ワーグナーの「ニーベルングの指輪」をMETのライブヴューイングで全四夜見た。ヴォータンの思いを推し量ってみた。

ワーグナーの「ニーベルングの指輪」。何を描いているのかとても興味があった。しかし、この長大なオペラをまさか全部見ることはないだろうと思い、20年ぐらい前に図書館で本を見つけて4巻読んだ。

f:id:yoshihirokawase:20210922113238j:plain

あらすじはおおよそ理解したけれど、これをオペラにしたワーグナーの深い思いは多分感じられなかったと思う。

20年前と比べると、今の私は、「第九」など大規模合唱も経験して、多声の歌による表現(歌詞とメロディーと和声の組み合わせ)に興味が湧き、オペラを生で観たり、MET(ニューヨークのメトロポリタン歌劇場)のライブビュー―イング映画を映画館で観て楽しむようになった。

斬新なロベール・ルパージュ氏の演出による「ニーベルングの指輪」全四夜のMETのライブビューイング(2010年10月から2012年2月の舞台)が、東劇で再演されることを知り、こういう機会はめったにない、との思いから全部見た。

音楽だけで15時間(指揮者である、ファビオ・ルイージ氏のコメント)、4本の映画全体では、幕間の休憩や演者のインタビューなどを含めて、19時間15分の長丁場だけれど、得るものは多々あった。そのことを少し書いてみたい。

まず思ったのは、演者が歌うセリフの中に、あらすじの説明本では読み取りきれない、あるいは割愛されている、細かいニュアンスや本質的な言葉があって、それが歌とともに直接心に届いてくる、ということだ。

それを繋ぎ合わせていくと、ワーグナーの思いを、より深いところで感じることができたように思う。

それら思ったことを書き留めておきたいのだが、あらすじの説明を始めると長くなってしまうので、それはやめて、歌のセリフの中からそうだったのかと思いを巡らせたことを書いていきたい。

あらすじを知りたければ、このリンクがよさそうだ。

『ニーベルングの指環』あらすじと解説(ワーグナー)

さて、最初に強く思ったのは、「神々は契約によって世界を支配しているが、契約に縛られている不自由さがある」ということ。

その第一の象徴が、神々の長であるヴォータンの力の源泉である槍の柄(トネリコで出来ている)にルーン文字(古代ゲルマン文字)で契約がかかれていること。

ところが、ヴォータンは、その契約に縛られていることから逃れたいという動機をもっている、と私には思えた。

この契約から逃れると言う事が、もう一つのテーマである「指輪の魔力(ダークサイドのフォース)」と「死の呪い」に絡んでくるのだか、それはもう少し後で述べよう。

そして、ヴォータンは、この契約から逃れる(ある意味超越する)ことを考えていて、そのためには自由になることだ(Frei, Freiheit)と行動を起こす。

私は、この「Freiheit」という極めてゲルマン的な概念(既成権威の破壊)を、契約の縛りという対立概念にぶつけ、「Freiheit」そのものである人間の愛と、それの裏側であるダークサイドの「欲望」、「復讐」や「呪い」を絡めて話を大きく展開させているのが「指輪」の本題であると感じた。

そして、その自由を獲得するためには契約に縛られる神の世界を離れることが必要とヴォータンは考える。

そのため、自分がさすらい人となって人間界に降り、そこで人間と交わって子を作り(双子のジークムントとジークリンデ)、その者(ジークムント)に契約の超越を託そうとする。

そして、その者を守る役として、知の女神であるエルダとの間に娘をもうけて、ブリュンヒルデと名付けて、ジークムントを守護させようとする。

ブリュンヒルデのことを少し書くと、ブリュンヒルデは、ヴォータンが、正妻であるフリッカでなく、知の女神エルダとの間に作った婚外子の娘9人のリーダー格(長女)である。この女9人衆がワルキューレと呼ばれ、戦いで死んだ英雄をワルハラに運ぶのを本務としている。

