ワーグナーの「ニーベルングの指輪」をMETのライブヴューイングで全四夜見た。ヴォータンの思いを推し量ってみた。

ワーグナーの「ニーベルングの指輪」。何を描いているのかとても興味があった。しかし、この長大なオペラをまさか全部見ることはないだろうと思い、20年ぐらい前に図書館で本を見つけて4巻読んだ。

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あらすじはおおよそ理解したけれど、これをオペラにしたワーグナーの深い思いは多分感じられなかったと思う。

20年前と比べると、今の私は、「第九」など大規模合唱も経験して、多声の歌による表現(歌詞とメロディーと和声の組み合わせ)に興味が湧き、オペラを生で観たり、MET(ニューヨークのメトロポリタン歌劇場)のライブビュー―イング映画を映画館で観て楽しむようになった。

斬新なロベール・ルパージュ氏の演出による「ニーベルングの指輪」全四夜のMETのライブビューイング(2010年10月から2012年2月の舞台)が、東劇で再演されることを知り、こういう機会はめったにない、との思いから全部見た。

音楽だけで15時間(指揮者である、ファビオ・ルイージ氏のコメント)、4本の映画全体では、幕間の休憩や演者のインタビューなどを含めて、19時間15分の長丁場だけれど、得るものは多々あった。そのことを少し書いてみたい。

まず思ったのは、演者が歌うセリフの中に、あらすじの説明本では読み取りきれない、あるいは割愛されている、細かいニュアンスや本質的な言葉があって、それが歌とともに直接心に届いてくる、ということだ。

それを繋ぎ合わせていくと、ワーグナーの思いを、より深いところで感じることができたように思う。

それら思ったことを書き留めておきたいのだが、あらすじの説明を始めると長くなってしまうので、それはやめて、歌のセリフの中からそうだったのかと思いを巡らせたことを書いていきたい。

あらすじを知りたければ、このリンクがよさそうだ。

『ニーベルングの指環』あらすじと解説(ワーグナー)

さて、最初に強く思ったのは、「神々は契約によって世界を支配しているが、契約に縛られている不自由さがある」ということ。

その第一の象徴が、神々の長であるヴォータンの力の源泉である槍の柄(トネリコで出来ている)にルーン文字(古代ゲルマン文字)で契約がかかれていること。

ところが、ヴォータンは、その契約に縛られていることから逃れたいという動機をもっている、と私には思えた。

この契約から逃れると言う事が、もう一つのテーマである「指輪の魔力(ダークサイドのフォース)」と「死の呪い」に絡んでくるのだか、それはもう少し後で述べよう。

そして、ヴォータンは、この契約から逃れる(ある意味超越する)ことを考えていて、そのためには自由になることだ(Frei, Freiheit)と行動を起こす。

私は、この「Freiheit」という極めてゲルマン的な概念(既成権威の破壊)を、契約の縛りという対立概念にぶつけ、「Freiheit」そのものである人間の愛と、それの裏側であるダークサイドの「欲望」、「復讐」や「呪い」を絡めて話を大きく展開させているのが「指輪」の本題であると感じた。

そして、その自由を獲得するためには契約に縛られる神の世界を離れることが必要とヴォータンは考える。

そのため、自分がさすらい人となって人間界に降り、そこで人間と交わって子を作り(双子のジークムントとジークリンデ)、その者(ジークムント)に契約の超越を託そうとする。

そして、その者を守る役として、知の女神であるエルダとの間に娘をもうけて、ブリュンヒルデと名付けて、ジークムントを守護させようとする。

ブリュンヒルデのことを少し書くと、ブリュンヒルデは、ヴォータンが、正妻であるフリッカでなく、知の女神エルダとの間に作った婚外子の娘9人のリーダー格(長女)である。この女9人衆がワルキューレと呼ばれ、戦いで死んだ英雄をワルハラに運ぶのを本務としている。

このワルキューレが馬に乗って現れるシーンは舞台としても見もので、その時の音楽が「ワルキューレの騎行」である。「ホヨトホー」との掛け声とともにワルキューレが現れるのはなかなかのものだ

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一方で、ヴォータンの正妻であるフリッカは、結婚という契約を司る神であり、人間との自由恋愛を楽しんで神の本分(契約の維持管理)を忘れているヴォータンに我慢がならない。

なので、ヴォータンに「神としての契約の義務」に関する論戦を挑み、打ち負かしてしまう。この場面はフリッカとヴォータンの歌合戦のような二重唱で演じられ、このオペラの見ものの一つだと私は思った。

フリッカとの論戦に敗れたヴォータンは、ジークムントに密かに与えたはずのノートゥングという無敵の剣を自分の槍で破壊し、そしてその槍でジークムントを殺してしまう。

ところが、ジークムントは自分の妹であるジークリンデと既に愛し合っていて、ジークリンデの腹の中には二人の間の子供が宿っていた。

それを知ったブリュンヒルデはヴォータンの意思に背いてジークリンデを逃がす。これに怒ったヴォータンはブリュンヒルデの神性を奪って山の中に眠らせてしまう。ここで「ワルキューレ(第一夜)」が終わる。

さて、もう一つのテーマである「指輪」だ。

もともとはライン川の河底に眠っている黄金は神々のものであり、それをラインの3人の乙女が守っていた。ところが、この乙女たちは地底人(二―デルハイムに住むニーベルング人)のアルべリヒに、ついうっかり、「ラインの黄金は、愛をなくしたものが鍛えることができる」と漏らしてしまう。

