三島由紀夫vs東大全共闘の映画を見て思ったこと。

三島由紀夫。高校生の頃、「おれは三島と谷崎が好きだ。」と嘯いていた割にはその本質はわかっていなかったような気がする。

大学生の時に、豊穣の海を読んだけれど、「暁の寺」以降は難解で、理解できなかったことだけを覚えている。

一つ思ったのは、「ああ、これは輪廻転生の物語か。三島は時間をそういうものとして認識しているんだ。」という事。

最近、散歩で足を延ばして、三島由紀夫が最後に住んでいた家の前を通ったりするのだけれど、まだ「三島由紀夫」表札のある洋館の前はいつも静逸で、なにか時間が止まっているように感じる。そのたびに、「ああ、三島はここで「天人五衰」を書き上げて、市ヶ谷に向かったんだな。豊穣の海をもう一度読まなきゃ。」と思う。あの事件からもう50年もう経ったんだな。

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三島由紀夫vs東大全共闘」の映画。一旦新コロナ騒ぎで中断したが、やっと見ることができた。

印象に残ったことは2つ。「時間」と「天皇」を巡る議論。

東大全共闘の理論派のリーダーと言われる芥氏が「我々の目的は解放区を作り(安田講堂の占拠がその一例)、空間を制覇することで、時間をなくすこと。三島氏は日本に流れる時間に捕らわれていて、それだけで敗退している。」というような感じで挑発すると、

三島は「それでいいと思っている。私は日本人として生まれて日本人として死ぬ。それでいい。」と切り返す。

ここから、三島の発言は日本人であるという事と天皇が重なって来る。三島は天皇は日本の根底を支えているという。「日本は天皇の元でずっと国が続き、時間が流れてきた。そういう国は他にない。」という。

私は、この、「天皇が日本人の根底を下から支えている」ということばに深く思いをいたしてしまった。

天皇は国民の上に君臨しているのではない。国民の根底にあるのだと。

例えば、フランスの王様は、人民を支配していて、国民が食べるパンもないのに、自分たちはケーキなどを楽しんでいた。そういった王様は人民の敵なので、人民によってギロチンにかかってしまった。王室が途絶えても、新しいフランスが出来上がるだけのことで、何かフランスの大事なものがなくなった訳ではなかったんだろうと思う。

日本の場合、天皇は日本人の心の深いところにあって、天皇のいない日本という国はちょっと想像できない、というのが大抵の日本人の気持ちであろう。

この映画のハイライトは、三島が東大全共闘の連中に対して、「もし、諸君が天皇と言う言葉を発したならば、私は迷うことなく君たちの中に入っていっただろう。」と発言したところだと思う。

これに対し、全共闘の連中は冷ややかで、恐らく「自分たちが打倒したい体制の中にある天皇を認める訳なんかないだろう。」と思いこんでいたのだと思う。

しかし、私は、三島は、全共闘の連中が天皇を思う事の重要性に気が付くことで、その思想と行動が首尾一貫すると思っていたのではないかと想像するところがある。だからこそ、この討論を受けて立つ気持ちになったんではなかろうか。

なぜ、そんなことを思うかと言うと、映画の中で、あるコメンテーターが、「全共闘の根っこは60年安保にあるのです。その根底の思想は反米愛国なんですよ。」と言ったことにある。

あれ、そうなんだ。それって昔の尊王攘夷じゃないか。攘夷というか暴力だけでは単なるテロで、思想性がないがゆえに世の中を変える力にならない。世の中を変える力になったのは、尊王という思想があったからだと。三島はそういうことを言いたかったんだと妙に納得してしまう。

天皇という日本の精神を基軸にした自律した日本を取り戻す」という思想の重要性を全共闘が認識すれば、連中の行動は一本の筋が通り、三島は合流できると思っていたのではないだろうか。本当はそういう説得をしたくて、この討論を受けて立ったのではないかと想像してしまう。

ところが、映画を見る限り、三島は全共闘とのディベートを楽しみ過ぎてそのことを忘れてしまったんではないかと思えた。

三島は、「右でも左でも暴力を否定したことは一度もない。」と発言している。全共闘の連中も、芥氏の言うように、「時間の概念(ここは過去の歴史という事か)に縛られない解放区を作る。そのために既存勢力を打倒するための暴力を使う。」と、暴力を肯定しているわけだ。

しかし、暴力を使って解放区を作ったとして、それから全共闘は何を実現したかったのかが皆目わからない。そしてその解放区は東大の中だけでいいのか、東京の一部までなのか、はたまた日本全国なのかもわからない。

共産主義社会の実現を目指していたかと言うとそうではないだろう。コミンテルン日本共産党配下の民青は彼らの敵だったわけだし。芥氏はトロッキストと言って誰かを罵倒するが、トロッキストって誰の事を言っているのかわからない。暴力系新左翼のことなのか。じゃあ、解放区を作った後、どういう社会にしたいのか言って欲しいよな、と思った。