このワルキューレが馬に乗って現れるシーンは舞台としても見もので、その時の音楽が「ワルキューレの騎行」である。「ホヨトホー」との掛け声とともにワルキューレが現れるのはなかなかのものだ

www.youtube.com

一方で、ヴォータンの正妻であるフリッカは、結婚という契約を司る神であり、人間との自由恋愛を楽しんで神の本分(契約の維持管理)を忘れているヴォータンに我慢がならない。

なので、ヴォータンに「神としての契約の義務」に関する論戦を挑み、打ち負かしてしまう。この場面はフリッカとヴォータンの歌合戦のような二重唱で演じられ、このオペラの見ものの一つだと私は思った。

フリッカとの論戦に敗れたヴォータンは、ジークムントに密かに与えたはずのノートゥングという無敵の剣を自分の槍で破壊し、そしてその槍でジークムントを殺してしまう。

ところが、ジークムントは自分の妹であるジークリンデと既に愛し合っていて、ジークリンデの腹の中には二人の間の子供が宿っていた。

それを知ったブリュンヒルデはヴォータンの意思に背いてジークリンデを逃がす。これに怒ったヴォータンはブリュンヒルデの神性を奪って山の中に眠らせてしまう。ここで「ワルキューレ(第一夜)」が終わる。

さて、もう一つのテーマである「指輪」だ。

もともとはライン川の河底に眠っている黄金は神々のものであり、それをラインの3人の乙女が守っていた。ところが、この乙女たちは地底人(二―デルハイムに住むニーベルング人)のアルべリヒに、ついうっかり、「ラインの黄金は、愛をなくしたものが鍛えることができる」と漏らしてしまう。

愛を持たないアルベリヒはその黄金を奪い、その黄金で人々を支配する力を持つ指輪を作る。そして、弟であり、鍛冶屋でもあるミーメに「それを被ると望むものに変身できる金の鎖でできた頭巾」を作らせる。

一方、ボータンは「ワルハラ」という神々の住む城を巨人族に作らせる。そして、その完成の折には報酬として、自分の妻(フリッカ)の妹のフライアを与えるという契約を独断でしてしまっていた。ワルハラが完成し、巨人族はフライアを求めるが、神々は猛反対。しかし、結局契約は守るべし、という事で、フライアを、それに代わるものが提供できるまでの人質として巨人族に渡してしまう。

困ったヴォータンは、地底に降りていき、だましうちのような形でアルベリヒから指輪、金の頭巾、金の財宝を奪い、それを全部巨人族に与えることでフライアを取り戻す。この話が「ラインの黄金(前夜)」だ。

さて、ジークムントが死んだ「ワルキューレ」から17年経って、ジークムントとジークリンデの子であるジークフリートはアルベリヒの弟のミーメに育てられている(16歳の男の子だ)。

ジークフリートという名前は自由の(Frei)勝利(Sieg)を示唆するような名前だ。

ミーメの目的はヴォータンに真っ二つにされたノートゥングを修復し、それをジークフリートに使わせて巨人族から「指輪」を奪う事。

しかし、鍛冶の名人のミーメでも、ノートゥングは直せない。ところが、ジークフリートは自らノートゥングを鍛え直してしまう。

ジークフリートがノートゥングを修復できたのは「恐れを知らない」からとされているが、もう一つ重要な要因があることが舞台を見ていたからこそ分かった。

それはジークフリートがふぃごを押して剣を鍛える時に、トリネコの木を焚べて、火力を一層強めたことだ。このことはもう一度後で述べようと思う。

さて、ジークフリートは、修復されたノートゥングを手に、「変身頭巾」を被って大蛇に化けていた巨人を倒して、「指輪」と「変身頭巾」を手に入れる。

ジークフリートはノートゥングに付着した、大蛇を殺した血を嘗めると、小鳥の声の意味が分かるようになる。

そして、小鳥から、ミーメがジークフリートを殺そうとしていることを聞いて、ミーメを殺す。そして、小鳥から「恐れを知らないお前は、岩山に眠るブリュンヒルデを手に入れることができる」といわれ、岩山に向かう。