愛を持たないアルベリヒはその黄金を奪い、その黄金で人々を支配する力を持つ指輪を作る。そして、弟であり、鍛冶屋でもあるミーメに「それを被ると望むものに変身できる金の鎖でできた頭巾」を作らせる。

一方、ボータンは「ワルハラ」という神々の住む城を巨人族に作らせる。そして、その完成の折には報酬として、自分の妻(フリッカ)の妹のフライアを与えるという契約を独断でしてしまっていた。ワルハラが完成し、巨人族はフライアを求めるが、神々は猛反対。しかし、結局契約は守るべし、という事で、フライアを、それに代わるものが提供できるまでの人質として巨人族に渡してしまう。

困ったヴォータンは、地底に降りていき、だましうちのような形でアルベリヒから指輪、金の頭巾、金の財宝を奪い、それを全部巨人族に与えることでフライアを取り戻す。この話が「ラインの黄金(前夜)」だ。

さて、ジークムントが死んだ「ワルキューレ」から17年経って、ジークムントとジークリンデの子であるジークフリートはアルベリヒの弟のミーメに育てられている(16歳の男の子だ)。

ジークフリートという名前は自由の(Frei)勝利(Sieg)を示唆するような名前だ。

ミーメの目的はヴォータンに真っ二つにされたノートゥングを修復し、それをジークフリートに使わせて巨人族から「指輪」を奪う事。

しかし、鍛冶の名人のミーメでも、ノートゥングは直せない。ところが、ジークフリートは自らノートゥングを鍛え直してしまう。

ジークフリートがノートゥングを修復できたのは「恐れを知らない」からとされているが、もう一つ重要な要因があることが舞台を見ていたからこそ分かった。

それはジークフリートがふぃごを押して剣を鍛える時に、トリネコの木を焚べて、火力を一層強めたことだ。このことはもう一度後で述べようと思う。

さて、ジークフリートは、修復されたノートゥングを手に、「変身頭巾」を被って大蛇に化けていた巨人を倒して、「指輪」と「変身頭巾」を手に入れる。

ジークフリートはノートゥングに付着した、大蛇を殺した血を嘗めると、小鳥の声の意味が分かるようになる。

そして、小鳥から、ミーメがジークフリートを殺そうとしていることを聞いて、ミーメを殺す。そして、小鳥から「恐れを知らないお前は、岩山に眠るブリュンヒルデを手に入れることができる」といわれ、岩山に向かう。

ここで復習すると、ブリュンヒルデはヴォータンの娘(神)、ジークフリートはボータンの孫(1/4神)なので、叔母と甥の関係である。

さて、ジークフリートが岩山へ向かおうとすると、ヴォータン(さすらい人)が立ちはだかる。ジークフリートはこのさすらい人が自分の祖父であることを知らない。そしてヴォータンが行く手を阻もうとするので、争いになり、ノートゥングでヴォータンの槍の柄を打ち砕いてしまう。

ここは極めて重要なシーンだ。ノートゥングは、最初ジークムントが持っていた時は、ヴォータンの槍で真っ二つにされた。しかし、ジークフリートが鍛え直したノートゥングはヴォータンの槍の柄を砕いた。

それはなぜか。私が思うのは、ジークフリートが恐れを知らない(それは異性への愛をしらない、即ち守るものがない)ことだけでなく、ノートゥングをトネリコの木を焚べた強力な火で鍛え直したことにあると感じた。

トネリコというのは世界全体を表す木の事である。ボータンはその木の枝を槍の柄として使い、そこに契約を書いた。

ノートゥングは、最初ヴォータンがトネリコの木に刺しておいたが、それをジークムントがジークリンデに対する愛を力にして引き抜くことで手に入れた。しかし、それはヴォータンの槍に負けた。それは即ち、契約>愛という力関係を示している。

ジークフリートが修復したノートゥングは、トネリコを燃やすという力で強力に鍛えられていて、ヴォータンの槍を砕いた。それは、恐れ(=愛)をしらないという自由>契約という、ヴォータンが目指したことを計らずも実現してしまったことを意味しているように思う。

さらに、象徴的だったのは、ヴォータンはジークフリートに会う前に、眠っていた知の女神であるエルダを起こし、何かアドバイスを求めようとした。しかし、エルダから得るものはもうないということで、また眠らせてしまう。これはヴォータンが「知の限界」を悟ったかのように思えた。

ヴォータンは、この敗北の後、舞台からは消え去ってしまう。それは自由が神の契約を破壊したことを表しているように思えた。

さて、ヴォータンを退けた、恐れを知らないジークフリードは、ヴォータンがブリュンヒルデを守るために設けた炎のバリアーを(ノートゥングで薙ぎ払って)突破し、鎧に覆われて横たわる人物を発見する。

その防御の鎧を、ノートゥングの剣で破壊すると、そこからブリュンヒルデが現れる。するとジークフリートはその姿に初めて恐れを知る。そしてキスによってブリュンヒルデを17年の眠りから覚めさせる。

眠りから覚めたブリュンヒルデは「おお、ジークフリードよ、私を目覚めさせてくれてありがとう。」と言って、二人の愛の二重唱の歌いまくりになるのかと思っていたが、話はそんな単純な展開はしない。

まず、ブリュンヒルデは鎧が壊されたことで自分の神性がなくなったんだと思って、嘆き、ジークフリートを責める。そして長広舌が延々と続くが、最後には「笑って愛せ」とか「笑って死ぬ」とか難解な言葉を放つ。

