立花隆が紹介するテイヤール・ド・シャルダン(1881-1955年)が示す人類(サピエンス)の進化した未来(100万年後)の姿に思いを馳せる。ユバル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」を60年以上先行・凌駕している。人類の精神が一つに綜合されるユートピア。そこに神を見るのは自由だ。

立花隆の「サピエンスの未来」を図書館でたまたま見つけて読んでみた。

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これは、立花隆(1940-2021年4月30日)が東大の駒場で1996年の夏学期に行った「人間の現在」という講義の記録である。初回は500人が聴講したが、最後の講義まで残っていたのは80人程度であったと言う。

氏は、1995年に東京大学先端科学技術研究センター客員教授に就任し、1996年 - 1998年に東京大学教養学部で「立花ゼミ」を主催していた。その時の講義録ではあるけれど、発刊されたのは氏が亡くなるほんの少し前の2021年2月で、つい最近のことだ。

本書の出版の意義は、20年以上前の歴史的名講義の記念出版というよりも、現在でもその内容は人類の将来を考えるのに有意義な考え方を含んでいる点にあるという見方に私は同意する。

確かに、昨今の人工知能の急速な進化やメタバース的なネット空間と人間の精神活動との関係は氏の視野に入ってはいない。

しかし、氏が紹介するテイヤール・ド・シャルダン(1881-1955年:ダーウィンの「種の起源」は1859年、DNAの発見は1953年)が提唱した、人間の頭脳活動の綜合された全体である精神圏(ヌースフィア)を、今のネット社会の発展形の一つの到達点として見ると、今後人類はその精神圏の達成に向けて進化していくという考え方はとても説得力があった。

人間をモノとしてとらえると、その進化はクロマニヨン人の出現以来、そんなに大きくはなない。今後人間の進化はモノ(体)で起きるのではなく、脳内の精神活動の集約化で起きるとする。

生物的な進化によって、他の動物とくらべて差異的に巨大化した人間の脳の中で、ニューロンが多重的に連携しあうことで意識が生まれる。その意識(自分を客体視できる能力)による個々の精神活動が全体的に集約されて一つの到達点(オメガポイント)に達するという。

イエズス界の修道士でもあったテイヤール・ド・シャルダンはそのオメガポイントに神を見た。しかし、その考え方は異端であるとして、生前は発禁処分を受けていた。また、シャルダンは古生物学者北京原人を発掘したと言う。

氏の生物学は科学に留まらず、哲学や宗教の精神世界の探求に展開されたわけだ。

科学の立ち場では、人はアミノ酸からなる細胞で出来ているという、モノの視点を超えることができない。哺乳類の中で人を人たらしめ、そのヒエラルキーの頂点に君臨させている原動力は巨大な脳であり、さらに言えば脳の中で発生する意識である。

動物にも意識はあると言えるが、動物の意識は、個体としての生存戦略(生きるために何をするか)を超えるものは生み出さない。

自分を客体視して、自分を取り巻く自然に神を感じ、それを巨石を並べたり、壁画を描いたり(芸術)、歌ったり踊ったりして表すのはヒトだけである(動物が躍るのは生殖のため)。こういった行為を科学では説明できない。

こういった人だけが持つ進化の形態は、今後精神世界で進展していき、それは個々の精神活動の綜合によってなされるというのは、それこそ映画「マトリックス」の世界の先取りではないのか。マトリックスデストピアだけれど、シャルダンの精神圏は神に近づくユートピアだ。

ユバル・ノア・ハラリはその著書「ホモ・デウス」の中で、人間は神になると言ったけれど、それはシャルダンの言うオメガポイントの事なんだなと思う。シャルダンの深い洞察の先進性に瞠目せざるをえない。

少し読後メモを残しておこう。

・太陽系の誕生は46億年前。

・生命の誕生は35億年前(バクテリアの化石の存在)

・海がさまざまな物質を溶かし込み、太陽の光エネルギー、宇宙線の放射エネルギー、地熱エネルギーで化学反応を起こし、生命が生まれた。

・生命とは(物質とエネルギーの交換のできる半透性の)膜で区切られた中が恒常性を維持していること(代謝もある)。と考えると地球も生きている。

・ビッグバンでは真空が相転移して物質になった(物質と反物質のペア)。真空にはエネルギーが満ちてて、そのエネルギーが物質に転化(相転移)した(E=mc2乗)

・創成とは上層に移る相転移のこと。層には、無機物層、生命層、精神社会層がある。人は精神社会層で進化を継続している(動物は生命層に留まっている)。

・無機層は化学反応、生命層は自然淘汰、精神社会層は文化的圧力での淘汰で進化する。

・観察という行為は主観から切り離せないことをシャルダンは指摘している(量子力学の先取り)。

・三次元立体視ができることと客観的世界像把握ができることは等価。主観的世界像は自分を中心とした極座標系(2と1/2次元的)で見ているのに対し、客観的世界像はデカルト座標系(自分の立ち位置に依存しない、即ち3次元)で見ている。

立体視は脳内で計算をすることで出来上がっている(人は脳で見ている)。網膜センサーからの信号(2次元)がそのまま立体映像になるわけではない(ISPが必要。エッジ抽出をしないとものが認識できないのは映像認識AIロボットとおなじ)。

・断片的な情報から全体性を回復してしまう人間の自発的な能力について研究したのがゲシュタルト心理学。人間の認識の基本的な傾きとして(脳が勝手に)「まとめる」という事がある。

新約聖書は(おもにパウロ、その他ペテロ、ヨハネなどキリストの直接の弟子たちの)書簡集。その伝統を受け継いで、歴代カトリック法王は書簡や回勅を出してきた。最近では、「夫婦の避妊行為」、「共産主義者に投票することについて」なんてものもある。

・人類の一番遠い祖先の霊長類はメガネザルの祖先。

・脳の容積:チンパンジー(400㏄以下)、アウストラロピテクス(500-600㏄、200万年前)、北京原人(900-1000㏄)、現代人(1400㏄)。

・人間の脳や肉体、そして人間社会は自己組織化能力をもっている。それを人工知能に持たせるといい。 

(コメント)自己学習型のAIは、自己のもつ価値関数を最大化するようにニューラルネットのパラメータを改善していく。これはアルゴリズムの自己組織化の最初の一歩といえるかもしれない。

(コメント)人間が怪我をしても、その傷が治るのは自己組織化能力のせいだな。

・脳には大脳皮質だけで140億個の神経細胞がある。人間の全神経細胞の数は数千億個になる。それを繋ぐシナプスは細胞一つ当たり数千から数十万ある。ということはシナプスは脳全体で数百兆本になる。

・物質の結晶化や星の生成も自己組織化現象。

・自己組織化を複雑系の視点でとらえる。カオスはわけのわからない混沌ではなく、ある数学的構造を持っていて、アトラクターという状態に収束する。これが自己組織化の原理である可能性がある。

シャルダンはこの複雑性がこの宇宙を計る尺度であるとした。

・進化とは複雑性を高めること。それを説明する概念として逆エントロピーを考える。

・複雑さとは、エレメントの数ではなく、エレメントの間の結合の数と種類と緊密さが大事。

・良い複雑さは階層構造を作る(原子ー分子ー巨大分子)。

・複雑性がある臨界点を超えると、自律性が生まれる。それが意識へと発展していく。

・意識の上昇が進化を表す。

エントロピー(崩壊)と逆エントロピー(建設)は共存している。

・人はエレメントの数(細胞数ではクジラが最大)ではなく、複雑化(エレメント間の結合数)=意識の頂点に位置する。

・意識の主要な場は脳内の精神活動にある。

・動物は生命圏に留まるが、人間は精神圏で生きている。この考え方を延長すると超人とう概念に到達する。

・ヒトが共同生活を始めると逆エントロピーによって収斂する求心力が生じた。

・放散と収斂の繰り返しの中から創発(進化)が生まれる(進化の弁証法)。

カトリックは、神は土のちりで人を造り、いのちの息=精霊(Holy Spirit)をその鼻に吹き入れた、とする。神=精霊=キリスト(三位一体)が根本思想。神の息吹で人は生かされている。ここだけは譲れない。物としての人(精霊が入る前)に関しての進化論は禁じない。アダムとイブの原罪論がキリスト教の本質。

・人間の自由意志の扱いの差がカトリックプロテスタントの差(カントを思い出す)。

カトリックでは、原罪は遺伝する(DNAの概念はない)としてきた。これは4世紀にアウグスチヌスが言い出したこと。トレント公会議(1545年)でも同様。

ヨハネパウロ2世(ポーランド人、264代ローマ法王、1920-2005年)は1996年に旧約聖書の原罪論を文字通りに解釈することをやめて、間接的に進化論を容認した。旧約聖書は事実を書いたものではなく、ある宗教的心理を伝えるためのお話であった、とした。コアとして守るのは、ヒトの霊魂(Spiritual Soul)は神が作ったと言う事。人の本質は霊魂だから、人の肉体が物理化学現象によって進化論的に出来上がったとしても一向にかまわない。神はヒトを神に似せて(Imago Dei)作った。

