様を暗愚に、王女を意地悪そうに描いてるところがなんとも凄い(これには様々な見方があるようだ)。私には、こんな描き方をすればそのせいでせっかく得た宮廷画家の地位を失うのではないかと思ってしまう(そうはならなかったようだけれど)。でも、自分の見たものを内面を含めてそのまま描いていることに感銘する。左端の奥の方に自画像をいれているのもなんともいえない感じだ。これはベラスケスが「ラス・メニーナス」の左端の方に、絵を描いている自分を入れているのを倣ったとする説もあるようだ。
ゴヤの思いは、ゴヤの作品だけを飾った「ゴヤの部屋」に入るとありありと感じる。黒い絵の一群が展示されているのだが、その中の「我が子を食らうサトゥルヌス」の不気味さと言ったらない。さらに、「1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺 」(1814年)のメッセージ性が強く印象に残った。描きたいものを描きたいように描くゴヤの真骨頂を見たような気がした。
次はティントレット。
この絵は横幅5.3メートル、縦2.1メートルという巨大なもの。さすが、世界一巨大な油絵である「天国」をヴェネティアのドゥカーレ宮殿に描いたティントレットだけのことはある。
この絵も遠近法で描かれているので見る角度を変えると違う画に見える。
この絵の場面は、イエスの最後の晩餐に12人の使徒が集まった時に、イエスが使徒たちの足を洗ったという、ヨハネ福音書の一場面を描いたもの。真ん中にあるのが最後の晩餐のテーブル。奥に見える風景にはゴンドラが描かれているので場所の設定はヴェネティアになっている。後ろの方の柱の陰に隠れているのがユダ。
この絵の特筆すべきところはイエスが真ん中ではなく、右端に描かれていること。つまり、単純な賛美的な宗教画ではないというところが心に残る。
次に、ソフィア王妃芸術センターにやってきた。
たしか、本物と複製が展示されていて、どうも本物を見た感が乏しかったなあ。東京駅のオアゾで「ゲルニカ」の陶板製のレプリカをよく眺めていたこともあったかもしれない。
ここで一番印象に残ったのは、実はダリのこの絵。
とても有名で、いろいろな解釈がなされている絵だけれど、私にはちょっと違うものが見えてしまって、なんだかドキドキしてしまった。1.5メートルの幅の絵を真近で見るとなんだか圧倒される感じで、妄想がどんどん湧いてくる凄い絵だったなあ。やはり、絵は本物を見ないと伝わってこないものがある。
トレドに行く前に、マドリードのスナップ写真をいくつかあげておこう。
さあ、トレドにやってきた。
何の予備知識もなく、観光気分でやってきたが、タホ川の対岸から見たこの眺めにびっくり。まるで中世にタイムスリップしたかのようだ。
ウィキペディアで調べると、トレドは古代ローマの時代から町であったが、6世紀にはゲルマンの西ゴート王国になり、711年にはイスラムのウマイヤ朝に征服された。その後カトリックのカスティーリア王国になり、レコンキスタで中心的な役割を果たしたとある。
城塞都市としての名残りが感じられる。
旧市街の様子
トレド大聖堂に着いた。トレド大聖堂は、1226年に建設が始まり、1493年に完成したという歴史的な建物で、スペイン・カトリックの大司教座のある重要な教会だ。
ゴシック様式の聖堂内部を見学する。スペイン風のテイストが混じっているそうだ。
とても愛を感じる像で、ずっと眺めていた。
これはレコンキスタが終結したグラナダ戦争を描いているとのこと。
エル・グレコはここトレドの生まれで、トレドにはエル・グレコ美術館がある。この絵は教会からの依頼を受けて描いたものだが、イエスより上に人を描いたことと、画面左下に聖母マリア、マグダラのマリア、小ヤコブの母を描いたことが異端的で、教会からは不評であったという。その結果報酬を値切られたので訴訟になったとウィキペディアは言っている。なかなか面白いエルグレコの逸話だと思った。
トレドに行って、中世に思いを馳せたいい一日だった。
#スペイン #マドリード #トレド #プラド美術館 #ソフィア王妃芸術センター #ベラスケス #ゴヤ #ピカソ #ダリ #トレド大聖堂 #レコンキスタ #エル・グレコ
スペイン旅行記(2) グラナダ 「アルハンブラ宮殿の思い出」 パラドールがとっても素敵だった。
クラシックギタリストとしては、アルハンブラ宮殿に一度は行かねばならないと思っていた。
2018年5月29日の夕方にグラナダに入った。観光バスから送迎のバンに乗り換え、かなり丘を登っていって、パラドール・デ・グラナダに到着した。
【パラドール・デ・グラナダ】
アルハンブラ宮殿の訪問は今回のスペイン旅行のメインイベントのひとつ。思い出作りに、アルハンブラ宮殿の敷地内にあるパラドールに泊まることにした。一目見るだけで心がときめく。想像以上に素晴らしい雰囲気だ。
庭園に繋がっているテラスに出て、夕暮れ時の心地よいそよ風に吹かれながら、眼前に広がるグラナダの市街をながめているのはとても心地よい。
1492年、グラナダを陥落させ、レコンキスタを成し遂げたイザベル女王は、このイスラムのナスル朝の宮殿であった場所からどんな思いで当時のグラナダの街を眺めたのだろうと思いを馳せる。
そういえば、1492年はイザベル女王がジェノヴァ人のコロンブスと契約した年でもあったな。コロンブスの後、ピサロ、コルテス達がアメリカ大陸に渡り、インカ帝国を「銃・病原菌・鉄」(+聖書)で滅ぼし(1572年)、スペインは絶頂期を迎えるが、1588年にスペイン無敵艦隊がイギリスとオランダの連合軍に敗れたころから、覇権はイギリスに移っていき、オランダもアジアに勢力を広げていく。