ある意味、ここは浪漫の極致の場面なんだろうけれど、歌のやり取りを追っている限りにおいては、二人はここで深く愛によって結ばれたかどうかは私にはわかりずらかった(多分そうなんだろう)。

このように、ヴォータンが、神の契約を超越する力を持つものに与えようとしたノートゥングは、一旦は契約遵守に心変わりしたヴォータンに破壊されるものの、恐らくヴォータンの予定にはない、(人間との自由愛の展開の結果として出現した)自分の孫であるジークフリートの出現によって、事態は思わぬ方向に進んでいく。という風に私には見える。

恐れ(愛)を知らないジークフリートは、図らずも世界の力の源泉であるトネリコの力を使ってノートゥングを強化復活し、それとは知らずに神の力の源泉である契約が書かれたヴォータンの槍の柄を破壊してしまう。

そしてジークフリートは恐れを知り、自分の叔母との愛ある生活を始める。というのが「ジークフリート(第二夜)」だ。

さて、最後の「神々の黄昏(第三夜)」だ。

ここで初めて登場する重要な脇役は、指輪を作ったアルベリヒの子供であるハーケンと、そのハーケンの息子のギュンターと娘のグートルーネだ。

このグートルーネという名前は「良いルーン(文字)」という意味で、ヴォータンの杖にはルーン文字で神々の契約が書かれていたこととの関連が示唆されている。私はこの一見些細なことにこだわる。

私には、この「二―ベルングの指輪」という物語が、ヴォータンの持つ、神々の契約の象徴であるトネリコの槍の柄が、恐れ(愛)を知らないシークフリート(自由の勝利者)に、トネリコの木の枝を燃やす強い火力を使って、鍛え直したノートゥングの剣で粉砕されるところが第一テーマに思えている。

第二のテーマは「指輪」で、それは、もともとは神々のものであった黄金が、二―ベルング人(地底人)で、愛をなくしたアルベリヒによって奪われ、鍛えられて指輪になったもの。

それには魔力があって人を支配できるのだが、ヴォータンは火の半神ローゲとともに、だまし打ちのようにして指輪と「変身頭巾」をアルベリヒから奪う。それに怒ったアルベリヒは指輪に「死の呪い(それを所有したものは死ぬ)」をかける。

ヴォータンは、指輪を持ち続けたかったけれど、ワルハラを巨人族に作ってもらった契約で人質となったフライヤを取り戻すために指輪を巨人族に渡す。

すると巨人族の二人は指輪の取り合いをして片方が死ぬ。残った方の巨人はヴォータンから手に入れた「変身頭巾」をかぶり、大蛇になって指輪を守っていたが、鍛え直したノートゥングの剣でジークフリートに殺され、指輪は「変身頭巾」とともにジークフリートの手に渡る。

ジークフリートはその指輪をはめた手でノートゥングの剣を振るい、ヴォータンの契約の槍を破壊する。そうか、ヴォータンの槍を砕いた時にジークフリートは指輪の魔力を持っていたんだ。ヴォータンが敗れた原因に指輪の魔力がかかわっていると見ると、話は更に混沌としてくるなあ。そして、呪いの指輪を身に着けたジークフリートブリュンヒルデを得る。

ジークフリートは、その指輪を「愛のあかし」としてブリュンヒルデに渡し(これは呪いを渡したことになる)、ノートゥングを使って戦いを勝ち抜いて英雄となるべく旅立つ。

その旅先でジークフリートは、ハーケン親子に出会う。そして奸計にあう。

ギュンターはジークフリートに「過去を忘れる薬」を飲ませる(なんてこった)。すると、ジークフリートブリュンヒルデの事を忘れ、グートルーネに一目惚れして結婚の約束をする。

そして、ジークフリートは、ギュンターと、お互いの血を混ぜて飲み合って兄弟の契りを交わす。そして、兄ギュンターの嫁としてブリュンヒルデを連れてくる約束をする(ひどいぞ)。

それから、ジークフリートは、なんと「変身頭巾」を使ってギュンターになりすましてブリュンヒルデに会い、「指輪」を強奪した後、ギュンターのままでブリュンヒルデと夫婦としての一夜を過ごす(ここの演出は極めて微妙でドキドキするし、後の伏線になるところだ)。

朝になって、ジークフリートは本物のギュンターにブリュンヒルデを渡し、自分はグートルーネの元に飛んで帰り、ハーケンが用意している二組の同時結婚式の準備の輪に加わる。

そこにギュンターとブリュンヒルデが後から到着する。ブリュンヒルデは、そこに自分を認識しないジークフリートが、ギュンターが自分から奪ったはずの「指輪」をはめているのを見て、大混乱のあと激高する。そして復讐の心が芽生える(ブリュンヒルデも指輪をはめたからダークサイドに堕ちているなあ)。

するとすかさず、ハーケンが復讐の手伝いをすると言い寄ってきたので、ブリュンヒルデは思わず「無敵と見えるジークフリートにも弱点はある。それは背中だ。なぜならば、背中には私の祝福が与えられていないからだ(ギリシャ神話のアキレスみたいだなあ)」と、言ってしまう。