・科学は観測と計測によって物質的状態を記述するだけのもの。

・スピリチュアルな領域に移った現象の記述は科学にはできない。

シャルダンは言う。生命の科学的な説明を世界の形而上的解釈と取り違えてはいけない。生きた細胞の物理化学的な仕組みを解明して霊魂を抹殺したと思う唯物主義的生物学者は誤っている。

・現代人とクロマニヨン人は肉体的には大差ない。違いは社会とのかかわりあい方。

シャルダンは、人間は超進化して超人間になると言う。これはニーチェの言う超人とは違う。

ニーチェは善悪の判断を神の規範にすべきでないと言う。その意味で「神は死んだ」となる。その神のない世界で善悪の判別を自らの創造的行為としておこなう者のことを超人(Uebermensch)と呼ぶ。超人は小市民的価値体系、幸福、規範を乗り越えて善悪の彼岸にたどり着く相転移をはたした高貴な人々の集団から発生する(人間はもう一段相転移的に進化する)。そして、神の前の平等という考え方はなくなる。

シャルダンは全地球的な人類の知のネットワークとして精神圏(ヌ-スフィア)というモノ考えていた。そして生物の進化は複雑化の歴史で、今後の人の進化は精神面で起こるとしていた。

・複雑化は小体化で起こる。小体化とはシステムを構成するエレメントが小さくなること。そうすることでエレメントの密度が高まり、より複雑な結合が起きてシステム構造の次元が上がっていく。

・精神圏のエレメントは人間である。人間をエレメントとする超分子構造をつくる(階層構造化による相転移を起こす)ことで高次構造体のシステムに移行する進化を起こす。それが一つのシステム(生き物)にまで到達する。(ニーチェの超人ような)人間個人の進化でなく、人間全体が一つになって高次元システムになる事をいっている。

シャルダンの考えが示すものは、人間よりはるかに高次な意識を持ったこのうえない素晴らしい生き物。それは、ホッブスが、国家を、人間というエレメントが集まってできた手に負えない巨大怪物(リバイアサン)に例えたのとは似て非なるものである。

・精神圏は人間の頭脳活動の綜合された全体のこと。物質は拡散するが、意識は収斂する。知識は人類共通の遺伝情報(人類共通の脳髄)とも言え、それを引き継いで進化できるのは人間だけ。その仕組みが教育。

・精神圏は「思考する巨大な機械(コンピュータのような道具も含めて)」で、それにふさわしい意識の高まりを見せ、宇宙的なヴィションを獲得する。

・現在より未来を優先させ、身の回りの事よりも全地球的な問題を重要と考える「ホモ・プログレッシブ」が出現する。そして、その「ホモ・プログレッシブ」はそうでない人々との間で分裂を起こす。現状維持派と進歩派の対立。それは進歩に対する信仰の違いが原因。そして、「ホモ・プログレッシブ」はテレパシーのような共感でお互いの結合を強めていく(ファンデアワールス力か)。(コメント: 地球温暖化の活動家達はそれは自分達のことだというだろうなあ)。

・近代的エゴイズムは個人を孤立化した粒子にしてしまった。今度は「(意識の)全体化」というベクトルが働き、人間化ではなく、人類化というより正しい方向に向かう。そして地球の単一な精神=超人間 が生まれる。

・意識の高次元化、人格化の流れの究極として出てくるのが神(キリスト=メシア=オメガポイント)。

・神はその全体が一切の中にある(どの部分にも神がある)。これはホログラムと言える(コメント)。

・「カラマゾフの兄弟」のゾシマ長老はフョードロフをモデルにしている。フョードロフは「共同事業の哲学」で、全人類が力を合わせてより高次の存在に能動進化を遂げることを言っている。また、世界を観照することが人間の目的ではなく、それに作用を及ぼし、自分の望むがままに世界を変えることが可能であるとして、革命の思想を下支えすることになった(それが本意かどうかはわからない)。

以上

パナマ産ゲイシャ種のコーヒー豆を買って、自宅のコーヒーメーカーで淹れてみた。とてもきれいな味。味と香りが一体となった不思議な感覚を味わう。

行きつけのコーヒーロースターで、年末だけあるパナマゲイシャ種を初めて買って、自宅の全自動コーヒーメーカーで淹れてみた。

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「樵のわけ前」という天然水で淹れたのだが、とてもきれいな味に仕上がった。


店主は、「きれいな紅茶にチェリーが加わったような味」と言っていたが、雑味や苦みは一切感じず、すこし温度が下がると柔らかい味が前に出てきて、温度が下がるほど味が増してくる。


その味は、味なのか香なのか分からないような類のものだ。そういう不思議な感覚を味わうのがゲイシャの楽しみかただと思った。


店で焙煎直後に、店主が「豆をひと粒食べてみてよ」、というので驚きつつも、食べてみた。苦みなどなく、うまい。食感は豆まきの豆みたいで、カリッとしていて、ほのかな香りと味の混じったものを感じる。しいて言えば、ほのかに甘い。その味がそのまま抽出したコーヒーに出てくるんだとコーヒーを飲みながら思った。


店主が「2回抽出してもいいですよ。むしろ2回目の方がおいしいかも。」というので、二番搾り、三番搾りもやってみた。


二番搾りも十分いける。スッキリさは勝っているように思った。三番搾りは放置しておいて室温になってから飲んだら、とてもおいしいお茶みたいに感じた。

今回はウォッシュ処理のゲイシャ豆を買ったが、ナチュラル処理のゲイシャ豆もあった。

店主は、ナチュラル処理の豆を上手に焙煎するのを売りとしているのだが、以前、ゲイシャだけは豆本来の味を引き出したいので、(果肉の部分が味に入ってこない)ウォッシュの方がいいといいっていた。

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今回、非常に珍しいゲイシャのナチュラルがあったので仕入れたとのこと。店主が試飲してみたら、味はけっこう濃いめになるが、その複雑さもいい。淹れてからお湯で割ったらさらに良くなったなんて言っていた。

さて、ナチュラルまで試そうか、どうか。三番搾りまで行けるなら、値段の高さも相殺されるかな。

モーツァルト、格別に心に響く。その理由は、自然から拾った肉声のような歌が、調性に捕らわれずに揺らいでいて、それが共鳴を手掛かりに連続的な転調で見事に解決されていく様子に魂が揺らぐからと、「K.545」を弾き、「レクイエム」を学び、小林秀雄を読んで思った、というお話。

多くの人が言う。「モーツァルトは他の音楽とは違う」と。

私も「モーツアルトか、それ以外か」というぐらい別格に思える。なぜなんだろう。

「それはモーツァルトが天才だからさ。」そうかもしれない。

それでは先に行けないので、モーツァルトモーツァルトたらしめている理由を言葉で理解したい。と、いうことで、碩学の書いた本をいくつか読んでみた。その後で自分の体験と対比して感想を述べてみたい。

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【モオツアルト】

小林秀雄は「モオツァルト」の中で、以下のようなことを言っている。

1)モオツァルトの主題は短い。その短いメロディが、作者の素晴らしい転調によって、魔術のように引き延ばされ、精妙な和音と混じり合い、聴く者の耳を酔わせるのだ。そして、まさにその故に、それは肉声が歌うように聞こえるのである。

2)モオツァルトの器楽主題は、ハイドンより短い。ベエトオヴェンは短い主題を好んで使ったが、モオツァルトに比べれば余程長いのである。言葉を代えれば、モオツァルトに比べて、(ベエトオヴェンは)まだまだメロディを頼りにして書いているともいえるのである。

3)長い主題は(ベエトオヴェンのように)観念の産物である。しかし、モオツァルトは主題を(観念から生み出さずに)自然から拾う(だから短い)。モオツァルトの異常な耳は、その短い主題のあらゆる共鳴を聴き分ける。

4)モオツァルトは大自然の広大な雑音のなかから主題を捉える。そしてその共鳴が、全世界を満たしているのがわかる。なので、モオツァルトはある主題が鳴るところに、それを主題とする全作品を予感する。それがモオツァルトがある手紙の中で言っている、「音楽は順を追って演奏されるのではなく、一幅の絵のを見るように完成した姿で現れる」という事の意味なのだ。

5)モオツァルトには、心が耳と化して聞き入らねば、ついていけぬようなニュアンスの細やかさがある(ハイドンにはない。ハイドンは主題的器楽形式の完成者ではあるが、歌がない)。一と度この内的な感覚を呼び覚まされ、魂のゆらぐのを覚えたものは、もうモオツァルトを離れられぬ。

6)モオツァルトの捉える、自然の中に生まれたばかりの不安定な主題は、不安に耐え切れず動こうとする。それはまるで己を明らかにしたいとねがう心の動きに似ている。それは本能的に転調する。主題が明確になることは、主題がある特定の観念なり感情なりとなれ合ってしまうので、それは死を意味する(モオツアルトの主題は転調するのでそうはならない)。これがモオツァルトの作曲の信条なのだろう。

(注) モーツアルトの主題は自然の揺らぎのように常に動いているので、絶えず転調している。それが生命を感じさせる。まず主題があって、それを音楽で表現した、という類のものは死んだ音楽である。というのが私の感想。