ここで復習すると、ブリュンヒルデはヴォータンの娘(神)、ジークフリートはボータンの孫(1/4神)なので、叔母と甥の関係である。

さて、ジークフリートが岩山へ向かおうとすると、ヴォータン(さすらい人)が立ちはだかる。ジークフリートはこのさすらい人が自分の祖父であることを知らない。そしてヴォータンが行く手を阻もうとするので、争いになり、ノートゥングでヴォータンの槍の柄を打ち砕いてしまう。

ここは極めて重要なシーンだ。ノートゥングは、最初ジークムントが持っていた時は、ヴォータンの槍で真っ二つにされた。しかし、ジークフリートが鍛え直したノートゥングはヴォータンの槍の柄を砕いた。

それはなぜか。私が思うのは、ジークフリートが恐れを知らない(それは異性への愛をしらない、即ち守るものがない)ことだけでなく、ノートゥングをトネリコの木を焚べた強力な火で鍛え直したことにあると感じた。

トネリコというのは世界全体を表す木の事である。ボータンはその木の枝を槍の柄として使い、そこに契約を書いた。

ノートゥングは、最初ヴォータンがトネリコの木に刺しておいたが、それをジークムントがジークリンデに対する愛を力にして引き抜くことで手に入れた。しかし、それはヴォータンの槍に負けた。それは即ち、契約>愛という力関係を示している。

ジークフリートが修復したノートゥングは、トネリコを燃やすという力で強力に鍛えられていて、ヴォータンの槍を砕いた。それは、恐れ(=愛)をしらないという自由>契約という、ヴォータンが目指したことを計らずも実現してしまったことを意味しているように思う。

さらに、象徴的だったのは、ヴォータンはジークフリートに会う前に、眠っていた知の女神であるエルダを起こし、何かアドバイスを求めようとした。しかし、エルダから得るものはもうないということで、また眠らせてしまう。これはヴォータンが「知の限界」を悟ったかのように思えた。

ヴォータンは、この敗北の後、舞台からは消え去ってしまう。それは自由が神の契約を破壊したことを表しているように思えた。

さて、ヴォータンを退けた、恐れを知らないジークフリードは、ヴォータンがブリュンヒルデを守るために設けた炎のバリアーを(ノートゥングで薙ぎ払って)突破し、鎧に覆われて横たわる人物を発見する。

その防御の鎧を、ノートゥングの剣で破壊すると、そこからブリュンヒルデが現れる。するとジークフリートはその姿に初めて恐れを知る。そしてキスによってブリュンヒルデを17年の眠りから覚めさせる。

眠りから覚めたブリュンヒルデは「おお、ジークフリードよ、私を目覚めさせてくれてありがとう。」と言って、二人の愛の二重唱の歌いまくりになるのかと思っていたが、話はそんな単純な展開はしない。

まず、ブリュンヒルデは鎧が壊されたことで自分の神性がなくなったんだと思って、嘆き、ジークフリートを責める。そして長広舌が延々と続くが、最後には「笑って愛せ」とか「笑って死ぬ」とか難解な言葉を放つ。

ある意味、ここは浪漫の極致の場面なんだろうけれど、歌のやり取りを追っている限りにおいては、二人はここで深く愛によって結ばれたかどうかは私にはわかりずらかった(多分そうなんだろう)。

このように、ヴォータンが、神の契約を超越する力を持つものに与えようとしたノートゥングは、一旦は契約遵守に心変わりしたヴォータンに破壊されるものの、恐らくヴォータンの予定にはない、(人間との自由愛の展開の結果として出現した)自分の孫であるジークフリートの出現によって、事態は思わぬ方向に進んでいく。という風に私には見える。