背景に、宗教や王権と豪商たちとの複雑なからみあいはあるものの、東インド会社(1602年)が設立され、リスクビジネスに分散投資がなされ、他人が働いた成果である大きな儲けの分け前を投資家が得、それを再投資することでビジネスが発展し、ヴェネチア共和国が支配していた東地中海経由の東方貿易を、イギリスとオランダが大西洋のアフリカ周り航路を行く大型船で駆逐していく100年は歴史の激動期だなあ。
パラドールの建物もイスラム装飾が施された宮殿のようで、異国情緒たっぷりだ。
レストランでの食事も楽しかった。
ハモンはもちろん、ジュースが美味しかった。チュロスがあるのがいかにもスペインだな。
【アルハンブラ宮殿】
翌日は、朝からアルハンブラ宮殿を訪れる。
カトリックの宮殿と違い、絵や彫刻はなく、イスラム装飾の施された建物と空間を味わうことになる。
メスアール宮の入り口
繊細なアラベスクと美しい青(ラピスラズリなんだろうか)に目を見張る。
二姉妹の間
解説によれば、この部屋は、イスラム教の預言者ムハンマドが弾圧から逃れて籠った洞窟を表して造られたもので、八角形の天井は、預言者を追手から守った巨大な蜘蛛の巣を表し、5416個もの鍾乳石飾りが緻密な計算によって施されているそうだ。これは「ムカルナス」と呼ばれるイスラム建築特有のデザインで、繊細かつ精密な技巧は宮殿随一なんだそうだ。
大使の間
解説によれば、王が使節に謁見する大広間。天井は寄木細工で満天の星空をイメージして創られている。平面すべてに漆喰のアラベスク模様が施されている。
明るい外からやって来た使節はうす暗い大広間に入ると目がくらみ、後ろと前の光で王が光輝いて見える仕組みだった。この部屋でコロンブスがイサベル女王から宝石箱を受け取ったとも言われているそうだ。
これ以外に見事なアラベスク模様の装飾の写真をいくつかあげておこう。
アラヤネスの中庭に出る。アルハンブラ宮殿の中で最も有名なフォトスポット。
手前の池に建物の影が映っているのがいい感じだ。
ライオン宮にやってきた。
ライオン宮の2階は王のハーレムだったところ。中庭の真ん中にライオンの噴水がある。
ライオンの噴水
ギタリストとして、これが最も見たかった。
大昔に見たTV番組で、「アルハンブラ宮殿の思い出(1896年)」を作曲したフランシスコ・タルレガが、アルハンブラ宮殿を訪れた時に、このライオンの噴水から滴る水の音に、あの有名なトレモロで奏でられる美しいメロディの着想を得た、と言っていた(と今でも思い込んでいる)ことが40年近く頭に残っていたので。
実際にライオンに対面するも、水が出ていないので イメージが湧かない。ちょっと期待と違ったかなあ。昔は1時間ごとにライオンが順番に水を吐く水時計になっていたそうだ。
大昔に見たTV番組とは、多分1978年頃のNHKの名曲アルバムで、当時のイケメン人気ギタリストの庄村清志氏が、アルハンブラ宮殿の映像をバックに「アルハンブラ宮殿の思い出」を奏でていて、それに重ねる形で、前述の説明文がテロップとして流れていたように思うが、確証はない。その番組の影響もあって、「アルハンブラ宮殿の思い出」は結構真面目に練習して何とか弾けるようになったんだな。
YouTubeでもないかなあ、と思ってさがしたらこんなのがあった。
ペペ・ロメロの演奏。水を吐いているライオンも出てくる。今聴くと、噴水の水滴の音はトレモロの細かいメロディーラインというよりは、ベースラインに聴こえるんじゃないかと思える。
トレモロのメロディーと、コードの分散和音と2声のコーラスパートを合わせたような美しいベースラインをしっかり調和させて弾くのがこの曲の醍醐味ですね。
ライオンが12頭いるのは12時間を示す時計であるためだという事だが、1オクターブは半音12個に分割できる。そんな風に噴水で音楽を奏でたら楽しいのに、とも思ったな。
【フェネラリフェ宮】
5分ほど歩いてフェネラリフェ宮にやってきた。
ここにも人気のフォトジェニックなスポットがある。
池の長さは50メートルあるとのこと。
これ以外の美しいスポットの写真をあげてこう。夏の離宮らしく明るく開放的な雰囲気が素晴らしい。
外の眺めも素晴らしい。
【カルロス5世(1500-1558年)の宮殿】
アルハンブラ宮殿の隣にある。なんだか古代ローマのコロッセオみたいに見える。
カルロス5世とは神聖ローマ帝国皇帝としての名前で、スペインではカルロス1世になる。当時のスペインは全盛期と言える時期ではあたっだろうが、スペインは王様の出自により、神聖ローマ帝国の一部のようなものだったんだな。
この建物は、夏には毎年「グラナダ国際音楽舞踊祭」の舞台となるそうだ。素晴らしい音響効果が得られるということで、各種コンサート会場としても利用されているとのこと(歌ってみればよかったな)。
アルハンブラ宮殿を堪能した後は、バスで移動。白い街として有名なミハスに立ち寄った後、マラガ空港からバルセロナに向かった。
最後に、フォトジェニックな町として有名なミハスの写真をあげておこう。
ミハスの海(地中海の中のアルボラン海)の対岸はアフリカ、モロッコ。100km程度の距離なので天気が良ければアフリカ大陸が見えるそうだ。なんだか雄大な気分になる。ミハスから西に100kmぐらいいくと、ジブラルタル海峡に着く。行ってみたかったな。
ピカソはミハスの隣町のマラガの生まれ。そのせいか、街角の方々にピカソの粘土作りと思われる像があった。ミハスに小さなピカソ美術館があるそうだ。
ネスレのポスターになんとフェルメールの「牛乳を注ぐ女」が。窓まで描かれているのがいいね。
#アルハンブラ宮殿 #フェネラリフェ宮 #グラナダ #ミハス #イザベル女王 #パラドール #アルハンブラ宮殿の思い出