ハーケンはジークフリートを狩に連れ出し、狩のあとの集まりでジークフリートの背中を刺して殺してしまう。

その前に、ジークフリートは「忘れ薬」の解毒薬を飲まされていて、ブリュンヒルデの事を思い出しながら死んでいくのは結構切ないシーンだ。

このあたりの音楽は聴きどころで、「指輪」唯一の大規模男声合唱や、有名な「ジークフリートの葬送行進曲」が演奏される。

ジークフリートの葬送行進曲」はこれぞワーグナーという重厚さだ。地獄の底が抜けたかのような金管トロンボーン)が凄まじい。

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ハーケンは、ジークフリートの遺体とともに戻ってきて、ジークフリートは大イノシシに襲われて死んだと作り話をする。しかし、グートルーネもギュンターもそれを疑い、言い争いが起きる。

そこに、「すべてを理解した」ブリュンヒルデが登場して、「ブリュンヒルデの自己犠牲」と言われる長広舌を延々と歌う(インタヴューで18分とか言っていた)。

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そして、ブリュンヒルデは、ジークフリートの遺体から抜き取った指輪をはめて愛馬グラーネにまたがり、ジークフリートが火葬されている炎の中に飛び込む。

その炎は「ワルハラ」までを焼き尽くし、指輪は「ラインの乙女」に戻ることでこの物語は終わる。

最後にブリュンヒルデは(その場にいない)ヴォータンに向かって、「Alles weiss ich(私は全部わかっている)」 と言って炎に飛び込むのだが、ブリュンヒルデはヴォータンの意図をどう理解したのだろうか。

ヴォータンが最初にジークムントに託したかったのは指輪の奪還だけだろうか。それに成功したらヴォータンはその指輪をどうしただろう。元々あったラインの河底に返しただろうか。本当は自分が持ちたかったのではないだろうか。

私は、ヴォータンには誤算があったように思う。それは、自分が、契約を乗り越える自由を託すべく、人間との間に作った子供が双子の兄妹となり、その二人が愛を得てジークフリートを誕生させたことだと思う。自由な愛は管理できずに暴走するのである。

自分の孫であるジークフリートは、ヴォータンがジークムントに授けたノートゥングをトネリコで強化修復し、それを使ってヴォータンの契約の槍を砕いてしまう。これはヴォータンのもともとの筋書にはなかったことだろう。その背後には、ジークフリートが呪われたダークフォースを持つ指輪を手に入れたことがある。

さらに、ジークフリートは、ヴォータンに背いたことで罰を受けているブリュンヒルデを救い出し、孫と娘が夫婦になってしまう。

ジークフリートは「忘れ薬」を飲まされるという奸計にはまる愚かなところ(16歳は未熟だ)があるのが切ない(トリスタンとイゾルデの「愛の媚薬」をおもいだすなあ。ワーグナーの好きなシナリオだ)。

その愚かな行為が、愛を裏切られたブリュンヒルデに復讐心を目覚めさせてしまう。その結果、ブリュンヒルデジークフリートを滅ぼす手助けをしてしまう。その背景にはすべて「指輪」の呪いが関係している。

ブリュンヒルデは、ヴォータンの意思を「契約で自由を縛る神の時代は終わる。ワルハラを炎上させろ、愛の自由を謳歌せよ、愛の自由を妨げる邪悪な心は指輪とともに消滅させよ。」であると読み取ったのだろうか。

そうならば、なぜヴォータンはなぜ、最初から契約不履行となりそうなことがわかっているのに、ワルハラの建設を巨人族に依頼したのか。

壮大な「指輪」の物語。「わかった」というには程遠いが、何だかいまでも引きつけられていて、ヴォータンの心の内を思い続けてしまう。

その意味では、「指輪」の物語の主役はヴォータンだと思う。でも、「指輪」というオペラの主役は、ヴォータンの最愛の娘として登場し、男性主役を支え続け、最後の見せ場を演じ歌いきるブリュンヒルデかなあ。

余談になるけれど、カトリックの本質を歌う「レクイエム」には、Libera me(私を自由にしてください)という言葉が出てくる。これは神様を信じ、従うからこそ得られる自由のことだ。具体的には、Libera(=Liberty)とは、信心を得ることで地獄に堕ちる恐怖から自由になることだと思って、私は「レクイエム」を歌っている。

一方で、「指輪」の中で出てくる、Frei(Freedom、自由)は、神の契約から自由になる事に見える。このFreiという言葉はゲルマン語由来であって、ラテン語にはない。私の中では、LiberaとFreiは、神に近づくか、離れるか、真逆の概念に思える。

ラテン語圏の国は、Liberaの言葉に縛られて、教会の権威に従うカトリックに留まっているように見える。一方、ゲルマン語圏は、教会の制約から逃れる自由(Frei)を求めて宗教改革を起こした。という妄想が湧いてくる。

ワーグナーカトリックなのか、新教なのか私は知らない。

べートーベンの「第九」で歌うシラーの「an die Freude 」は、私には極めて新教的に聞こえる。それは、自らの信念に基づいて(教会の支援を必要としないで)直接神と繋がろうとすることを歌っていると思うからだ。

具体的には

Such' ihn über'm Sternenzelt!
Über Sternen muß er wohnen.