7)モオツァルトの音楽には、短い主題が矢継ぎ早にいくつも現れる(Divertmentoなど)。一つの主題をとらえきれぬうちに次の主題が現れ、僕らの心はさらわれて、魂だけになる。それがtristesse allante(疾走する悲しさ)となる。こういう矛盾した二重の観念を同時に思い浮かべるのが自然になる、というのがモオツァルトの世界。残酷な美しさ、とか、真面目な諧謔とか。

8)ベエトオヴェンは対立する観念を表す二つの主題を選び、それで強烈な力感を表現した。モオツァルトの力学は、はるかに自然であり、その故に隠れている。一つの主題自身が、まさに破れんとする平衡の上に慄えている。(四十一番のシンフォニーのフィナアレやハ長調クワルテット(K.465 )で説明)

9)ハイドン器楽的旋律に、モオツァルトは歌声の性質を導入した。

10)モオツァルトには、熟練(さまざまな音楽技術の修得、テクニック)と自然さとの異様な親和のうちに、精神の自由さを表現している。

11)モオツァルトの均整は、均整を破ることで得られているモオツァルトは音楽形式の破壊者である。モオツァルトは自由に大胆に限度を踏み越え、その思い切った傷口の治癒法を発明している。

(注)破壊するだけでなく解決しているんだ。それが調性を破壊しただけのロマン主義以降のモダンな音楽家達との大きな違いだな。

その解決の手法は揺らぎによる相転移だ(量子アニーラーか)。(感想)

12)モオツァルトの音楽の極めて高級な意味での形式の完璧は、彼以外のいかなる音楽家にも影響を与え得なかった。

13)なので、モオツァルトはハイドンとベエトオヴェンの間に橋を架けた、とういう見方は的外れである(同意)。

14)(蛇足的に)ハイドンは器楽的主題の音楽の形式の完成者ではあるが、歌がない。モーツアルトには歌しかない。楽器もすべて歌っている。モオツァルトのオペラは歌しかないので(オーケストラに声を加えることは歌う楽器の種類がひとつ増えたということ)、目をつぶって聞けばよい(演技や話の筋を追うのは本質と関係がない)。

(感想)ハイドンに歌がないと言われると、これからメサイアの合唱を習おうかと思っている身にはつらいなあ。器楽的に扱われる声の歌を学ぶのもいいのかな、と思うしかないな。モーツァルトのオペラを目をつぶって聴けと言われたら、オペラ業界は立つ瀬がないよなあ。オペラを見たい人はワーグナーヴェルディを聴け、かな。

さて、小林秀雄だ。

学生の頃に読もうとした記憶があるが、3行読んでは眠くなり、全然進まなかった記憶がある。

今回、2回読み直して、言いたいことが分かったように思う。氏は音楽家ではなく、リスナーの立場での物書きはあるけれど、私の疑問に相当程度言葉を与えてくれた。

モーツアルトは、

・音楽形式を破壊し、そして同時にその治療した姿をその音楽の中で示している。

(感想) ゆらぎによる破壊が他の層(調)への相転移(転調)による解決に至る。その自然なダイナミズムが人々に自然な喜びを与えているのだろう

・自然から聞き取った歌を自由に走らせるうちに、その揺らぎが調性の縛りを超えていき、それがかえって生命の生き生きとした感じを表わしていいる。

(感想)調性の中で落とし前をつけようとする音楽は息苦しくて、死んでいるように聞こえる。調性そのものを破壊してもその解決を示さなければ、音楽は崩壊する(現代音楽の一部)。

ここからは妄想なんだけれど、ハイドンの形式は、古典的な波動(安定的な正弦波)としての音のハーモニックス(共鳴)であるのに対し、モーツァルトの音楽は、量子力学的な波動であって、沢山の波束が揺らぎながらも、ボゾンみたいな巨視的なまとまりを持ちつつ、揺らいでいて、小さな相転移動的平衡と成長の混在)をすることで生命を表している、というようなことを思う。

そしてモーツァルトの聞き取る自然の共鳴は、量子的な波動関数の重ね合わせとその間の遷移を思い起こさせる。そして、その波動関数の重ね合わせの全体が一瞬でわかるので、その重なりを順を追って再現するための時間のパラメータがモーツァルトの頭の中では不要になっている(ループ量子重力論的だな)。

つまり、モーツァルトの音楽だけが、(量子論的な揺らぎが本質である)自然と生命の姿に整合していて、それが天下無双の歌となって私たちのこころに共鳴するのだろう。

小林秀雄のおかげで、わたしの思いが言葉によってかなり整理でき、量子物理的な妄想を得たのは、収穫だったと思う。

 

【音階の音楽家

次に、学生の頃に読んだ、吉田秀和の「主題と変奏」の中にある、モーツァルトを論じた、「音階の音楽家」という評論の事を少し話したい。そのエッセイのサブタイトルは、

モーツァルトって、いつもド・レ・ミ・ファばかりなんじゃないの(H.S.夫人)」だ。

ははは、確かにそう思っている人は多いだろう。

実は、大学生の頃の私は、それに近かった。20歳の頃、ロックを卒業(?)して、ピアノを中心にクラシックを聴き始め、レコードを買い、FMのエアチェックをたくさんした。

愛聴のピアノ曲は、主にショパンとベートーベンで(極めて普通だ)、たまに、バッハ、シューベルトシューマンドビュッシーを聴く程度。モーツァルトピアノ曲は一枚もレコードをもっていなかった。ハイドンは聴く気すらなかった。

その理由は、ピアノは、難曲を名人が見事に弾き切るのを聴くものであって、子供でも弾けるような音階だけのモーツァルトピアノ曲なんて、あえてレコードを買うまでもないや、という、とても表層的な理解でいたからだ。

でも、モーツァルトのピアノに興味がないわけではなく、FMでたまたま聴いた、ポリー二の弾くモーツァルトのピアノ協奏曲23番(のその明るさ)が一瞬で大好きになったことをよく覚えている。

ポリーニショパンエチュード集が愛聴版で、一番好きなピアニストはポリーニであったこともあるだろう。(ポリー二のブラームスピアノコンチェルト2番も大好きだ。でも、シューベルトのさすらい人はリヒテルでなくてはならない。あれ、話がそれた。モーツァルトに話を戻そう。)

いつからモーツァルトを至高のものとして大好きになったのかは覚えていない。

確かに言えることは、40歳を過ぎて初めてピアノを習い始め、まだ初心者なのに、軽い気持ちでモーツァルトのあの有名な16番のソナタ(K.545)の第一楽章を弾こうとしたことがあって、その時、身をもってモーツァルトの深さ、凄さ、に気がついた。

そして、自分がモーツァルトにすべてを見透かされているようで、モーツァルトがレクイエムで言っている、Profundo Lacu(底なし沼)に落ちたことを知った(どれだけ自己流で練習してもモーツァルトの音楽に到達できない。そして練習をすればするほどモーツアルトが好きになる。もう神への愛の境地か)。

ピアノ初心者は、音階練習をしないといけないのだが、「そんな無味乾燥な練習は嫌だな、そうだ、音階練習みたいなモーツァルトを弾けばいいんだ。」

そんな軽い気持ちでK. 545を習い始めたが、全く形にならない。弾いている自分が聴くのも苦痛なへたくそさだ。音階練習にすらならない。

「なぜなんだ、譜面ずらは単なる音階練習なのに(H.S夫人と同じだ)」

譜面はこうだ。

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ここで、吉田秀和氏が言う。

上の譜面の三段目の最初の小節のCis音(C♯)が新しい雰囲気をもたらし、動揺と緊張を氏の胸に引き起こすそうだ。

ハ長調の音階練習なら♯はいらない。弾いてみると実感するが、ここがハ長調を外れるC♯になってることで、音が生き生きしてくる。

(感想)ハ長調の音階で構成される(ダイアトニックコード)Dmのコード(短調)が、二長調のDコードになるともいえる。暗い短調のコードが嫌なのかな。

私の実感としては、音階練習なら16分音符で並べればいいものを、音階を昇降する最初の音が8分音符になっているところに、生き生きした動きを感じる。

最初ラからラへの音階昇降であったものが、自然にソーソ、ファーファ―、ミーミ、レーレと降りてきて、そこで、レで始まるニ長調を予感させるC♯が出てくる。そしてここから音階は高いドまで駆け上がり、その後Fの和音とGの和音で降りてくる。それはこの音階が後にヘ長調ト長調で再現されることを予告しているようだ。

もう、たまらなく心が動かされる。ところが、ここがピアノ初心者は、歌うようには全く弾けない。指のタッチがコントロールできないので、音階の階段がゴツゴツして踏み外したり、ころげ落ちることが頻発するのだ。

さらに、吉田氏は、ハ長調の主テーマが終わった後の展開部に言及する。

譜面はこうだ。

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ここは左手と右手が掛け合いをするところだ。左手が男性で、上昇音階で問いかけ、右手が女性で、下降音階で答える、そんな二声のアリアに聞こえる。

氏はここの音階の展開と転調にデモーニッシュな力を見ている。確かに♯と♭だらけだ。

私には、各音列が違う調である感じはするものの、それぞれが何調かと言われても、しっくりした答えが思い浮かばない。

こういった半音階の動きは、小林秀雄の言う自然な歌の揺らぎでもあり、調性の自由な展開の姿でもあるのだろう。

こういった揺らぎに起因する自由な明るさが表現できないと、音楽にならない。

逆に言うと、この譜面からどのような音楽を紡ぎ出すかは、演奏家の力量や音楽観を裸のままで示すことになる。なので、初級者が弾こうとすると力量のなさがモロにみえてしまって、それがかえってモーツァルトの魔力に魅せられることになる。