スペイン旅行記(1)バルセロナ アントニオ・ガウディの建築を見て回った一日
2018年5月31日にバルセロナを観光し、アントニオ・ガウディ(1852年 - 1926年)の建築を見て回った。
言わずと知れたガウディの代表作で、1882年の着工以来今も建設が続いている贖罪教会(信者の贖罪のための喜捨=寄附により建設する教会)。2026年に完成予定とされていたが、昨今の新型コロナの影響で喜捨(拝観料も含む)が減り、工事が遅れているとのこと。
東側の「生誕のファザード」に向かって池のこちら側から撮影したもの。
古いものと新しいものが無理やりくっつけられているなあ、というのが第一印象。工事用クレーンが動いているのが見えるのもちょっとなあ、という感じがする。仕方のないことだけれど。
「生誕のファサード」のある東側から入場する。
生誕のファサードは、太陽がのぼる東側に位置し、中央の「愛徳の門(慈愛の門)」、向かって右側の「信仰の門」、左側の「希望の門」で構成されている。
このファサードはガウディが存命中に着工したもので、この完成のために日本人彫刻家の外尾悦郎氏が石工職人として長年従事してきたのは有名な話ですね。
キリストの降誕の場面。真ん中のちょっと下、マリアの前にイエスがいるのがわかる(飼い葉桶に入っているのか)。横にいるのはマリアの夫のヨゼフ。上にいる天使が嬉しそうに笑っているのは感動ものだ。ヨセフの後ろにいるのは牛なんだろうか(イエスの生まれた家畜小屋には馬でなく、牛がいたらしい『イザヤ書』1章3節)。左にいるのは東方三博士のおひとりですね。
キリストの降誕の場面の上の、真ん中の上の方の部分は受胎告知の場面を表している。
左上の方でイエスの誕生を祝福して楽器を奏でている天使は外尾悦郎氏が手掛けたものとのこと(全部で15体あるとのこと)。
左の端にいる3人が東方三博士だな。右側の人々は犬を連れているので羊飼いたちだろう。
さて、中に入ってみる。
けっこう天井が高い。現代風のキューポラと思える。そして、その真ん中には十字架にかかるキリストの像がある。かなり斬新に思える。
このキリスト像の周りには、福音書を描いた4人の聖人のアイコンがある。赤い獅子は聖マルコ、緑の牛は聖ルカ、青い鷲は聖ヨハネ、黄い天使は聖マタイを示している(なにか仏教の四天王みたいだな)。
上の写真では聖マルコの赤い獅子と聖ルカの緑の牛のアイコンが見える。
ステンドグラスをじっくり鑑賞する。朝方、夕方など時間によって太陽の光の入る方が変わるので、きれいに見えるステンドグラスが移り変わっていくそうだ。
地下の礼拝堂にはガウディが埋葬されているそうだ。
エレベーターで塔の上まで昇る。そして螺旋階段を降りながら周りの景色と建物の様子を楽しんでみる。
サグラダ・ファミリアの螺旋階段は、「ダヴィンチ・コード」のダン・ブラウンの最新作「オリジン」でラングドン教授が大活躍するところ。「オリジン」の映画化の話はまだ聞かないが、トム・ハンクスがラングドンをやるとすると、結構きついシーンになるなあ。そんなことを思いつつ下っていく。
では、最後に日の沈む西側にある、受難のファサードを鑑賞しよう。
受難のファサードは、 カタルーニャ出身の彫刻家Josep M. Subirachs(ジョセップ マリア スビラックス)の指揮により完工したものだそうだ。
このファサードの彫刻は、最期の晩餐から、ユダの裏切り、キリストの磔刑、十字架降架までの13の場面を経て、キリストの昇天に至るまでの14の場面を表現しているとのこと。
【参考】 https://aoitrip.jp/facana-de-la-passio
なにか「生誕のファサード」と比べて、寂しい感じだが、これで完成している(現代風彫刻という事か)。
受難のファサード(正面)の写真の真ん中上、三角形の頂点の下のところがキリストの磔刑の場面。
その真下には、十字架を担ぐキリストと、キリストを哀れんだヴェロニカが身に纏うヴェールをキリストに差し出し、それでキリストの額を拭ったら、ヴェールにキリストの顔が浮かび上がる場面が描かれている(真ん中の顔はキリストの顔)。ヴエロニカの顔は何も彫られていない。
昇天したキリストは、実はかなり上にいる。受難のファザード(全体)の写真で小さく写っている。上から3分の1ぐらいのところに、2つの塔をつなぐ渡り廊下のようなものがあるが、そこに座っておられる。
このキスをする2人はユダとキリスト。キリストを裏切るユダは、キリストを捕まえに来た兵士たちがキリストの顔を知らないので、ユダが「自分がキスをする相手がキリストだ」と伝えていたことに由来する。兵士たちはこの2人の像の左側にいる。
この2つの像の間に合計が33になる魔法陣が描かれている。これは、キリストが昇天した年が33歳だったことに由来しているという説がある。
実はこの魔法陣は扉にも刻まれている。
残念ながら何が書いてあるのかはわからない。
もう一つ「栄光のファサード」というのが建設中だとのことだが、覆いがかぶされているのか、どこにあるのかはわからなかった。
お土産ショップでTシャツなどを買って、カサ・ミラに向かった。
【カサ・ミラ】
サグラダ・ファミリアから徒歩で向かった。
カサ・ミラはガウディが、実業家ミラ氏の邸宅として、1906年(ガウディ54歳)に設計し、1910年に完成させたもの。現在でも居住者が住んでいたり(家賃は当時と変わらない契約があって15万円だそうだ)、事務所として使われている部分もある。それ以外の博物館となっているところを見学する。
屋根裏に上がる。
「オリジン」でラングドンたちはこの通路を通ったと思うが、観光客は侵入禁止になっている。