星空の上に神を求めよ
星の彼方に必ず神は住んでいらっしゃる

と確信をもって歌い、

Laufet, Brüder, eure Bahn,
Freudig, wie ein Held zum Siegen

兄弟よ、自らの道を進め
英雄が勝利を目指すように喜びをもって

と自ら行動を促すところだ。

それがロマンだ。カトリックはゴシックかバロックに留まる。

歌を通じて西洋のキリスト教に根差す精神世界の一端を感じられるところは、とても興味深いところだ。

さて、初めての「指輪」の鑑賞は、話の筋を追うことに注力し過ぎて、音楽を味わう余裕がなかった。これからCDやYouTubeで音楽の方をじっくり味わってみたい。

私は、正直言って、ワーグナーの、重々しい和声が、わかりずらい調性感で展開される音楽よりも、全編に歌が溢れて、自然に仕組まれた(長調を主体とした)調性の変化が心を浮き立たせてくれる、モーツァルトのオペラの音楽の方が断然好きだ。

ロマン派以降、調性感がだんだん崩れていって、音楽がわかりにくく、(短調が多くて、暗い響きで)感動しずらいものになっていったなあ、という私見を持っている。そんなこともいろいろ考えてみたい。調性感を宗教的な調和と関連付けるべきなのかどうかを含めて。

モダン=宗教の否定=調性を含む形式の否定、とするのは勝手だろうけれど、モダンになってつまらない、感動しないのであれば、モダンの意味って何だろう、とも思う。

それが解放(自由)即ち、進歩だと、言うかもしないけれど、ならば進歩することの価値って何よ、既成概念を破壊するだけでなにも生み出していないのでは、って思う。

形式による制約があるからこそ、美が表現できるという面があっていい。例えば韻文のように。ならば新しい形式を考えるのもアリだろう。

ここでも、「指輪」の提示している契約という縛りと自由の問題に戻ってくるのかな。

大田区郷土博物館の川瀬巴水展(後半)。巴水の描いた富士山を観て北斎の描いた富士山に思いを馳せる。そして画家が富士山を描く意味を考えてみた。

大田区郷土博物館の川瀬巴水展(2021年7月17日~9月20日)。前期と後期に分かれていて、前期は主に東京近辺の風景の版画が展示されていた。3回通って、勝手にご近所3部作と呼んでいる、東京20景の「大森海岸(1930年)」、「馬込の月(1930年)」、「池上市之倉(1928年)」などを堪能した。

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川瀬巴水 「大森海岸」

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川瀬巴水 「馬込の月」

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川瀬巴水「池上市之倉」

注) 画像データは以下のフリーリンクより

http://www.photo-make.jp/hm_2/ma_magomebashi.html

 

後期展示は、巴水が旅に出て描いた、日本各地から朝鮮半島までの風景画が主体になっている。大田区博物館は撮影が可能と今回知ったので(前期展もそうだったかもしれない)、代表作の画像データを掲載して感想を述べてみようと思う。

巴水らしい、桜と富士の組み合わせの構図が素晴らしいのは「西伊豆 木負(きしょう)(1937)年」であろう。これは巴水の版画の愛好家でもあったスティーブン・ジョブスが所有していたそうだ。

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巴水展で展示されている版画はすべて博物館の所有品で、写真が示すように、その作品の元となったスケッチ画と合わせて展示されているのがとても良い。

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地図が示すように、木負は沼津の南で(良い釣り場でもあるらしい)、富士山の前に見えるのは海なんだなと分かる。場所を知らないと湖越しの富士山の画のように見えてしまう。

湖を前にした富士山の版画としては、「山中湖の暁(1931年)」がある。

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あけに染まる富士は、北斎のいわゆる赤冨士「凱風快晴」を思い出すし、水辺に映る富士では「甲州三坂水面」を思い出す。

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北斎「凱風快晴」(東京富士美術館無料データ、以下同)

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北斎甲州三坂水面」

この夏、これもご近所の龍子記念館で、川端龍子が収集した「富嶽三十六景」が期間限定で掲示されていた。そこで見た四十六作品の印象が蘇ってくる。

富嶽三十六景」には、富士山だけを描いた絵は少なくて、富士山とともにある人々の生活風景を描いたものが多い。例えば、「尾州不二見原」はその構図の面白さからも有名だ。

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北斎尾州不二見原」(1830-32年頃)

その一方で、「武州玉川」は富士山を背景とした風景画に見える。

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北斎武州玉川」

巴水にも、富士山を背景にした人々の生活を描いた画はある。例えば「馬入川」(1931年)だ。

f:id:yoshihirokawase:20210916120716j:plain    川瀬巴水「馬入川」(1931年)

「馬入川」を見ると、なんとなく北斎の「武州玉川」を思い出すところはある。相模川多摩川の違いはあるものの、巴水はそれを意識して描いたのかどうか。いや、むしろそれぞれの画風を楽しむべきかな。

そういった視点では、巴水の「田子の浦の夕」(1940年)と北斎の「東海道程ヶ谷」を見比べるのも楽しい。

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巴水の「田子の浦の夕」(1940年)

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北斎の「東海道程ヶ谷」

木の間から富士山を見るところは同じだけれど、描いている思いはそれぞれ違うということがわかる。

巴水は富士山の前景として人の営みを描き、北斎は人の営みの背景に富士山を描いているように思う。

巴水は富士山と正面から向き合うのに対し、北斎は富士山が人々の生活を見守っているかのような描き方だ。これには北斎に限らず、日本人の心の中にある富士山に対する尊崇のような気持ちが自然に込められていて、それが心に響くのだろうかと妄想する。

そういった面から興味深いのは北斎の「信州諏訪湖」だ。

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北斎 「信州諏訪湖

先日、NHKテレビでブラタモリを観ていた時のことだ。

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諏訪湖から富士山が見えるというシーンをやっていた。それは北斎の「信州諏訪湖」と極めて近いアングルなので、「あっ」と思った。