恐れ(愛)を知らないジークフリートは、図らずも世界の力の源泉であるトネリコの力を使ってノートゥングを強化復活し、それとは知らずに神の力の源泉である契約が書かれたヴォータンの槍の柄を破壊してしまう。

そしてジークフリートは恐れを知り、自分の叔母との愛ある生活を始める。というのが「ジークフリート(第二夜)」だ。

さて、最後の「神々の黄昏(第三夜)」だ。

ここで初めて登場する重要な脇役は、指輪を作ったアルベリヒの子供であるハーケンと、そのハーケンの息子のギュンターと娘のグートルーネだ。

このグートルーネという名前は「良いルーン(文字)」という意味で、ヴォータンの杖にはルーン文字で神々の契約が書かれていたこととの関連が示唆されている。私はこの一見些細なことにこだわる。

私には、この「二―ベルングの指輪」という物語が、ヴォータンの持つ、神々の契約の象徴であるトネリコの槍の柄が、恐れ(愛)を知らないシークフリート(自由の勝利者)に、トネリコの木の枝を燃やす強い火力を使って、鍛え直したノートゥングの剣で粉砕されるところが第一テーマに思えている。

第二のテーマは「指輪」で、それは、もともとは神々のものであった黄金が、二―ベルング人(地底人)で、愛をなくしたアルベリヒによって奪われ、鍛えられて指輪になったもの。

それには魔力があって人を支配できるのだが、ヴォータンは火の半神ローゲとともに、だまし打ちのようにして指輪と「変身頭巾」をアルベリヒから奪う。それに怒ったアルベリヒは指輪に「死の呪い(それを所有したものは死ぬ)」をかける。

ヴォータンは、指輪を持ち続けたかったけれど、ワルハラを巨人族に作ってもらった契約で人質となったフライヤを取り戻すために指輪を巨人族に渡す。

すると巨人族の二人は指輪の取り合いをして片方が死ぬ。残った方の巨人はヴォータンから手に入れた「変身頭巾」をかぶり、大蛇になって指輪を守っていたが、鍛え直したノートゥングの剣でジークフリートに殺され、指輪は「変身頭巾」とともにジークフリートの手に渡る。

ジークフリートはその指輪をはめた手でノートゥングの剣を振るい、ヴォータンの契約の槍を破壊する。そうか、ヴォータンの槍を砕いた時にジークフリートは指輪の魔力を持っていたんだ。ヴォータンが敗れた原因に指輪の魔力がかかわっていると見ると、話は更に混沌としてくるなあ。そして、呪いの指輪を身に着けたジークフリートブリュンヒルデを得る。

ジークフリートは、その指輪を「愛のあかし」としてブリュンヒルデに渡し(これは呪いを渡したことになる)、ノートゥングを使って戦いを勝ち抜いて英雄となるべく旅立つ。

その旅先でジークフリートは、ハーケン親子に出会う。そして奸計にあう。

ギュンターはジークフリートに「過去を忘れる薬」を飲ませる(なんてこった)。すると、ジークフリートブリュンヒルデの事を忘れ、グートルーネに一目惚れして結婚の約束をする。

そして、ジークフリートは、ギュンターと、お互いの血を混ぜて飲み合って兄弟の契りを交わす。そして、兄ギュンターの嫁としてブリュンヒルデを連れてくる約束をする(ひどいぞ)。

それから、ジークフリートは、なんと「変身頭巾」を使ってギュンターになりすましてブリュンヒルデに会い、「指輪」を強奪した後、ギュンターのままでブリュンヒルデと夫婦としての一夜を過ごす(ここの演出は極めて微妙でドキドキするし、後の伏線になるところだ)。

朝になって、ジークフリートは本物のギュンターにブリュンヒルデを渡し、自分はグートルーネの元に飛んで帰り、ハーケンが用意している二組の同時結婚式の準備の輪に加わる。