屋根裏は博物館のようで、建物の模型や、ガウディの設計と思われる椅子が展示されている。
驚いたのは屋上に上がった時だった。
煙突に見えるが(実際に煙突の機能があるらしい)、これは、この家を守るガーディアン(守護神)達だそうだ。なんだかラピュタのロボット兵を思い出す。色がそうかなあ。もちろんこちらが本家。
ガウディらしい曲線の世界に浸って、異国に来たような気がする。床が波打っているので、上り下りが結構大変。
ガーディアンの説明文もある。煙突と誤解するなと書いてある。満月に生き返る巨人もいるそうだ。ファンタジーが素敵だ。
【カサ・バトリョ】
さらに歩いてカサ・バトリョに来た。
カサ・バトリョは、1877年に建設されていた、大繊維業者のバトリョ氏の邸宅をガウディが1904年から1906年にかけて改築したもの。この改築でガウディは、階段や内壁を作り直し、各部屋に曲線的なデザインを持ち込んで、タイルやステンドグラスの装飾を施したとのこと(ウィキペディアより)。
では中を見て行こう。
色彩と曲線がマッチしていて、こんな家に住みたいなあという気持ちになった。
【グエル公園】
最後にグエル公園の写真をいくつかあげておこう。
サルバドール・ダリはこの小屋と東屋を見て、「砂糖をまぶしたタルト菓子のようだ」と評したそうだ(ウィキペディア)。
【まとめ】
ここにあげた四カ所は全部世界遺産になってる。ガウディの曲線と豊かな色彩に溢れた世界を楽しめたいい一日だった。
#ガウディ #バルセロナ #世界遺産 #サグラダ・ファミリア #カサ・ミラ #カサ・バトリョ #グエル公園
イタリア旅行記(5)ヴェネツィア ドゥカーレ宮殿の華麗さに驚愕し、ヴェネツィア共和国千年の歴史に思いを馳せる
2017年7月9日の午後、ミラノからヴェネツィアに入った。
ヴェネティアはイタリア半島から4キロほど沖合の、ラグーナに浮かぶ(潟を埋めた)島である。外洋はアドリア海で、対岸はクロアチアになる。バスで行けるのは島の西側の、聖クローチェ区までで、そこから観光の中心地である、聖マルコ区までは、カナル・グランデ(大運河)を船で行くことになる。
ヴェネツィアの中は、車はおろか、自転車も禁止で、移動は徒歩か船になる。ヴェネツィアでタクシーというと、水上タクシー即ち、船になる。
ということで、聖クローチェ区の観光バスの駐車場から少し歩いて、波止場から船に乗ってホテルに向かった。
旅行トランクはポータ―さんが面倒を見てくれて、別の船でホテルに運んでくれる。
運河に面しているので、船がホテルに横づけされた。
さて、翌日は朝から観光を開始。まずはなんといってもゴンドラによる運河観光。
前方に見えるのはサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂。この教会は、1629年からイタリア全土を襲い始めたペストの終焉を聖母マリアに感謝するため、1631年から1687年の間に建立されたとのこと。「カナル・グランデの貴婦人」とも呼ばれており、ヴェネツィアン・バロックの傑作と言われていて、イタリアで一番写真が撮られる場所のようだ。
サン・マルコ広場は、1797年にヴェネツィア共和国を滅ぼしたナポレオンが「世界一美しい広場」だと言ったとか。
写真で見える、正面奥のサン・マルコ寺院、右手のドゥカーレ宮殿、左側の鐘楼の配置が美しい。フィレンツェのドゥオモ広場(+シニョーリア広場)と構成は似ている。
けれど、広場の広い空間と、この写真の背面がカナル・グランデで、その先に「カナル・グランデの貴婦人」と言われるサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂が見える。そういった、広場を移動しながらの360°の眺望と、海に向かって開けた解放感を感じれば、ナポレオンのいう事もむべなるかな、という感じだ。
さて、有名なサン・マルコ寺院に入場する。撮影禁止なので外観だけ。
サン・マルコ寺院は、ヴェネツィアの商人が828年にアレキサンドリア教会に行き、聖マルコの遺骸を持ち帰ってきて(聖マルコはアレキサンドリア教会の創始者と言われている)、それを保存するために建てられたもの。それ以来、ヴェネツィアの守護聖人は聖マルコになった。
正面にあるブロンズの4頭の馬は、塩野七生さんの本「海の都の物語」によれば、もともとローマのネロの凱旋門の上を飾っていたもの。それがコンスタンチノープルに持ってこられていて、第4次十字軍の時に、ヴェネティアの意向(策略)で、どういう訳か同じキリスト教徒(カトリックでない、ギリシア正教)のコンスタンチノープルを攻めることになり(この背景はとても複雑)、その戦利品として持ち帰ったものだという(1204年)。
聖マルコの遺骸といい、ヴェネツィア人は大切なものを持ち帰るのがうまいのかな。
鐘楼も美しい。上に昇ることもできるが、昇りそびれた。360°の眺望はきれいだろうなと思うと、ちょっと残念。
さあ、次はドゥカーレ宮殿。なんの予備知識もなしに入ったが、その絢爛豪華な内部に驚愕した。一見では、フィレンツェのヴェッキオ宮殿をはるかに凌駕している。
聖マルコのシンボルはライオン。ライオンはヴェネツィア共和国の国旗の図柄にも使われている。
手前のテラス席は有名なカフェ・フローリアンのもの。このカフェに行きそびれたのも後から思うと残念だったなあ。
さあ、ドゥカーレ宮殿に入ろう。
最初に見るのは黄金の階段。
24金の金箔で装飾されている。踊り場部分のひし形の模様は段になっているように見えるが、平面に描かれただまし絵。
次に、「4つの扉の間」に入る。ここは重要な部屋に入る前の控室のようなところ。