ここで、一流のプロが弾く、K545 をいくつか聴いてみよう。各人ニュアンスが違っているのが面白い。

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バレンボイム。私は、これを模範としたいなあ。

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リヒテル。素晴らしいけれど。この遅めのテンポでもいいんだっけ、とは思う。

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藤田真央。素晴らしいモーツァルト弾きだと思う。この演奏はかなり速めで、装飾音で遊んでいる。かなり自由を感じる。

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グレングールド。最初聴いた時は腹が立つほど変わっていると思ったが、今は結構好きかも。

この4名が「モーツアルト・コンクール」のファイナリストでこの曲の演奏で決着をつけるとすると、あなたは誰を選ぶだろうか。

【第2楽章】

私は10年ぐらいの間に、K545は3楽章全部を習ったが、発表会で弾いていいと言われたのは第2楽章だけだ。これも見た目は練習曲なんだけど、私がぼんやり弾くとほんとに練習曲になってしまう。

この第2楽章と真剣に向き合うと、ここまで魂を入れた演奏をすることになるのだ、といたく感銘したのが、この内田光子の演奏だ。

恐らくモーツァルトは、天から降って来る音符を書き留めるように、さらさらとこの曲を描いたのだろうけれど、その境地を表現するのは並大抵の事ではない。

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【レクイエム】

「レクイエム」を歌っていると、モーツァルトの半音階の揺らぎがもたらす音楽の深みを強く実感する。その中でも特に、「キリエ」を歌っている時が素晴らしい体験だ。

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キリエは 四声の各パートが「Kyrie eleison」と「Christe elesion」の二つを、歌詞(ギリシャ語)を引き延ばしながら、音列のパターンを変えつつ、歌い出しをずらして何度も重ねていく、複雑な二重フーガだ。

「Kyrie eleison」は、「主よ、憐み給え」と言う意味で、「Christe eleison」は、「キリストよ、憐み給え」という意味だ。

憐み給えと言うのは、私の罪へのお許し(=慈悲)をください (God have mercy on us)と言う事で、仏教の「南無阿弥陀仏」と同じような意味の、とても大事な言葉だ。

テノールは、「Christe eleison」で歌い出すのだが、最初はシ♮で歌い出す。2回目は「ファ」、三回目は「ド」、4回目は「ソ」だ。

難しいのはクリステエ、レエエエ、エエエエ、エエエエ、エエエエ、・・・イソンと、エエエエと細かい音列を刻むところの音階が毎回変わるところだ。

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31小節目は3回目のエエエエのところだけれど、4連符の始まりの音はレーレ―ミーミと全音で1回上がっている。

ところが、4回目のエエエエは35小節にあるのだけれど、ここはラ♭ーラーシ♭ーシ♮と半音階で3回上がっている。

ここの音列の半音精度を出すことが合唱団の質に繋がる大事なところで、レッスンで何度もダメ出しをされるところだ。

こういった、同じパターンを繰り返さずに、半音レベルで揺らいでいくところがモーツアルトの本質なんだろうと練習していて思う。

一方、「Christe eleion」のテノールの歌い出しはこうだ。

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11小節目、レーレ、ド♮、ファ、ソ♯ーソ♯、ラと、長調で歌う。

ところが、2回目に歌う時(次頁で不掲示)には、これがレーレ、シ♭、ミ♭、ファーファ、ソ♯と、同じレで始まっても、音の上りが低くて、短調に変わっている。

こういう半音の変化による調性の揺らぎもとても心に沁みる。

キリエを歌っていると、この2つの主題の半音階の揺らぎや、調性の変化がもたらす複合的かつ調和のある音場の中にいるのがとても素晴らしい経験になる(はずだ)。

 

【調性で読み解くクラシック】

YAMAHA銀座店でたまたま見つけて読んでみた。

ハ長調は♯や♭がないので明るく真っ白なイメージとか、

ニ長調(D)はDeusを連想するので、祝祭的である(モーツァルトやベートーベンもそれを意識して曲を書いた)、とか言われてもなんだかな、という感じだ。

ヘ長調は自然を感じる調だと言われるが、それはベートーベンの田園がヘ長調だからなのか、もともとへ長調にそういう感覚が備わっているのか。もし後者だとしたらその理由を知りたいんだけどなあ、と思う。ベートーベン先生に、田園でへ長調を選んだ理由を聞いてみたいよ。

私の好きなA♭や、D♭はピアノが弾きやすい調(同意)なので、ピアノの名曲が多いなんて説明もある。

楽器の都合で調の特徴をいわれてもねえ。

楽器の成り立ちから見て、弦楽器は#系の調が得意で、管楽器は♭系の調が得意だという(納得)。作曲者は楽器の得意、不得意な調を意識して、その曲の調性を決めるという「へー」という話もある。

確かに、クラシックの合唱でも、テノールはラまで、ソプラノはシまで、と最高音を決めている感じはする(声だって楽器の一種だ)。その制約で合唱曲は作るんだろうなあ。

ピアノでコードを右手でおさえてみて思うのだけれど、ドからドの1オクターブをドーミーソードとおさえるとCのコードになる。明解な和音だけれど、なんだかおさえにくい。

そこで、人差し指を親指側に近い黒鍵に置き、中指を小指に近い黒鍵に置くと、C-E♭-A♭-Cになって、A♭の展開系のコードになる。私はこちらの方が指も落ち着くし、和音もしっとり落ち着いた感じに聞こえるので好きだ。

その理由が知りたいのだけれど、その類のことは本書であまり触れていない。心理学とか、脳の音に対する反応の仕組み(個人、そしてヒトとして持っている記憶との照合を含めて)まで行かないといけないのだろうなあ。でもそれで説明されたとしても、それが何か?、私はこの音が好きだ、でいいじゃないか、という意見もあると思う。

本書には、なぜ短調は悲しく感じるかについて、こんな記述がある。

人は自然倍音になる共和音(高調波が共振する)を気持ちよく感じる。

ドとソは 周波数(音の高さ)が2:3なので、ドの3倍音とソの2倍音は共振する。

ドとミは4:5の関係。ここまでが人間の耳にハモって聴こえる共和音。

なので、ドミソはよく響いて明るく、それを長調と呼ぶ。

一方、ドミソの和音の真ん中のミをミ♭に下げる(三和音の真ん中の音にストレスをかける)と、ドとミ♭は5:6の関係で、これはあまり響いているとは言えない(不調和音の入り口)。なので、ストレスを感じて暗い響き(あまり響いていない)に聞こえる。

と、いうことのようだ。

これだと長調短調の違いは分かっても、ハ長調ヘ長調の違いは判らないなあ。基音の高さ(ドかファか)の違いや、ピアノでは平均律からくる微妙な共振周波数からのズレの影響が調によって変わることもあるのかもしれないが、そういった説明は見つけられなかった。

 

【最後に】

小林秀雄の「モオツアルト」から自分のピアノと歌によるモーツァルト体験の感想、調性の基本まで、長いブログになってしまった。

音楽を調性の形式の中に押し込めてしまうと、堅苦しく、音楽が本来持っている自然な揺らぎを殺してしまい生命力がなくなる。モーツアルトはその自然な揺らぎを、そのまま表現することができて、結果として調性という形式を超越したところで生命力のある音を紡ぎ出し、それが人の心に響くのだろう。と思った。

形式のないところに表現はない。だけど、一流の表現はその形式を守っているように見えて、その形式を、露わには感じないように、乗り越えているんだ、そのIMPLCITな感じ(非顕在性)が美しいんだな、と思った。

ワーグナーの「ニーベルングの指輪」をMETのライブヴューイングで全四夜見た。ヴォータンの思いを推し量ってみた。

ワーグナーの「ニーベルングの指輪」。何を描いているのかとても興味があった。しかし、この長大なオペラをまさか全部見ることはないだろうと思い、20年ぐらい前に図書館で本を見つけて4巻読んだ。

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あらすじはおおよそ理解したけれど、これをオペラにしたワーグナーの深い思いは多分感じられなかったと思う。

20年前と比べると、今の私は、「第九」など大規模合唱も経験して、多声の歌による表現(歌詞とメロディーと和声の組み合わせ)に興味が湧き、オペラを生で観たり、MET(ニューヨークのメトロポリタン歌劇場)のライブビュー―イング映画を映画館で観て楽しむようになった。

斬新なロベール・ルパージュ氏の演出による「ニーベルングの指輪」全四夜のMETのライブビューイング(2010年10月から2012年2月の舞台)が、東劇で再演されることを知り、こういう機会はめったにない、との思いから全部見た。

音楽だけで15時間(指揮者である、ファビオ・ルイージ氏のコメント)、4本の映画全体では、幕間の休憩や演者のインタビューなどを含めて、19時間15分の長丁場だけれど、得るものは多々あった。そのことを少し書いてみたい。