そこにギュンターとブリュンヒルデが後から到着する。ブリュンヒルデは、そこに自分を認識しないジークフリートが、ギュンターが自分から奪ったはずの「指輪」をはめているのを見て、大混乱のあと激高する。そして復讐の心が芽生える(ブリュンヒルデも指輪をはめたからダークサイドに堕ちているなあ)。

するとすかさず、ハーケンが復讐の手伝いをすると言い寄ってきたので、ブリュンヒルデは思わず「無敵と見えるジークフリートにも弱点はある。それは背中だ。なぜならば、背中には私の祝福が与えられていないからだ(ギリシャ神話のアキレスみたいだなあ)」と、言ってしまう。

ハーケンはジークフリートを狩に連れ出し、狩のあとの集まりでジークフリートの背中を刺して殺してしまう。

その前に、ジークフリートは「忘れ薬」の解毒薬を飲まされていて、ブリュンヒルデの事を思い出しながら死んでいくのは結構切ないシーンだ。

このあたりの音楽は聴きどころで、「指輪」唯一の大規模男声合唱や、有名な「ジークフリートの葬送行進曲」が演奏される。

ジークフリートの葬送行進曲」はこれぞワーグナーという重厚さだ。地獄の底が抜けたかのような金管トロンボーン)が凄まじい。

www.youtube.com

ハーケンは、ジークフリートの遺体とともに戻ってきて、ジークフリートは大イノシシに襲われて死んだと作り話をする。しかし、グートルーネもギュンターもそれを疑い、言い争いが起きる。

そこに、「すべてを理解した」ブリュンヒルデが登場して、「ブリュンヒルデの自己犠牲」と言われる長広舌を延々と歌う(インタヴューで18分とか言っていた)。

www.youtube.com

そして、ブリュンヒルデは、ジークフリートの遺体から抜き取った指輪をはめて愛馬グラーネにまたがり、ジークフリートが火葬されている炎の中に飛び込む。

その炎は「ワルハラ」までを焼き尽くし、指輪は「ラインの乙女」に戻ることでこの物語は終わる。

最後にブリュンヒルデは(その場にいない)ヴォータンに向かって、「Alles weiss ich(私は全部わかっている)」 と言って炎に飛び込むのだが、ブリュンヒルデはヴォータンの意図をどう理解したのだろうか。

ヴォータンが最初にジークムントに託したかったのは指輪の奪還だけだろうか。それに成功したらヴォータンはその指輪をどうしただろう。元々あったラインの河底に返しただろうか。本当は自分が持ちたかったのではないだろうか。

私は、ヴォータンには誤算があったように思う。それは、自分が、契約を乗り越える自由を託すべく、人間との間に作った子供が双子の兄妹となり、その二人が愛を得てジークフリートを誕生させたことだと思う。自由な愛は管理できずに暴走するのである。

自分の孫であるジークフリートは、ヴォータンがジークムントに授けたノートゥングをトネリコで強化修復し、それを使ってヴォータンの契約の槍を砕いてしまう。これはヴォータンのもともとの筋書にはなかったことだろう。その背後には、ジークフリートが呪われたダークフォースを持つ指輪を手に入れたことがある。

さらに、ジークフリートは、ヴォータンに背いたことで罰を受けているブリュンヒルデを救い出し、孫と娘が夫婦になってしまう。

ジークフリートは「忘れ薬」を飲まされるという奸計にはまる愚かなところ(16歳は未熟だ)があるのが切ない(トリスタンとイゾルデの「愛の媚薬」をおもいだすなあ。ワーグナーの好きなシナリオだ)。

その愚かな行為が、愛を裏切られたブリュンヒルデに復讐心を目覚めさせてしまう。その結果、ブリュンヒルデジークフリートを滅ぼす手助けをしてしまう。その背景にはすべて「指輪」の呪いが関係している。

ブリュンヒルデは、ヴォータンの意思を「契約で自由を縛る神の時代は終わる。ワルハラを炎上させろ、愛の自由を謳歌せよ、愛の自由を妨げる邪悪な心は指輪とともに消滅させよ。」であると読み取ったのだろうか。