壁にはティツィアーノがある。
天井画もティツィアーノも素晴らしいが、これはまだ序の口。
「元老院の間」
時計があるのがなぜか印象に残る。そして、2つの時計は違う時間を示している。天井画はティントレットの「ヴェネティア逍遥」、金色の天井はヴェロネーゼの作。
次は「閣議の間」。大審議委員会と共和国執政府の会議に使われていたとのこと。
此の部屋の天井も壁もヴェロネーゼの作。
ヴェネツィアにとって、レパントの海戦(1571年)で、カトリック連合軍の一員としてオスマントルコの海軍を打ち破ったのは大きいことだったんだなあ。
さあ、宮殿で最大の部屋「大評議会の間(サーラ・デル・マッジョール・コンシーリオ)」に入る。
大評議の間 (この反対側の壁に有名な「天国」がある)
広さは25m×54mで面積は1350㎡もあり、2000人が収容できるそうだ。この巨大空間を柱なしで構築するために、当時世界一の造船大国でもあったヴェネツィアの造船技術が利用されたということだ。
単純な比較では、フィレンツェのヴェッキオ宮殿の500人の大広間の4倍のキャパシティになっている。
ヴェネツィアにはなぜ2000人もの人が集まる場所が必要だったのだろう、と思案する。
フィレンツェはある意味メディチ家の独裁だったわけだけれど、ヴェネツィアは共和制で、貴族階級の大評議会委員2000人が集まって、元首(ドージェ)を選ぶようなことをしていたのだろうか。
最も長く続いた共和国と言われるヴェネツィア共和国の政治体制と、1000年に渡る海洋国家としての繁栄との関係をもう少し調べてみたくなった。
壁と天井は、ティントレットやヴェロネーゼらの全部で53枚もの絵画で飾られている。そして、ここに世界最大級の油絵と言われる、ティントレット「天国」がある。
まあ、その巨大さ(25m x 7m) に目を見張る。
そして、天井にはベロネーゼ
ドゥカーレ宮殿は、ルネッサンス芸術の中のヴェネツィア派の作品の宝庫だ。ティツィアーノ(1490年 - 1576年)、ティントレット(1518年 - 1594年)、ヴェロネーゼ(1528年 - 1588年)を鑑賞することができる。
ドゥカーレ宮殿は、政治の中心でもあり、武器庫も備えている。
さらに、司法機能もあるので、監獄まである。この監獄の建物とドゥカーレ宮殿は「ため息橋」でつながっていて、その橋から囚人になったつもりで、外を眺めてため息をつくこともできる。
遠くにサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂が見えるのが泣ける。
この橋の名前の由来は、イギリスの詩人バイロンが、「囚人が牢獄に入る前にこの橋から外を見て、この世に別れを告げてため息をついた」と著作に書いたことにあるらしい。
また、「恋人同士がゴンドラに乗り、日没時にこの橋の下でキスをすると、永遠の愛が約束される」という伝説もあって、夕方は、この橋の下でゴンドラが渋滞するらしい。地元に伝わるこの伝説が有名になったのは、1979年のアメリカ映画『リトル・ロマンス』でそういうシーンがあったからとのこと。
ドッカ―レ宮殿を出てくると巨人の像(ネプチューン神とマルス神の巨像)と、巨人の階段が見える。
巨人の階段は元首(ドージェ)の就任式が行われたところ。
上には羽の生えたライオンの紋章が見える。
では、最後にこれ以外の観光写真をあげておこう。
これはサン・マルコ広場からの眺め。
この聖堂には、ティントレットの「最後の晩餐」と「マナの天降」の巨大な絵画が飾られているそうだ。
また、モネが夕暮れ時のサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂を1908年に描いている。
「黄昏、ヴェネツィア」 モネ - Atelier de Paris
ということは、夕暮れ時は絶景なんだな。これも見損なってしまった。
ヴェネツィアといえばまずはこのアングルの写真ですね。
もし、「2度目のヴェネツィア」に来るなら、是非泊まってみたいホテル「ダニエリ」。ヴェネツィア共和国時代の貴族の屋敷をそのまま使っていて、当時の様子が偲ばれると、塩野七生さんは著書の中で言っている。せめてロビーぐらい見に行けばよかったな。
NHK BSの「二度目のヴェネツィア」という番組で紹介されていたレストラン。ジョージ・クルーニーがお忍びでゴンドラに乗って来たことがあるらしい。番組で紹介されていた「スズキのグリル」ー魚の内蔵をオリーブオイルと混ぜてソースにしてかけて食べるーを試したかったのだけれど、満席で予約できず、残念。
手前のカップはフィレンツェで買ったジノリのデミ・カップ(フィレンツエの絵柄)。
ヴェネツィアはゴンドラに乗る観光地だという事と、シェークスピアのヴェニスの商人(1597年頃の作品)の思い込みだけで、あまり予備知識なく訪れてしまったけれど、ドゥカーレ宮殿を見て、ヴェネツィア共和国千年の歴史と文化に目を開かされた。
ヴェニスの商人を真面目に読んだことがなくて、ヴェニスの商人とはユダヤ人の金貸しのシャイロックのことだと誤解していたが、ヴェニスの商人(貿易商)はアントニオの方だったんだな。それで話がつながった。ヴェニスの文化はヴェネツィア人の(狂信的でないカトリックの)豪商たちが築いたものなんだな。
そういえば、日本人監督が良く賞を取っているヴェネツィア映画祭は、なぜ金獅子賞、銀獅子賞というのか今ならよくわかる。そしてその場所は、ヴェネツィア本島からアドリア海側にある細長い防波島である、リド島なんだ。