まず思ったのは、演者が歌うセリフの中に、あらすじの説明本では読み取りきれない、あるいは割愛されている、細かいニュアンスや本質的な言葉があって、それが歌とともに直接心に届いてくる、ということだ。

それを繋ぎ合わせていくと、ワーグナーの思いを、より深いところで感じることができたように思う。

それら思ったことを書き留めておきたいのだが、あらすじの説明を始めると長くなってしまうので、それはやめて、歌のセリフの中からそうだったのかと思いを巡らせたことを書いていきたい。

あらすじを知りたければ、このリンクがよさそうだ。

『ニーベルングの指環』あらすじと解説(ワーグナー)

さて、最初に強く思ったのは、「神々は契約によって世界を支配しているが、契約に縛られている不自由さがある」ということ。

その第一の象徴が、神々の長であるヴォータンの力の源泉である槍の柄(トネリコで出来ている)にルーン文字(古代ゲルマン文字)で契約がかかれていること。

ところが、ヴォータンは、その契約に縛られていることから逃れたいという動機をもっている、と私には思えた。

この契約から逃れると言う事が、もう一つのテーマである「指輪の魔力(ダークサイドのフォース)」と「死の呪い」に絡んでくるのだか、それはもう少し後で述べよう。

そして、ヴォータンは、この契約から逃れる(ある意味超越する)ことを考えていて、そのためには自由になることだ(Frei, Freiheit)と行動を起こす。

私は、この「Freiheit」という極めてゲルマン的な概念(既成権威の破壊)を、契約の縛りという対立概念にぶつけ、「Freiheit」そのものである人間の愛と、それの裏側であるダークサイドの「欲望」、「復讐」や「呪い」を絡めて話を大きく展開させているのが「指輪」の本題であると感じた。

そして、その自由を獲得するためには契約に縛られる神の世界を離れることが必要とヴォータンは考える。

そのため、自分がさすらい人となって人間界に降り、そこで人間と交わって子を作り(双子のジークムントとジークリンデ)、その者(ジークムント)に契約の超越を託そうとする。

そして、その者を守る役として、知の女神であるエルダとの間に娘をもうけて、ブリュンヒルデと名付けて、ジークムントを守護させようとする。

ブリュンヒルデのことを少し書くと、ブリュンヒルデは、ヴォータンが、正妻であるフリッカでなく、知の女神エルダとの間に作った婚外子の娘9人のリーダー格(長女)である。この女9人衆がワルキューレと呼ばれ、戦いで死んだ英雄をワルハラに運ぶのを本務としている。

このワルキューレが馬に乗って現れるシーンは舞台としても見もので、その時の音楽が「ワルキューレの騎行」である。「ホヨトホー」との掛け声とともにワルキューレが現れるのはなかなかのものだ

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一方で、ヴォータンの正妻であるフリッカは、結婚という契約を司る神であり、人間との自由恋愛を楽しんで神の本分(契約の維持管理)を忘れているヴォータンに我慢がならない。

なので、ヴォータンに「神としての契約の義務」に関する論戦を挑み、打ち負かしてしまう。この場面はフリッカとヴォータンの歌合戦のような二重唱で演じられ、このオペラの見ものの一つだと私は思った。

フリッカとの論戦に敗れたヴォータンは、ジークムントに密かに与えたはずのノートゥングという無敵の剣を自分の槍で破壊し、そしてその槍でジークムントを殺してしまう。

ところが、ジークムントは自分の妹であるジークリンデと既に愛し合っていて、ジークリンデの腹の中には二人の間の子供が宿っていた。

それを知ったブリュンヒルデはヴォータンの意思に背いてジークリンデを逃がす。これに怒ったヴォータンはブリュンヒルデの神性を奪って山の中に眠らせてしまう。ここで「ワルキューレ(第一夜)」が終わる。

さて、もう一つのテーマである「指輪」だ。

もともとはライン川の河底に眠っている黄金は神々のものであり、それをラインの3人の乙女が守っていた。ところが、この乙女たちは地底人(二―デルハイムに住むニーベルング人)のアルべリヒに、ついうっかり、「ラインの黄金は、愛をなくしたものが鍛えることができる」と漏らしてしまう。

愛を持たないアルベリヒはその黄金を奪い、その黄金で人々を支配する力を持つ指輪を作る。そして、弟であり、鍛冶屋でもあるミーメに「それを被ると望むものに変身できる金の鎖でできた頭巾」を作らせる。

一方、ボータンは「ワルハラ」という神々の住む城を巨人族に作らせる。そして、その完成の折には報酬として、自分の妻(フリッカ)の妹のフライアを与えるという契約を独断でしてしまっていた。ワルハラが完成し、巨人族はフライアを求めるが、神々は猛反対。しかし、結局契約は守るべし、という事で、フライアを、それに代わるものが提供できるまでの人質として巨人族に渡してしまう。

困ったヴォータンは、地底に降りていき、だましうちのような形でアルベリヒから指輪、金の頭巾、金の財宝を奪い、それを全部巨人族に与えることでフライアを取り戻す。この話が「ラインの黄金(前夜)」だ。

さて、ジークムントが死んだ「ワルキューレ」から17年経って、ジークムントとジークリンデの子であるジークフリートはアルベリヒの弟のミーメに育てられている(16歳の男の子だ)。

ジークフリートという名前は自由の(Frei)勝利(Sieg)を示唆するような名前だ。

ミーメの目的はヴォータンに真っ二つにされたノートゥングを修復し、それをジークフリートに使わせて巨人族から「指輪」を奪う事。

しかし、鍛冶の名人のミーメでも、ノートゥングは直せない。ところが、ジークフリートは自らノートゥングを鍛え直してしまう。

ジークフリートがノートゥングを修復できたのは「恐れを知らない」からとされているが、もう一つ重要な要因があることが舞台を見ていたからこそ分かった。

それはジークフリートがふぃごを押して剣を鍛える時に、トリネコの木を焚べて、火力を一層強めたことだ。このことはもう一度後で述べようと思う。

さて、ジークフリートは、修復されたノートゥングを手に、「変身頭巾」を被って大蛇に化けていた巨人を倒して、「指輪」と「変身頭巾」を手に入れる。

ジークフリートはノートゥングに付着した、大蛇を殺した血を嘗めると、小鳥の声の意味が分かるようになる。

そして、小鳥から、ミーメがジークフリートを殺そうとしていることを聞いて、ミーメを殺す。そして、小鳥から「恐れを知らないお前は、岩山に眠るブリュンヒルデを手に入れることができる」といわれ、岩山に向かう。

ここで復習すると、ブリュンヒルデはヴォータンの娘(神)、ジークフリートはボータンの孫(1/4神)なので、叔母と甥の関係である。

さて、ジークフリートが岩山へ向かおうとすると、ヴォータン(さすらい人)が立ちはだかる。ジークフリートはこのさすらい人が自分の祖父であることを知らない。そしてヴォータンが行く手を阻もうとするので、争いになり、ノートゥングでヴォータンの槍の柄を打ち砕いてしまう。

ここは極めて重要なシーンだ。ノートゥングは、最初ジークムントが持っていた時は、ヴォータンの槍で真っ二つにされた。しかし、ジークフリートが鍛え直したノートゥングはヴォータンの槍の柄を砕いた。

それはなぜか。私が思うのは、ジークフリートが恐れを知らない(それは異性への愛をしらない、即ち守るものがない)ことだけでなく、ノートゥングをトネリコの木を焚べた強力な火で鍛え直したことにあると感じた。

トネリコというのは世界全体を表す木の事である。ボータンはその木の枝を槍の柄として使い、そこに契約を書いた。

ノートゥングは、最初ヴォータンがトネリコの木に刺しておいたが、それをジークムントがジークリンデに対する愛を力にして引き抜くことで手に入れた。しかし、それはヴォータンの槍に負けた。それは即ち、契約>愛という力関係を示している。

ジークフリートが修復したノートゥングは、トネリコを燃やすという力で強力に鍛えられていて、ヴォータンの槍を砕いた。それは、恐れ(=愛)をしらないという自由>契約という、ヴォータンが目指したことを計らずも実現してしまったことを意味しているように思う。

さらに、象徴的だったのは、ヴォータンはジークフリートに会う前に、眠っていた知の女神であるエルダを起こし、何かアドバイスを求めようとした。しかし、エルダから得るものはもうないということで、また眠らせてしまう。これはヴォータンが「知の限界」を悟ったかのように思えた。

ヴォータンは、この敗北の後、舞台からは消え去ってしまう。それは自由が神の契約を破壊したことを表しているように思えた。

さて、ヴォータンを退けた、恐れを知らないジークフリードは、ヴォータンがブリュンヒルデを守るために設けた炎のバリアーを(ノートゥングで薙ぎ払って)突破し、鎧に覆われて横たわる人物を発見する。

その防御の鎧を、ノートゥングの剣で破壊すると、そこからブリュンヒルデが現れる。するとジークフリートはその姿に初めて恐れを知る。そしてキスによってブリュンヒルデを17年の眠りから覚めさせる。

眠りから覚めたブリュンヒルデは「おお、ジークフリードよ、私を目覚めさせてくれてありがとう。」と言って、二人の愛の二重唱の歌いまくりになるのかと思っていたが、話はそんな単純な展開はしない。