諏訪は、地層的に、糸魚川―静岡構造線と中央構造線という2つの断層線が交差する場所で、縄文人が、糸魚川―静岡構造線に沿って、(自分たちを見守ってくれる)富士山を背景に移動しながら、諏訪までたどり着いたと言うような話をしていた(富士山から諏訪湖までの見通しのいい平坦な道が糸魚川―静岡構造線で、それに沿って歩いて来たようだ)。

何と、富士山に対する想いは縄文人から引き継いでいることを知ってちょっと驚いた。

巴水は全国を回って風景画を描いているのだけれど、大田区郷土博物館で見る限り、諏訪湖の画はないし、ネットをググってみても私には見つけられなかった。巴水が信州で描いた画は木崎湖松原湖はあるようだが、諏訪湖の画を描かなかったのだとしたら、それはなぜなのか興味が湧く。たまたまその時は富士山が見えず、いいスケッチ画が描けなかったからなのだろうか。

北斎で、「えーっ」という感じで、見とれてしまった画がある。

まずは、「五百らかん寺さゞゐどう」だ。

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北斎「五百らかん寺さゞゐどう」

本物を見ていると、富士山がすごく遠くにあるように見える。それは板の間の線が富士山に集まるように、北斎には珍しい、遠近法を使って書かれているからだと気が付く。それは富士山を見ている人々の思いが富士山に集まっていることを明確に表現している。

この広大な空間表現でさらに驚いたのは、「礫川雪ノ且(こいしかわゆきのあした)」だ。このデジタル画像では感じられないけれど、本物を眺めていると、雪見をしている東屋から富士山までの広大な空間がこの画に詰まっていることに気が付いて驚愕する。

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北斎 「礫川雪ノ且(こいしかわゆきのあした)」

それは、オルセー美術館セザンヌの「サント=ヴィクトワール山」(1890年)を見た時の同じ感動を思い起こした。

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セザンヌ 「サント=ヴィクトワール山」 1890年

この画の、サント=ヴィクトワール山の前に広がる空間の大きさに圧倒されたことを覚えている。

北斎の「富嶽三十六景」は1832年頃の作品なので、フランスのジャポニズム盛んなりしころ、セザンヌ北斎の版画に感銘し、この空間表現に目覚めたという事は大いにあり得るのではないかと妄想が湧いた。

逆に「サント=ヴィクトワール山と大きな松の木」を見ると、巴水を思い出してしまう。これは木が主張している感じだ。

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セザンヌ 「サント=ヴィクトワール山と大きな松の木」

さて、巴水に戻ろう。

今回、富士山以外で印象深かったのは房総の海を描いた画だ。波が岩に当たって砕けるところの表現がすばらしく、見入ってしまった。

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岩うつ浪(房州 黒生(くろはい)」と「犬吠ノ朝」(1931年)

また、朝鮮まで旅行して描いた画もしみじみと感じるものがあった。

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「水原 西門」

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「水原 華虹門」

また、版画ならではの工夫を見せてくれるのも勉強になった。

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「出雲松江(三日月)、(おぼろ月)、(曇り日)」

同じひとつの風景から、月と雲の形と、色刷りを変えることでは製作品を生み出している。

この法隆寺も同じ手法だ。

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法隆寺 東里」

「池上市之倉」も版木は全く同じで色合いの違う濃摺と薄摺の両方が展示されている。

版画は同じ版木を使って何百枚も摺るものだし、北斎などは、展示されている美術館で随分色合いが違うなあと思う時もある(例えば、「遠江山中」)。

唯一無二の油絵とは違う、版画の本物って何だろうと考えることもある。基本は絵師が認めた彫師と摺師によって生み出されたものかどうかにあるのだろうなあ。

巴水の描いた富士山の画を見ながら、北斎、さらにセザンヌまで思いが馳せたのはなんだか楽しかったな。

 

二期会のモーツァルト「魔笛」(宮本亜門演出)を東京文化会館大ホールで観て思ったこと(2021/9/9)

モーッアルトの「魔笛」(K.620)。モーツァルトが亡くなる1791年に作曲された最後のオペラ作品(ジングシュピール)。

2幕で2時間40分程度の作品。

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今回初めて観た。すべてにモーツァルトが溢れてていて、素晴らしい。プロジェクションマッピングを使った宮本亜門の斬新な演出も良かった。

魔笛」が描くものについては、いろいろ言われているのは知っている。今回、私が理解した話の本質は簡単に言うと次のようになる。

自然に恵まれ本能のままに生きる世界(夜の女王と鳥刺し男のパパゲーノが生きている世界)とザラストロが支配する、徳と叡智の力よって人間を進歩させる啓蒙的な世界を、タミーノとパミーナが、ザラストロの与える試練(しゃべらない、自然の与える火と水の恐怖を克服する)を、自然を代表する「魔笛」の力を借りた二人の愛の力で克服することで、この2つの世界に融和的な橋を架けた。

となる。

一番驚いたのは、ザラストロは実はとてもいい人だという事。ザラストロは徳と叡智だけの世界では冷たい管理社会になることはわかっていて、このままでは目指している復讐のない愛の溢れる世界は訪れない危機感があった(多少勝手読みしてるかな)。それを打破するためには自分の世界にない何かが必要だとわかっていて、男子のみの徳と叡智の世界に、皆の反対を押し切って女性のパミーナを受け入れ、タミーノとともに炎と水の自然の恐怖を克服させる試練を与え、それを二人に「魔笛」による自然の力の支援を得た愛の力で克服させることで、自らの世界を一段と高めようとしたことだ。