ヘミングウェイがよく来て「ベリーニ」というカクテルを飲んでいた、「ハリーズ・バー」も行くチャンスがあったのに逃してしまったなあ。ヴェネツィア映画祭の時には北野武もよく来ていたそうだ。
【イタリアより】文豪・ヘミングウェイが専用席をもつほどに愛した、ヴェネツィアの伝説のバーへ │ ヒトサラマガジン
「ベリーニ」とはヴェネツィア派の画家(1456年―1516年)の名前だと、今ならわかる。ヴェロネーゼやティツィアーノなどの先駆となった画家だな。
ああ、行きそびれたところがいっぱいある。塩野七生さんの本をどんどん読んで、また行きたい。
#ヴェネティア #ドゥカーデ宮殿 #サン・マルコ広場 #サン・マルコ寺院 #ティツィアーノ #ヴェロネーゼ #ティントレット
イタリア旅行記(4)バチカン 人が溢れ、シレンツィオでない、システィーナ礼拝堂で見た「最後の審判」
バチカン。2017年7月13日に訪れた。
バチカンをツアーで回ると以下の順で回ることになる。
①バチカン美術館
②システィーナ礼拝堂(ミケランジェロの天井画と、最期の審判の壁画を見る)
③サン・ピエトロ寺院の大聖堂(ミケランジェロのピエタなどを見る)
④サン・ピエトロ広場
その順番で写真をまとめてみる。
セキュリティを抜けると、中庭に入って入場の順番待ちになる。
待っている間にシスティーナ礼拝堂のミケランジェロ作品の説明を受ける(システィーナ礼拝堂の中は会話禁止なので)。
説明写真はこんな感じ。
右上の説明が有名な「アダムの創造」。その右下にあるのが「デルフォイのシビュラ(巫女)」。ギリシア神話の巫女をカトリックの総本山の礼拝堂の天井に描くところがミケランジェロだなあ、という事か。
システィーナ礼拝堂の天井画はミケランジェロが1508年に制作を開始し、1512年に完成させたもの。描かれているのは「旧約聖書」に記された「創世記」の9つのエピソードで、「天地創造」、「失楽園(アダムとイヴがエデンの園を追い出される)」、「ノアの箱舟」の3つのテーマで描かれているそうだ(ウィキペディア)。
「最後の審判」はミケランジェロが、天井画を完成後、1533年から1541年にかけて、システィーナ礼拝堂主祭壇の後壁面全体に描いた、1370cm × 1200cmという非常に大規模な作品。キリストの再臨と現世の終末を描いていて、天使に囲まれたキリストが生前の行いによって人々の魂を裁いている情景となっているそうだ(ウィキペディア)。
ミケランジェロは、宗教(カトリック)の縛りを離れて、ギリシア・ローマ時代のような生き生きとした人間を描くルネサンス芸術の巨匠と言われるけれど、描いているのは結局教会から依頼された宗教画だよなあ、と思う。
ところが、「最後の審判」でミケランジェロが最初に描いたキリストは裸体であったという。それを儀典長に非難され、結局弟子が着衣部分を描き加えたと言われている。なるほどなあ、ミケランジェロは宗教の縛りを超えた芸術を目指していたわけだ。納得です。
人間の生身の裸体、特に女性を描くようになるのは、ルネサンスの曙であるボッティチェツリがギリシャ神話を対象にした「ヴィーナスの誕生」を1485年に描き、ティツィアーノがさらに艶めかしい「ウルヴィーノのヴィーナス」を1538年に描き、レンブラントが1640年に「ダナエ」を、ゴヤが1800年に「裸のマハ」を秘密裏(着衣のマハの方が正式作品)に描き、ドミニク・アングルが1814年に「グランド・オダリスク」を描いたことを経て、マネが1863年に「オリンピア」と「草上の昼食」を描くことで、やっと成就する。ミケランジェロの時代から400年近くかかっているわけだ。
などと、フィレンツェでルネサンス絵画を見た時からの思いがつながる。
中庭には何かオブジェがある。
このオブジェは「球体のある球体(Sfera con sfera)」だそうだ。この直径4mのブロンズ製の球体のオブジェは、イタリア生まれのアルナルド・ポモドーロ(Arnaldo POMODORO)の作品で、1990年にヴァチカン美術館のために制作されたそうです。
この中庭はピーニァ(松ぼっくり)の中庭と呼ばれています。その理由は、松ぼっくりがあるから。
このピーニァはブロンズ製で、古代ローマの遺跡から発掘されたものだそうだ。松ぼっくりは豊穣のしるしであったらしい。
さあ、バチカン美術館に入場だ。
さらに進んでいく。回廊の両側に美術品がぎっしり。
バチカン美術館から、システィーナ礼拝堂に入っていく。5分ぐらい並んでたと思う。
さあ、入場。礼拝堂の中は、会話禁止、撮影禁止。なので、記念写真はない(中庭にあった説明図のみ)。
会話禁止ではあっても、「おー」、という感じなので、中国語、韓国語、スペイン語、などなど、いろいろな言語でのささやきがいたるところから聞こえる。
なので、警備員がひっきりなしに、「シレンツィオ、シレンツィオ(=Silence:静粛に)」と繰り返していて、かえってやかましい。
壁際が段になっていて、そこに腰かけて何分か天井を見上げていたと思う。不覚にも主祭壇の後壁面の『最後の審判』をしっかり見た記憶がない。
システィーナ礼拝堂は芸術の鑑賞というよりは、「来た、見た、写真取れなくて残念」の観光になってしまってちょっと失敗だったかな。
システィーナ礼拝堂からサン・ピエトロ大聖堂に入る。
入るとこんな感じ。写っている人の大きさからこの大聖堂がいかに大きいかがわかる。
サン・ピエトロ大聖堂は世界一の大きさを誇り、大聖堂の奥行きは216m、総面積は1万5160㎡。11の礼拝堂と45の祭壇があるそうだ。内部の装飾は主にベルニーニが担当し、キューポラやピエタ像などはミケランジェロが手がけたとのこと。
ベルニーニの大天蓋の上にミケランジェロが設計したキューポラがある。