まず、ブリュンヒルデは鎧が壊されたことで自分の神性がなくなったんだと思って、嘆き、ジークフリートを責める。そして長広舌が延々と続くが、最後には「笑って愛せ」とか「笑って死ぬ」とか難解な言葉を放つ。

ある意味、ここは浪漫の極致の場面なんだろうけれど、歌のやり取りを追っている限りにおいては、二人はここで深く愛によって結ばれたかどうかは私にはわかりずらかった(多分そうなんだろう)。

このように、ヴォータンが、神の契約を超越する力を持つものに与えようとしたノートゥングは、一旦は契約遵守に心変わりしたヴォータンに破壊されるものの、恐らくヴォータンの予定にはない、(人間との自由愛の展開の結果として出現した)自分の孫であるジークフリートの出現によって、事態は思わぬ方向に進んでいく。という風に私には見える。

恐れ(愛)を知らないジークフリートは、図らずも世界の力の源泉であるトネリコの力を使ってノートゥングを強化復活し、それとは知らずに神の力の源泉である契約が書かれたヴォータンの槍の柄を破壊してしまう。

そしてジークフリートは恐れを知り、自分の叔母との愛ある生活を始める。というのが「ジークフリート(第二夜)」だ。

さて、最後の「神々の黄昏(第三夜)」だ。

ここで初めて登場する重要な脇役は、指輪を作ったアルベリヒの子供であるハーケンと、そのハーケンの息子のギュンターと娘のグートルーネだ。

このグートルーネという名前は「良いルーン(文字)」という意味で、ヴォータンの杖にはルーン文字で神々の契約が書かれていたこととの関連が示唆されている。私はこの一見些細なことにこだわる。

私には、この「二―ベルングの指輪」という物語が、ヴォータンの持つ、神々の契約の象徴であるトネリコの槍の柄が、恐れ(愛)を知らないシークフリート(自由の勝利者)に、トネリコの木の枝を燃やす強い火力を使って、鍛え直したノートゥングの剣で粉砕されるところが第一テーマに思えている。

第二のテーマは「指輪」で、それは、もともとは神々のものであった黄金が、二―ベルング人(地底人)で、愛をなくしたアルベリヒによって奪われ、鍛えられて指輪になったもの。

それには魔力があって人を支配できるのだが、ヴォータンは火の半神ローゲとともに、だまし打ちのようにして指輪と「変身頭巾」をアルベリヒから奪う。それに怒ったアルベリヒは指輪に「死の呪い(それを所有したものは死ぬ)」をかける。

ヴォータンは、指輪を持ち続けたかったけれど、ワルハラを巨人族に作ってもらった契約で人質となったフライヤを取り戻すために指輪を巨人族に渡す。

すると巨人族の二人は指輪の取り合いをして片方が死ぬ。残った方の巨人はヴォータンから手に入れた「変身頭巾」をかぶり、大蛇になって指輪を守っていたが、鍛え直したノートゥングの剣でジークフリートに殺され、指輪は「変身頭巾」とともにジークフリートの手に渡る。

ジークフリートはその指輪をはめた手でノートゥングの剣を振るい、ヴォータンの契約の槍を破壊する。そうか、ヴォータンの槍を砕いた時にジークフリートは指輪の魔力を持っていたんだ。ヴォータンが敗れた原因に指輪の魔力がかかわっていると見ると、話は更に混沌としてくるなあ。そして、呪いの指輪を身に着けたジークフリートブリュンヒルデを得る。

ジークフリートは、その指輪を「愛のあかし」としてブリュンヒルデに渡し(これは呪いを渡したことになる)、ノートゥングを使って戦いを勝ち抜いて英雄となるべく旅立つ。

その旅先でジークフリートは、ハーケン親子に出会う。そして奸計にあう。

ギュンターはジークフリートに「過去を忘れる薬」を飲ませる(なんてこった)。すると、ジークフリートブリュンヒルデの事を忘れ、グートルーネに一目惚れして結婚の約束をする。

そして、ジークフリートは、ギュンターと、お互いの血を混ぜて飲み合って兄弟の契りを交わす。そして、兄ギュンターの嫁としてブリュンヒルデを連れてくる約束をする(ひどいぞ)。

それから、ジークフリートは、なんと「変身頭巾」を使ってギュンターになりすましてブリュンヒルデに会い、「指輪」を強奪した後、ギュンターのままでブリュンヒルデと夫婦としての一夜を過ごす(ここの演出は極めて微妙でドキドキするし、後の伏線になるところだ)。

朝になって、ジークフリートは本物のギュンターにブリュンヒルデを渡し、自分はグートルーネの元に飛んで帰り、ハーケンが用意している二組の同時結婚式の準備の輪に加わる。

そこにギュンターとブリュンヒルデが後から到着する。ブリュンヒルデは、そこに自分を認識しないジークフリートが、ギュンターが自分から奪ったはずの「指輪」をはめているのを見て、大混乱のあと激高する。そして復讐の心が芽生える(ブリュンヒルデも指輪をはめたからダークサイドに堕ちているなあ)。

するとすかさず、ハーケンが復讐の手伝いをすると言い寄ってきたので、ブリュンヒルデは思わず「無敵と見えるジークフリートにも弱点はある。それは背中だ。なぜならば、背中には私の祝福が与えられていないからだ(ギリシャ神話のアキレスみたいだなあ)」と、言ってしまう。

ハーケンはジークフリートを狩に連れ出し、狩のあとの集まりでジークフリートの背中を刺して殺してしまう。

その前に、ジークフリートは「忘れ薬」の解毒薬を飲まされていて、ブリュンヒルデの事を思い出しながら死んでいくのは結構切ないシーンだ。

このあたりの音楽は聴きどころで、「指輪」唯一の大規模男声合唱や、有名な「ジークフリートの葬送行進曲」が演奏される。

ジークフリートの葬送行進曲」はこれぞワーグナーという重厚さだ。地獄の底が抜けたかのような金管トロンボーン)が凄まじい。

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ハーケンは、ジークフリートの遺体とともに戻ってきて、ジークフリートは大イノシシに襲われて死んだと作り話をする。しかし、グートルーネもギュンターもそれを疑い、言い争いが起きる。

そこに、「すべてを理解した」ブリュンヒルデが登場して、「ブリュンヒルデの自己犠牲」と言われる長広舌を延々と歌う(インタヴューで18分とか言っていた)。

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そして、ブリュンヒルデは、ジークフリートの遺体から抜き取った指輪をはめて愛馬グラーネにまたがり、ジークフリートが火葬されている炎の中に飛び込む。

その炎は「ワルハラ」までを焼き尽くし、指輪は「ラインの乙女」に戻ることでこの物語は終わる。

最後にブリュンヒルデは(その場にいない)ヴォータンに向かって、「Alles weiss ich(私は全部わかっている)」 と言って炎に飛び込むのだが、ブリュンヒルデはヴォータンの意図をどう理解したのだろうか。

ヴォータンが最初にジークムントに託したかったのは指輪の奪還だけだろうか。それに成功したらヴォータンはその指輪をどうしただろう。元々あったラインの河底に返しただろうか。本当は自分が持ちたかったのではないだろうか。

私は、ヴォータンには誤算があったように思う。それは、自分が、契約を乗り越える自由を託すべく、人間との間に作った子供が双子の兄妹となり、その二人が愛を得てジークフリートを誕生させたことだと思う。自由な愛は管理できずに暴走するのである。

自分の孫であるジークフリートは、ヴォータンがジークムントに授けたノートゥングをトネリコで強化修復し、それを使ってヴォータンの契約の槍を砕いてしまう。これはヴォータンのもともとの筋書にはなかったことだろう。その背後には、ジークフリートが呪われたダークフォースを持つ指輪を手に入れたことがある。

さらに、ジークフリートは、ヴォータンに背いたことで罰を受けているブリュンヒルデを救い出し、孫と娘が夫婦になってしまう。

ジークフリートは「忘れ薬」を飲まされるという奸計にはまる愚かなところ(16歳は未熟だ)があるのが切ない(トリスタンとイゾルデの「愛の媚薬」をおもいだすなあ。ワーグナーの好きなシナリオだ)。

その愚かな行為が、愛を裏切られたブリュンヒルデに復讐心を目覚めさせてしまう。その結果、ブリュンヒルデジークフリートを滅ぼす手助けをしてしまう。その背景にはすべて「指輪」の呪いが関係している。

ブリュンヒルデは、ヴォータンの意思を「契約で自由を縛る神の時代は終わる。ワルハラを炎上させろ、愛の自由を謳歌せよ、愛の自由を妨げる邪悪な心は指輪とともに消滅させよ。」であると読み取ったのだろうか。

そうならば、なぜヴォータンはなぜ、最初から契約不履行となりそうなことがわかっているのに、ワルハラの建設を巨人族に依頼したのか。

壮大な「指輪」の物語。「わかった」というには程遠いが、何だかいまでも引きつけられていて、ヴォータンの心の内を思い続けてしまう。

その意味では、「指輪」の物語の主役はヴォータンだと思う。でも、「指輪」というオペラの主役は、ヴォータンの最愛の娘として登場し、男性主役を支え続け、最後の見せ場を演じ歌いきるブリュンヒルデかなあ。

余談になるけれど、カトリックの本質を歌う「レクイエム」には、Libera me(私を自由にしてください)という言葉が出てくる。これは神様を信じ、従うからこそ得られる自由のことだ。具体的には、Libera(=Liberty)とは、信心を得ることで地獄に堕ちる恐怖から自由になることだと思って、私は「レクイエム」を歌っている。

一方で、「指輪」の中で出てくる、Frei(Freedom、自由)は、神の契約から自由になる事に見える。このFreiという言葉はゲルマン語由来であって、ラテン語にはない。私の中では、LiberaとFreiは、神に近づくか、離れるか、真逆の概念に思える。

ラテン語圏の国は、Liberaの言葉に縛られて、教会の権威に従うカトリックに留まっているように見える。一方、ゲルマン語圏は、教会の制約から逃れる自由(Frei)を求めて宗教改革を起こした。という妄想が湧いてくる。

ワーグナーカトリックなのか、新教なのか私は知らない。

べートーベンの「第九」で歌うシラーの「an die Freude 」は、私には極めて新教的に聞こえる。それは、自らの信念に基づいて(教会の支援を必要としないで)直接神と繋がろうとすることを歌っていると思うからだ。

具体的には

Such' ihn über'm Sternenzelt!
Über Sternen muß er wohnen.