それがよくわかるのが、このアリア、「この聖なる神殿では」だ。バスの歌うアリアで最高峰なんじゃないだろうか、と思えるくらい素晴らしいし、歌詞の内容も濃い。

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こんな勝手読みでは、わからないと言われそうなので、少しあらすじ書いてみる。

夜の女王は、娘のパミーナをザラストロに捕えられてしまった。そこで、夜の女王はタミーノ王子にパミーナの救出を依頼すべく、魔法の鏡に映ったパミーナの美貌を見せてその気にさせ、魔法の笛(魔笛)を救出のための援助道具として渡す。

この魔笛は、夜の女王の夫が作ったもので、これを吹くと、動物たちや人間が喜んで踊り出す不思議な力がある。そして、夫はザラストロに殺されている。そのため、夜の女王は復讐に燃えている。

なので、夜の女王は、第2幕の冒頭で、娘のパミーナにナイフを渡し、これでザラストロを殺せと命じる。この場面が、「魔笛」で一番有名なアリア、「復讐の心は地獄のように胸に燃え」だ。これは「夜の女王のアリア」とも言われて、コロラトゥーラ・ソプラノのベンチマークのようになっている曲だ。

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この曲が派手だから、夜の女王が主役に思えるけれど、そうではなく、主役はその娘のパミーナのソプラノ、タミーノのテノール、次来るのが、バスのザラストロ、その次がバリトンのパパゲーノだと思う。そして、タミーノに同行する鳥刺し男パパゲーノには鈴が渡される。

パパゲーノと言えば、この曲「おれは鳥刺し」

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昔、クラシックギターを弾き込んでいたころ、F.ソルの「魔笛の主題による変奏曲」を一生懸命練習していた。それが私の最初の「魔笛」との出会いだったと思うが、その主題とはこの曲だと思うんだけれど、ソルの主題と似てはいるけど同じではない。まあ、モーツアルトとソルの両方が楽しめていいかな。

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第2幕の最後の方に出てくる、パパゲーノとパパゲーナとの2重唱も美しい。

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最近オペラでは、ベルディもそうだけど、2重唱の美しさに目覚めたところだ。

アリアで言えば、パミーナのアリアも何曲も素晴らしいものがある。パミーナの2重唱もいいものがあった。

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さて、あらすじに戻ると、第2幕で「夜の女王のアリア」が終わると、タミーノとパパゲーノは3人の童子に連れられてザラストロの神殿に向かう。

この3人の童子は、多分9歳から13歳ぐらいまでの3人の男の子だけれど、ボーイソプラノの美しいハーモニーで何曲も歌うし、劇の進行の上でも大切な役割を担っている。大拍手を送りたい。

そして、タミーノが童に案内されてザラストロの神殿に向かう時に、3つの扉の内の一つを選ぶ試験が行われる。

その3つの扉に書かれているのは、正義(Gerechtigkeit)と労働(Arbeit)と芸術(Kunst)。タミーノは最後に正義(Gerechtigkeit)を選んで、叡智(Weisheit)の世界に進んでいくのが何か象徴的だ。

その後、パミーナがザラストロの部下のモノスタトスにいじめられたり(その後、モノスタトスはこの事をザラストロにとがめられて追放され、夜の女王側に寝返る)、パパゲーノが将来の伴侶であるパパゲーナをザラストロから与えられたりする。

パパゲーノは夜の女王から与えられた鈴をつかうことで、パパゲーナと結ばれるところも象徴的だ。このカップルは子供をたくさん作ろうと歌って(前述のYouTube)、自然のままに生きることの象徴だ(ザラストロは心が広い)。

そして、タミーノとパミーナはザラストロの与える試練を乗り越えて、めでたく大団円となる。

魔笛」。寓意に富むと言われるストーリーも自分なりに咀嚼して楽しめた。さあ、CDを手にいれてしっかり音楽も聴こう。

でも、オペラはやっぱり劇場じゃないと楽しめないんだよなあ。

ああ、次は「ドン・ジョバンニ」観たい。

最後に出演者のリスト。

皆さん素晴らしかった。パミーナとザラストロの歌声に酔いしれた。タミーノのテノール。あんなふうに伸びのある高音域が欲しい。

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聖徳太子1400年遠忌記念「聖徳太子と法隆寺」展を見て感じたこと。

今年は聖徳太子が621年に亡くなってから1400年。それを記念した展示会を国立博物館で観て来た。

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tsumugu.yomiuri.co.jp

国宝の「薬師如来坐像」や、四天王立像の「広目天」、「多聞天」。重要文化財の「日光菩薩」、「月光菩薩」の立像など、およそ1400年前の飛鳥時代のものだけでなく、その後、聖徳太子を記念して作られたられたものが数多く展示されている。

平安時代、太子の500年遠忌(1121年)に作られた、「聖徳太子および従者像(国宝)」(全部で5体)や、鎌倉時代(1285年)の「十七条憲法版木(重文)」など、太子への尊崇の念を感じるものが数多く展示されている。