大天蓋をしっかり見よう。
高さは29メートルもある。この真下に聖ぺテロが埋葬されているそうだ(だからサン・ピエトロ=聖ペテロ大聖堂)。柱が螺旋状であることをしっかり味わう。今思えば、聖ぺテロの司教座(1653年)をもっとしっかり見ておけばよかったと思う。
ベルニーニは他にも作品がある。
この彫刻は結構印象深くて、長い間見とれていたなあ。この作品は「ベルニーニ」が80歳の時に手掛けたもの。「アレクサンデル7世」はローマ教皇で、ベルニーニのパトロンであった。
ラファエロもある。
本物は「バチカン美術館」の絵画コーナー(ピナコテカ)で見る事ができるそうだ。
さあ、とうとうミケランジェロのピエタと対面(クリスタルケース越しだけれど)。
これぞ見たかったという感じでしばらく眺めていた。
これ以外に大聖堂で撮った写真をいくつかあげておこう。
この扉は、1950年の聖年祭に、スイスのカトリック信徒たちによって寄贈されたブロンズ製の扉で、聖書の物語の彫刻が刻まれているそうだ。なんだか、フィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂の「天国の扉」を思い出すなあ。
サン・ピエトロ大聖堂を出ると、サン・ピエトロ広場に出る。
最上階向かって右から二番目が法王の部屋。ご在室なのでよく見ると外側の窓が上に上がっているのがわかる。
バチカンの衛兵はスイスの衛兵である話が、「天使と悪魔」でも出て来たな。
バチカンを振り返ってみると、システィーナ礼拝堂の印象が脳裏に焼き付いていないのがちょっと残念。もう一度行きたいが、その前に鳴門の大塚美術館にいこうかなあ。
#バチカン #サン・ピエトロ大聖堂 #システィーナ礼拝堂 #サン・ピエトロ広場 #ミケランジェロ ピエタ #ベルニーニ
イタリア旅行記(3) ローマ 遺跡を巡って古代ローマに思いを馳せるのは意外に難しい
2017年7月13日、フィレンツェからローマ入った。
ローマに2泊して遺跡を巡った時の写真旅行記をまとめてみた。ヴァチカンは別ブログにしよう(長くなりすぎるので)。
まずはコロッセオ。
テルミニ駅近くのホテルからタクシーで行った。10分ぐらいで着いた。徒歩でも20分ぐらいだそうだ。
野球場よりは大きいなあと思う。中に入るとこんな感じ。
ウィキペディアによれば、長径188m、短径156mの楕円形で、高さは48m、約5万人を収容できたという。確かに野球場より大きい。
古代遺跡は、美術館で名画を見るのとは違って、全部が保存されているわけではない。なので、知識と想像力を使って当時の状況に思いを馳せることが必要となる。
ボーっと見てると単なる瓦礫みたいに見えてしまう。方々で修復工事をしているのも想像力のジャマになるなあ。
コロッセオの近くにこんなものがある。
コンスタンチヌス帝の凱旋門。315年完成。浮彫装飾が見事に見えるが、それらの半数はトラヤヌス帝・ハドリアヌス帝・アントニヌス帝の建築物から略奪したものだそうだ。そうと知らねば感慨も湧いてこない。(正直、なんかすごそうだからとりあえず写真撮ったというのが実情。それがなんだかは後から調べて知った。)
コロッセオの隣にあるフォロ・ロマーノに行くと、さらに想像力が必要になる。
ああ、カエサルやアウグストゥスが闊歩していた古代ローマの政治・宗教の中心地だ、という思いで入場するのだが、広い敷地の中で何をどう見ればいいのかちょっと戸惑う。
まず、こんな風景が目に入る。
神殿と言われても、柱8本だけなので、厳かな雰囲気を感じるのは難しい。
ウィキペディアで調べてみると、サートゥルヌスというのはローマ神話の神で、サターン(土星)と意味は同じ。農耕神とも、時の神とも言われているようだ。なんと、ゴヤの「黒い絵」の中にある、「わが子を食らうサトゥルヌス」のサトゥルヌスのことらしい。そのサートゥルヌスの神殿って、結局何よ? ローマ神話を知らないと厳しいなあ。
これ以外に撮った写真をいくつか並べてみる。(順路がどうだったか記憶が曖昧だなあ)
とても古いもので、この凱旋門がその後の凱旋門のモデルになったようだ。
これは外観があるので、この中にカエサルとかがいたのかと思うとちょっとときめいた。建物自体は復元品のようだ。
西暦601年、東ローマ帝国皇帝フォカスを称えて建てられた(13.6メートル。石柱は2世紀ごろに製作されたものの転用)。この記念柱は、フォロ・ロマーノに加えられた最後の建造物だそうな(ウィキペディアより)。
三本の柱がカストルとポルックス神殿の遺跡。紀元前の遺跡であると知ってびっくり。
フォロ・ロマーノの印象は「暑かった」。でも、建物の陰に入ったりすると、爽やかな風がそよそよと吹いていて心地よかった。
フォロ・ロマーノを出て、タクシーでナヴォーナ広場に向かった。
入ってみると、南北に長い広場であるとわかる。
ナヴォーナ広場のことを知ったのは、ダン・ブラウンの映画「天使と悪魔」で、ナヴォーナ広場の噴水に枢機卿が椅子に縛り付けられて沈められたのを、ラングドンが救う場面を見たのが最初だ。
その噴水とはこれ。ベルニーニ作「四大河の噴水」
アゴナリス・オベリスクの下に、バロック彫刻の巨匠ベルニーニの「四大河の噴水」がある。4大河(ナイル川、ガンジス川、ドナウ川、ラプラタ川)に見立てた4つの噴水の湧き出し口があり、その横にそれぞれの河を擬人化した彫像が創られている。それぞれの彫像がどういったイメージを表現しているのか想像するのは楽しい。