星空の上に神を求めよ
星の彼方に必ず神は住んでいらっしゃる

と確信をもって歌い、

Laufet, Brüder, eure Bahn,
Freudig, wie ein Held zum Siegen

兄弟よ、自らの道を進め
英雄が勝利を目指すように喜びをもって

と自ら行動を促すところだ。

それがロマンだ。カトリックはゴシックかバロックに留まる。

歌を通じて西洋のキリスト教に根差す精神世界の一端を感じられるところは、とても興味深いところだ。

さて、初めての「指輪」の鑑賞は、話の筋を追うことに注力し過ぎて、音楽を味わう余裕がなかった。これからCDやYouTubeで音楽の方をじっくり味わってみたい。

私は、正直言って、ワーグナーの、重々しい和声が、わかりずらい調性感で展開される音楽よりも、全編に歌が溢れて、自然に仕組まれた(長調を主体とした)調性の変化が心を浮き立たせてくれる、モーツァルトのオペラの音楽の方が断然好きだ。

ロマン派以降、調性感がだんだん崩れていって、音楽がわかりにくく、(短調が多くて、暗い響きで)感動しずらいものになっていったなあ、という私見を持っている。そんなこともいろいろ考えてみたい。調性感を宗教的な調和と関連付けるべきなのかどうかを含めて。

モダン=宗教の否定=調性を含む形式の否定、とするのは勝手だろうけれど、モダンになってつまらない、感動しないのであれば、モダンの意味って何だろう、とも思う。

それが解放(自由)即ち、進歩だと、言うかもしないけれど、ならば進歩することの価値って何よ、既成概念を破壊するだけでなにも生み出していないのでは、って思う。

形式による制約があるからこそ、美が表現できるという面があっていい。例えば韻文のように。ならば新しい形式を考えるのもアリだろう。

ここでも、「指輪」の提示している契約という縛りと自由の問題に戻ってくるのかな。

大田区郷土博物館の川瀬巴水展(後半)。巴水の描いた富士山を観て北斎の描いた富士山に思いを馳せる。そして画家が富士山を描く意味を考えてみた。

大田区郷土博物館の川瀬巴水展(2021年7月17日~9月20日)。前期と後期に分かれていて、前期は主に東京近辺の風景の版画が展示されていた。3回通って、勝手にご近所3部作と呼んでいる、東京20景の「大森海岸(1930年)」、「馬込の月(1930年)」、「池上市之倉(1928年)」などを堪能した。

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川瀬巴水 「大森海岸」

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川瀬巴水 「馬込の月」

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川瀬巴水「池上市之倉」

注) 画像データは以下のフリーリンクより

http://www.photo-make.jp/hm_2/ma_magomebashi.html

 

後期展示は、巴水が旅に出て描いた、日本各地から朝鮮半島までの風景画が主体になっている。大田区博物館は撮影が可能と今回知ったので(前期展もそうだったかもしれない)、代表作の画像データを掲載して感想を述べてみようと思う。

巴水らしい、桜と富士の組み合わせの構図が素晴らしいのは「西伊豆 木負(きしょう)(1937)年」であろう。これは巴水の版画の愛好家でもあったスティーブン・ジョブスが所有していたそうだ。

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巴水展で展示されている版画はすべて博物館の所有品で、写真が示すように、その作品の元となったスケッチ画と合わせて展示されているのがとても良い。

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地図が示すように、木負は沼津の南で(良い釣り場でもあるらしい)、富士山の前に見えるのは海なんだなと分かる。場所を知らないと湖越しの富士山の画のように見えてしまう。

湖を前にした富士山の版画としては、「山中湖の暁(1931年)」がある。

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あけに染まる富士は、北斎のいわゆる赤冨士「凱風快晴」を思い出すし、水辺に映る富士では「甲州三坂水面」を思い出す。

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北斎「凱風快晴」(東京富士美術館無料データ、以下同)

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北斎甲州三坂水面」

この夏、これもご近所の龍子記念館で、川端龍子が収集した「富嶽三十六景」が期間限定で掲示されていた。そこで見た四十六作品の印象が蘇ってくる。

富嶽三十六景」には、富士山だけを描いた絵は少なくて、富士山とともにある人々の生活風景を描いたものが多い。例えば、「尾州不二見原」はその構図の面白さからも有名だ。

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北斎尾州不二見原」(1830-32年頃)

その一方で、「武州玉川」は富士山を背景とした風景画に見える。

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北斎武州玉川」

巴水にも、富士山を背景にした人々の生活を描いた画はある。例えば「馬入川」(1931年)だ。

f:id:yoshihirokawase:20210916120716j:plain    川瀬巴水「馬入川」(1931年)

「馬入川」を見ると、なんとなく北斎の「武州玉川」を思い出すところはある。相模川多摩川の違いはあるものの、巴水はそれを意識して描いたのかどうか。いや、むしろそれぞれの画風を楽しむべきかな。

そういった視点では、巴水の「田子の浦の夕」(1940年)と北斎の「東海道程ヶ谷」を見比べるのも楽しい。

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巴水の「田子の浦の夕」(1940年)

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北斎の「東海道程ヶ谷」

木の間から富士山を見るところは同じだけれど、描いている思いはそれぞれ違うということがわかる。

巴水は富士山の前景として人の営みを描き、北斎は人の営みの背景に富士山を描いているように思う。

巴水は富士山と正面から向き合うのに対し、北斎は富士山が人々の生活を見守っているかのような描き方だ。これには北斎に限らず、日本人の心の中にある富士山に対する尊崇のような気持ちが自然に込められていて、それが心に響くのだろうかと妄想する。

そういった面から興味深いのは北斎の「信州諏訪湖」だ。

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北斎 「信州諏訪湖

先日、NHKテレビでブラタモリを観ていた時のことだ。

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諏訪湖から富士山が見えるというシーンをやっていた。それは北斎の「信州諏訪湖」と極めて近いアングルなので、「あっ」と思った。

諏訪は、地層的に、糸魚川―静岡構造線と中央構造線という2つの断層線が交差する場所で、縄文人が、糸魚川―静岡構造線に沿って、(自分たちを見守ってくれる)富士山を背景に移動しながら、諏訪までたどり着いたと言うような話をしていた(富士山から諏訪湖までの見通しのいい平坦な道が糸魚川―静岡構造線で、それに沿って歩いて来たようだ)。

何と、富士山に対する想いは縄文人から引き継いでいることを知ってちょっと驚いた。

巴水は全国を回って風景画を描いているのだけれど、大田区郷土博物館で見る限り、諏訪湖の画はないし、ネットをググってみても私には見つけられなかった。巴水が信州で描いた画は木崎湖松原湖はあるようだが、諏訪湖の画を描かなかったのだとしたら、それはなぜなのか興味が湧く。たまたまその時は富士山が見えず、いいスケッチ画が描けなかったからなのだろうか。

北斎で、「えーっ」という感じで、見とれてしまった画がある。

まずは、「五百らかん寺さゞゐどう」だ。

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北斎「五百らかん寺さゞゐどう」

本物を見ていると、富士山がすごく遠くにあるように見える。それは板の間の線が富士山に集まるように、北斎には珍しい、遠近法を使って書かれているからだと気が付く。それは富士山を見ている人々の思いが富士山に集まっていることを明確に表現している。

この広大な空間表現でさらに驚いたのは、「礫川雪ノ且(こいしかわゆきのあした)」だ。このデジタル画像では感じられないけれど、本物を眺めていると、雪見をしている東屋から富士山までの広大な空間がこの画に詰まっていることに気が付いて驚愕する。

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北斎 「礫川雪ノ且(こいしかわゆきのあした)」

それは、オルセー美術館セザンヌの「サント=ヴィクトワール山」(1890年)を見た時の同じ感動を思い起こした。

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セザンヌ 「サント=ヴィクトワール山」 1890年

この画の、サント=ヴィクトワール山の前に広がる空間の大きさに圧倒されたことを覚えている。

北斎の「富嶽三十六景」は1832年頃の作品なので、フランスのジャポニズム盛んなりしころ、セザンヌ北斎の版画に感銘し、この空間表現に目覚めたという事は大いにあり得るのではないかと妄想が湧いた。