そうならば、なぜヴォータンはなぜ、最初から契約不履行となりそうなことがわかっているのに、ワルハラの建設を巨人族に依頼したのか。

壮大な「指輪」の物語。「わかった」というには程遠いが、何だかいまでも引きつけられていて、ヴォータンの心の内を思い続けてしまう。

その意味では、「指輪」の物語の主役はヴォータンだと思う。でも、「指輪」というオペラの主役は、ヴォータンの最愛の娘として登場し、男性主役を支え続け、最後の見せ場を演じ歌いきるブリュンヒルデかなあ。

余談になるけれど、カトリックの本質を歌う「レクイエム」には、Libera me(私を自由にしてください)という言葉が出てくる。これは神様を信じ、従うからこそ得られる自由のことだ。具体的には、Libera(=Liberty)とは、信心を得ることで地獄に堕ちる恐怖から自由になることだと思って、私は「レクイエム」を歌っている。

一方で、「指輪」の中で出てくる、Frei(Freedom、自由)は、神の契約から自由になる事に見える。このFreiという言葉はゲルマン語由来であって、ラテン語にはない。私の中では、LiberaとFreiは、神に近づくか、離れるか、真逆の概念に思える。

ラテン語圏の国は、Liberaの言葉に縛られて、教会の権威に従うカトリックに留まっているように見える。一方、ゲルマン語圏は、教会の制約から逃れる自由(Frei)を求めて宗教改革を起こした。という妄想が湧いてくる。

ワーグナーカトリックなのか、新教なのか私は知らない。

べートーベンの「第九」で歌うシラーの「an die Freude 」は、私には極めて新教的に聞こえる。それは、自らの信念に基づいて(教会の支援を必要としないで)直接神と繋がろうとすることを歌っていると思うからだ。

具体的には

Such' ihn über'm Sternenzelt!
Über Sternen muß er wohnen.

星空の上に神を求めよ
星の彼方に必ず神は住んでいらっしゃる

と確信をもって歌い、

Laufet, Brüder, eure Bahn,
Freudig, wie ein Held zum Siegen

兄弟よ、自らの道を進め
英雄が勝利を目指すように喜びをもって

と自ら行動を促すところだ。

それがロマンだ。カトリックはゴシックかバロックに留まる。

歌を通じて西洋のキリスト教に根差す精神世界の一端を感じられるところは、とても興味深いところだ。

さて、初めての「指輪」の鑑賞は、話の筋を追うことに注力し過ぎて、音楽を味わう余裕がなかった。これからCDやYouTubeで音楽の方をじっくり味わってみたい。

私は、正直言って、ワーグナーの、重々しい和声が、わかりずらい調性感で展開される音楽よりも、全編に歌が溢れて、自然に仕組まれた(長調を主体とした)調性の変化が心を浮き立たせてくれる、モーツァルトのオペラの音楽の方が断然好きだ。

ロマン派以降、調性感がだんだん崩れていって、音楽がわかりにくく、(短調が多くて、暗い響きで)感動しずらいものになっていったなあ、という私見を持っている。そんなこともいろいろ考えてみたい。調性感を宗教的な調和と関連付けるべきなのかどうかを含めて。

モダン=宗教の否定=調性を含む形式の否定、とするのは勝手だろうけれど、モダンになってつまらない、感動しないのであれば、モダンの意味って何だろう、とも思う。

それが解放(自由)即ち、進歩だと、言うかもしないけれど、ならば進歩することの価値って何よ、既成概念を破壊するだけでなにも生み出していないのでは、って思う。

形式による制約があるからこそ、美が表現できるという面があっていい。例えば韻文のように。ならば新しい形式を考えるのもアリだろう。

ここでも、「指輪」の提示している契約という縛りと自由の問題に戻ってくるのかな。