アゴナリス・オベリスクはエジプトの上ナイル川地域から掘り出された赤色花崗岩でできていて、西暦 81年から 96年にローマ皇帝であったティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌス(フォロ・ロマーノにあるティトゥスの凱旋門を作ったティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス帝(在位:79年 - 81年)の弟)が作らせたものだそうだ。
「四大河の噴水」と向き合う形で、ベルニーニのライバルと言われた、ボッロミーニが設計した「サンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会」がある。
このバロック時代の2人の名工の作品の対抗的な配置については「天使と悪魔」でも話があったな。そんなことを思いながら眺めてみる。
ナヴォーナ広場には、「ネプチューンの噴水」(北側)と「ムーア人の噴水」(南側)もある。
ムーア人の噴水は、ベルニーニがデザインして、アントニオ・マーリが彫ったもの。
ネプチューンの噴水の前のベンチに座ってジェラードを食べた記憶があるが、残念ながら写真は撮っていない(銃を持った軍人らしき人々が警備をしていたので彼らが映らないように遠慮したかな。)
ナヴォーナ広場を出て、スペイン広場まで歩いていける。その間にいくつかのオベリスクを見ることができる。
このオベリスクは、モンテチトーリオ宮殿の正面にある。モンテチトーリオ宮殿は17世紀末に完成し、1871年からはイタリア代議院(下院)の議事堂として使われているそうだ。
この記念柱は首相官邸であるキージ宮殿の前のコロンナ広場にある。
螺旋状のレリーフは、166年からマルクス・アウレリウス帝の死の直前まで行われたマルコマンニ戦争の物語を描いたものである。(ウィキペディアより)
さあ、スペイン広場に着いた。
スペイン広場から南に歩くとトレビの泉に着く。
どちらも「ローマの休日」の名所だ。
「ローマの休日」のネタでは、もちろん「真実の口」も確かめた。
「真実の口」は、サンタ・マリア・イン・コスメディン教会の外壁の一部である。
さらに、「ローマの休日」ネタでは、コロンナ宮殿にも行った。ここはアン王女(オードリーヘップバーン)が最後にマスコミと会見をした会場である。
コロンナ家は中世から続くローマ貴族の名門で、レパントの海戦(1571年)で連合艦隊副総司令官を務め、オスマン帝国の海軍を打ち破ったマーカントニオ・コロンナも一族の出身である(ウィキペディア)。いまだに一族がこの建物を財団化して維持しているとのこと(相続税があるので、貴族が財産を守っていくのは大変らしい)。
レパントの海戦で、オスマン帝国の海軍を打ち破った、カトリック連合艦隊(スペイン、ヴェネチア共和国、法王庁、マルタ騎士団等)副総司令官であったマーカントニオ・コロンナを讃える意味があるのかな。
美術品も収蔵している。
バロック絵画だが、何か印象に残る。印象派みたいに見えなくもないからかな。
さて、後は移動時に撮った写真をいくつか。
135年にハドリアヌス帝が自らの霊廟として建設を開始したもの(ウィキペディア)。プッチーニのオペラ「トスカ」(マリア・カラスのはまり役)の舞台となったところ。映画「天使と悪魔」でも使われていた。
1885年にイタリアを統一したヴィットリーオ・エマヌエーレ2世の記念堂
古代ローマ人の生活を上手く想像できないなあ。
最後に食事の写真をいくつか。
イータリーはローマで初めて行った。1,2階が食材売り場やカフェテリアで、3階がレストランだったと思う。
帰国後、懐かしさから日本橋三越や八重洲にあるイータリーにも行った。「ヴィーノ ビアンコ ペル ファボーレ」 「スィー」なんて会話が楽しかった。
#イタリア旅行記 #ローマ #コロッセオ #フォロ・ロマーノ #ナヴォーナ広場 #ベルニーニ #四大河の噴水 #コロンナ宮殿 #オベリスク #イータリー #スペイン広場 #トレビの泉
トルコの思い出 イスタンブールの異国情緒とボスポラス海峡を見た感慨は今でも思い出す。
2010年と2011年に仕事でトルコを訪問した。
その時のスナップ写真を整理してみた。
アヤソフィアは4世紀のローマの時代に建てられ、その後カトリック、ギリシア正教、イスラムの間での長い歴史があるが、訪問した当時(2011年)はアヤソフィアはまだ博物館だった(2020年7月24日にアヤソフィアはイスラム教のモスクに回帰した)。
ブルーモスクの中に入るには手足を洗うことが必要で、そういう洗い場があったような記憶がある。
アヤソフィアとブルーモスクはほぼ隣あわせで建っている。同行のトルコ人が案内してくれたが、どちらも外観見物だけで中には入らなかったと思う。
イスタンブールはこのボスポラス海峡の両側にまたがり、西側がヨーロッパ、東側がアジア。
イスタンブールはローマ時代のコンスタンチノープルであり、ビサンチン文化の中心地でもあった。そしてオスマン帝国の首都に。歴史の大きな接点となっていた街だなあとしみじみする。
海に近いせいか、魚が美味しかった。
朝食で食べた、ハチの巣の中に入ったハチミツの新鮮なおいしさが忘れられない。
イスタンブール空港の近くのホテルだったと記憶しているので、見えているのは黒海なんだろうと思う(もしイスタンブールの南側ならマルマラ海。自信ないなあ)
上の写真は全部イスタンブールのものだけれど、イズミールにも行った。
イズミールは街並みがギリシャみたいだと感じたが、そうだよねえ。トルコの西海岸は古代はギリシアだったんだからね。写真がないのが残念。塩野七生さんの本を読んでいると、その風景の感じ(結構丘だったような印象が残っている)をよく思い出す。
#トルコ旅行 #イスタンブール #ボスポラス海峡 #アヤソフィア #ブルーモスク