逆に「サント=ヴィクトワール山と大きな松の木」を見ると、巴水を思い出してしまう。これは木が主張している感じだ。

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セザンヌ 「サント=ヴィクトワール山と大きな松の木」

さて、巴水に戻ろう。

今回、富士山以外で印象深かったのは房総の海を描いた画だ。波が岩に当たって砕けるところの表現がすばらしく、見入ってしまった。

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岩うつ浪(房州 黒生(くろはい)」と「犬吠ノ朝」(1931年)

また、朝鮮まで旅行して描いた画もしみじみと感じるものがあった。

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「水原 西門」

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「水原 華虹門」

また、版画ならではの工夫を見せてくれるのも勉強になった。

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「出雲松江(三日月)、(おぼろ月)、(曇り日)」

同じひとつの風景から、月と雲の形と、色刷りを変えることで派生作品を生み出している。

この法隆寺も同じ手法だ。

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法隆寺 東里」

「池上市之倉」も版木は全く同じで色合いの違う濃摺と薄摺の両方が展示されている。

版画は同じ版木を使って何百枚も摺るものだし、北斎などは、展示されている美術館で随分色合いが違うなあと思う時もある(例えば、「遠江山中」)。

唯一無二の油絵とは違う、版画の本物って何だろうと考えることもある。基本は絵師が認めた彫師と摺師によって生み出されたものかどうかにあるのだろうなあ。

巴水の描いた富士山の画を見ながら、北斎、さらにセザンヌまで思いが馳せたのはなんだか楽しかったな。

 

二期会のモーツァルト「魔笛」(宮本亜門演出)を東京文化会館大ホールで観て思ったこと(2021/9/9)

モーッアルトの「魔笛」(K.620)。モーツァルトが亡くなる1791年に作曲された最後のオペラ作品(ジングシュピール)。

2幕で2時間40分程度の作品。

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今回初めて観た。すべてにモーツァルトが溢れてていて、素晴らしい。プロジェクションマッピングを使った宮本亜門の斬新な演出も良かった。

魔笛」が描くものについては、いろいろ言われているのは知っている。今回、私が理解した話の本質は簡単に言うと次のようになる。

自然に恵まれ本能のままに生きる世界(夜の女王と鳥刺し男のパパゲーノが生きている世界)とザラストロが支配する、徳と叡智の力よって人間を進歩させる啓蒙的な世界を、タミーノとパミーナが、ザラストロの与える試練(しゃべらない、自然の与える火と水の恐怖を克服する)を、自然を代表する「魔笛」の力を借りた二人の愛の力で克服することで、この2つの世界に融和的な橋を架けた。

となる。

一番驚いたのは、ザラストロは実はとてもいい人だという事。ザラストロは徳と叡智だけの世界では冷たい管理社会になることはわかっていて、このままでは目指している復讐のない愛の溢れる世界は訪れない危機感があった(多少勝手読みしてるかな)。それを打破するためには自分の世界にない何かが必要だとわかっていて、男子のみの徳と叡智の世界に、皆の反対を押し切って女性のパミーナを受け入れ、タミーノとともに炎と水の自然の恐怖を克服させる試練を与え、それを二人に「魔笛」による自然の力の支援を得た愛の力で克服させることで、自らの世界を一段と高めようとしたことだ。

それがよくわかるのが、このアリア、「この聖なる神殿では」だ。バスの歌うアリアで最高峰なんじゃないだろうか、と思えるくらい素晴らしいし、歌詞の内容も濃い。

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こんな勝手読みでは、わからないと言われそうなので、少しあらすじ書いてみる。

夜の女王は、娘のパミーナをザラストロに捕えられてしまった。そこで、夜の女王はタミーノ王子にパミーナの救出を依頼すべく、魔法の鏡に映ったパミーナの美貌を見せてその気にさせ、魔法の笛(魔笛)を救出のための援助道具として渡す。

この魔笛は、夜の女王の夫が作ったもので、これを吹くと、動物たちや人間が喜んで踊り出す不思議な力がある。そして、夫はザラストロに殺されている。そのため、夜の女王は復讐に燃えている。

なので、夜の女王は、第2幕の冒頭で、娘のパミーナにナイフを渡し、これでザラストロを殺せと命じる。この場面が、「魔笛」で一番有名なアリア、「復讐の心は地獄のように胸に燃え」だ。これは「夜の女王のアリア」とも言われて、コロラトゥーラ・ソプラノのベンチマークのようになっている曲だ。

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この曲が派手だから、夜の女王が主役に思えるけれど、そうではなく、主役はその娘のパミーナのソプラノ、タミーノのテノール、次来るのが、バスのザラストロ、その次がバリトンのパパゲーノだと思う。そして、タミーノに同行する鳥刺し男パパゲーノには鈴が渡される。

パパゲーノと言えば、この曲「おれは鳥刺し」

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昔、クラシックギターを弾き込んでいたころ、F.ソルの「魔笛の主題による変奏曲」を一生懸命練習していた。それが私の最初の「魔笛」との出会いだったと思うが、その主題とはこの曲だと思うんだけれど、ソルの主題と似てはいるけど同じではない。まあ、モーツアルトとソルの両方が楽しめていいかな。

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第2幕の最後の方に出てくる、パパゲーノとパパゲーナとの2重唱も美しい。

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最近オペラでは、ベルディもそうだけど、2重唱の美しさに目覚めたところだ。

アリアで言えば、パミーナのアリアも何曲も素晴らしいものがある。パミーナの2重唱もいいものがあった。

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さて、あらすじに戻ると、第2幕で「夜の女王のアリア」が終わると、タミーノとパパゲーノは3人の童子に連れられてザラストロの神殿に向かう。

この3人の童子は、多分9歳から13歳ぐらいまでの3人の男の子だけれど、ボーイソプラノの美しいハーモニーで何曲も歌うし、劇の進行の上でも大切な役割を担っている。大拍手を送りたい。

そして、タミーノが童に案内されてザラストロの神殿に向かう時に、3つの扉の内の一つを選ぶ試験が行われる。

その3つの扉に書かれているのは、正義(Gerechtigkeit)と労働(Arbeit)と芸術(Kunst)。タミーノは最後に正義(Gerechtigkeit)を選んで、叡智(Weisheit)の世界に進んでいくのが何か象徴的だ。

その後、パミーナがザラストロの部下のモノスタトスにいじめられたり(その後、モノスタトスはこの事をザラストロにとがめられて追放され、夜の女王側に寝返る)、パパゲーノが将来の伴侶であるパパゲーナをザラストロから与えられたりする。

パパゲーノは夜の女王から与えられた鈴をつかうことで、パパゲーナと結ばれるところも象徴的だ。このカップルは子供をたくさん作ろうと歌って(前述のYouTube)、自然のままに生きることの象徴だ(ザラストロは心が広い)。

そして、タミーノとパミーナはザラストロの与える試練を乗り越えて、めでたく大団円となる。

魔笛」。寓意に富むと言われるストーリーも自分なりに咀嚼して楽しめた。さあ、CDを手にいれてしっかり音楽も聴こう。

でも、オペラはやっぱり劇場じゃないと楽しめないんだよなあ。

ああ、次は「ドン・ジョバンニ」観たい。

最後に出演者のリスト。

皆さん素晴らしかった。パミーナとザラストロの歌声に酔いしれた。タミーノのテノール。あんなふうに伸びのある高音域が欲しい。

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聖徳太子1400年遠忌記念「聖徳太子と法隆寺」展を見て感じたこと。

今年は聖徳太子が621年に亡くなってから1400年。それを記念した展示会を国立博物館で観て来た。

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tsumugu.yomiuri.co.jp

国宝の「薬師如来坐像」や、四天王立像の「広目天」、「多聞天」。重要文化財の「日光菩薩」、「月光菩薩」の立像など、およそ1400年前の飛鳥時代のものだけでなく、その後、聖徳太子を記念して作られたられたものが数多く展示されている。

平安時代、太子の500年遠忌(1121年)に作られた、「聖徳太子および従者像(国宝)」(全部で5体)や、鎌倉時代(1285年)の「十七条憲法版木(重文)」など、太子への尊崇の念を感じるものが数多く展示されている。

その背景には、聖徳太子が亡くなってから、聖徳太子は「救世観音」の生まれ変わりだという信仰が生まれたことがあると言う。

「救世観音」の仏像は法隆寺夢殿の本尊であるが、秘仏として公開されることはめったにない。

その「救世観音」像が、これも法隆寺にある「百済観音」像とともに、8K 3DCG画像で動展示されているのはちょっと感動ものだった。ホログラムではないので、ディスプレイは平面なんだろうと思うけれど、3DCGのテクニックでかなり奥行感のある見事な表現になっている。

pid.nhk.or.jp

摸本ではあるけれど、昔の一万円札の原画となった「聖徳太子二王子像」も見られる。

日本の古代に思いを馳せるよい展示会でした。