ゴールもなくただ現状否定で暴れているだけでは、全共闘は、人数だけはやたら多かった団塊の世代の、若気の至りのヤンチャな行為だったなあ。で終わってしまう。

実際には凡そそうなったとしか私には思えない(一部の過激化したグループのことは考えない)。

全共闘の闘士も、髪を切って就職面接に行ったり(流行歌にもなったな)、企業への就職は信条としてできないと思った連中は大学院に残って学問に情熱を注ぎ、その後何人も東大教授になっている。そういう面では東大も懐が深い。古き良き時代でしたね。

一方で、三島の言う、日本の根底を成している天皇のことを考えてみたくなった。

天皇は、万葉の時代から、人民の生活を気にかけておられたことが、この有名な舒明天皇の歌からもわかる。

大和には 群山あれど

とりよろふ 天の香具山

登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ

海原は かまめ立ち立つ

うまし国そ あきづ島 大和の国は

出雲に降り立った神々が、聖は出雲、俗は大和と定めてから、飛鳥、奈良の時代を超えて、天皇が俗な政治と関わってくるのは、江戸末期の尊王攘夷から明治、昭和20年までだろう。それとて、天皇家自らが望んでおられたことなのかどうかは私にはわからない。

日本の歴史を振り返ると、天皇家は続いてきたわけだけれど、ずっと政治権力の中枢にあって国民を支配してきたという訳ではない。平安末期から武家が政治の実態を支配するようになったけれど、天皇家は政治権力とは離れたところでずっと続いてきた。武家天皇家があることは当たり前のことだと考えていたのだと思う。

大河ドラマレベルの理解で行くと、慶喜大政奉還した時点で政治の執行権の名目は朝廷に戻った。

執行権を失った徳川家はどうしたかったのか。名目的な天皇の治世の元で、大名のトップであればいいと慶喜は思ったのかもしれない。一方の薩長土佐でも、山内容堂などは次の征夷大将軍は俺だ、などと思っていたかもしれない。

そういうアンシャンレジーム内での役員変更のようなことでは満足できない薩長の下級武士たちが(背後で支援するグラバーなど、イギリスやその他の勢力の思惑もあったろうが)、下級公家の岩倉具視とつるんで、徳川(フランスが支援)をなきものにしようとして、日本は内戦状態になった(戊辰戦争。先に薩摩を討とうとした慶喜も軽率だったが、徳川を支援するフランスの悪だくみもあったのかもしれない)。

そこで薩長側の岩倉具視が官軍の旗(のデザイン)をでっちあげ(大河ドラマの演出か?)、その威光「この旗に弓弾くは朝敵ぞ」でもって実勢を獲得して江戸城無血開城に至り、徳川の権勢は潰えた。ここで、天皇は統治の正統性を示す権威として使われたと言える。

この結果迎えた明治の時代は大政復古の朝廷政治になったのか、というとそうではなく、薩長がもともとの「尊王攘夷」は棚上げして、藩閥政治の元、文明開化と富国強兵に突き進む。

その明治の時代にあって、天皇大日本帝国憲法により君主としての位置付けがされてしまった。明治の時代にあって、天皇は君主=国王であったのだろうか。

国王は(権力闘争や武力を使って)「なったもの」であり、国民の上に君臨するけれど(たとえば大英帝国の国王)、天皇家は「最初から天皇家であり、ずっと天皇家である」。この二つは全く違う。これは別の言い方をすると「天皇家は日本という時間を作っている(その象徴が年号)。」という事ではないのか。これが三島の言いたかったことなのか、と今やっと気づく。

日本の国体を当時のドイツのような諸侯分裂をやっとの思いで取りまとめたような国の姿になぞらえること自体がおかしかったのではないかと思えてくる。

国王はしょせん人であり、人が人を治めるために、その上に立つ人は何らかの根拠というか、人を納得させるものが必要になる。

そのために、王権神授説のようなものが発明されて、西洋世界は俗なる王権とカトリックの聖なる権威を抱き合わせることで社会の構造が出来上がったと言える。

それをうまくやったのが、イギリス国教会を作った大英帝国。だからイギリスは世界に君臨できた。

それに対し、欧州は、神と人の間を仲介する権威を持つカトリック教会が腐敗した(免罪符など)ことに対して、人は教会の助けを借りずとも神と直接つながれるとする新教が起き、カトリックとつながっている国王を認めない共和的な動き(フランスの1800年代前半)と相まって聖と俗がごちゃごちゃになった大混乱の時代が続いた。

このような俗な権威付けを巡る争いを超越して、「天皇が時間として存在しているのが日本という国だ。」ということを言い切った三島はやっぱりすごいと思う。

「豊穣の海」で輪廻転生の世界を書き切った三島が、天皇の時間が流れる日本を取り戻すことを考えていた。そのことに気が付いただけでもこの映画を見た価値があった。

 

三島由紀夫 ♯全共闘