その背景には、聖徳太子が亡くなってから、聖徳太子は「救世観音」の生まれ変わりだという信仰が生まれたことがあると言う。

「救世観音」の仏像は法隆寺夢殿の本尊であるが、秘仏として公開されることはめったにない。

その「救世観音」像が、これも法隆寺にある「百済観音」像とともに、8K 3DCG画像で動展示されているのはちょっと感動ものだった。ホログラムではないので、ディスプレイは平面なんだろうと思うけれど、3DCGのテクニックでかなり奥行感のある見事な表現になっている。

pid.nhk.or.jp

摸本ではあるけれど、昔の一万円札の原画となった「聖徳太子二王子像」も見られる。

日本の古代に思いを馳せるよい展示会でした。

 

 

 

 

大田区龍子記念館所蔵の葛飾北斎「冨嶽三十六景」を満喫する。

大田区の龍子記念館。昭和の時代に豪快な日本画の大作を描いた川端龍子の作品を展示している。その記念館で、川端龍子が収集した葛飾北斎の「冨嶽三十六景」全四十六作品を期間限定で公開している。

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「冨嶽三十六景」(1830-1832年頃)は、富士山を含む絵を江戸から駿府尾州にかけての太平洋側から描いた三十六作品と甲州側から描いた十作品の、合わせて四十六作品の版画からなっている。

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赤冨士と言われる「凱風快晴」や、「山下白雨」のように、冨士山だけを描いたものもあるけれど、誰もが知っている、大浪の中、鮮魚を船で江戸に運んでいる漁師を描いた「神奈川沖浪裏」や、職人が板を削っている大樽の輪の中から富士山が見える「尾州冨士見原」のような、人々の生活の中にある冨士山を描いている絵の方が多い。

北斎は70歳を過ぎてから「冨嶽三十六景」を制作している。それに刺激を受けたのか、川端龍子は、「冨嶽三十六景」を自ら収集し、それからインスピレーションを受けて冨士山の大作を描くことを考えていたようだ(記念館の説明)。

そして、赤冨士の下で雷が鳴っているのを書いた「山下白雨」に刺激を受けて、龍子は「怒る富士」(昭和19年)を描いたと言う。

さらに、龍子は画幅7.3メートルにも及ぶ「霹靂(はたたく)」を昭和35年に制作している。この時、龍子は75歳、その3年前には富士山に登頂しているという。

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北斎の「山下白雨」(右下に雷が描いてある)と龍子の「霹靂」(右)

背後に雄大な「霹靂」を感じながら、北斎の「冨嶽三十六景」を順に観て行くと、とても豊かな気持ちになる。

北斎は、とにかくイマジネーションが素晴らしく、遠近法にはほとんどこだわらず、描きたいものを描きたいように書いている。この自由な精神が、画法というルールに縛られることから解放されること目指していた、西洋近代画家に大きな影響を与えたと言うのは、本物をみるからこそ感じ取ることができる。

「駿州江尻」では、強風に懐紙が飛ばされる動きを感じるし、「遠江山中」は、材木の上にいる大工と下にいる大工は同じ鋸を引き合っていると思うんだけれど、そうだとしたら、この多重視点の自由さはなんという事だろう、と驚愕する。

また、なじみのある場所の1830年頃の風景が見られるのも楽しい。

「東都駿台」を観ていると、柳田格之進が歩いてくるような気がするし、「礫川雪ノ旦」(こいしかわゆきのあした)は、富士山までの雄大な空間に、なんだかセザンヌの「セントヴクトワール山」を思い出す。

「相州江の嶌」は干潮時に人が砂州を歩いていることや、江の島の右側に富士山が見える構図に驚く。

観れば見るほど、細かいところにまで目が届くようになって、新しい発見が続々出てくる。2時間ぐらい見ていても全く飽きない。

龍子記念館は徒歩圏にあるので、計4回ぐらい見に行こうかな。

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                「神奈川沖浪裏」

METライブビューイングの「アイーダ」を観た。見どころ、聴きどころ満載で楽しめた。

ヴェルディアイーダ。これを劇場で見るのは厳しいご時世に、METのライブビュービューイングで堪能した。

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2018年の上演。METの昇降機全部を使いきって演出し、舞台や大道具の使いまわしが凄い。合唱団は100人以上。ソリストは文句なしの名手ぞろい。

METライブビューイングならではの、幕間の出演者インタビューや、舞台設定の変更の様子が見られるのも楽しい。

最初の紹介では、「アイーダ」は、エジプト王女のアムネリスと、エチオピア王女で、今はエジプトに捕らわれて王女付きの女奴隷となっているアイーダの間の、エジプト軍人ラダメスをめぐる愛の三角関係がメインテーマだと言う。その結末をとくとご覧あれということだ。確かに、第一幕はアムネリスとアイーダの間の恋の歌合戦になっているなあ。

アイーダと言うと、見せ場は第2幕第2場の「凱旋行進曲」。舞台上には何百人もの役者が登場し、エジプトを表現する大道具もド迫力だ。凄い衣装をまとって、もはや背景の一部と化した王様が、威厳あるバスバリトンで、敵国エチオピアの軍を打ち倒したラダメス将軍の凱旋を迎え入れる歌を歌う中、ラダメス将軍率いる凱旋軍が生け捕った捕虜をみやげに入場し、有名な主旋律が「アイーダトランペット」で演奏される。それを支えるオケも素晴らしい。

役者が100人規模の合唱団となって、それをバックに、ラダメス(テノール)、エジプト国王(バスバリトン)、アムネリス(メゾ)、アイーダ(ソプラノ)がそれそれの思いを絶叫するかのように、歌い重ねる。

ラダメスの願いを叶えて、捕らわれて捕虜となったアイーダの父を国王は救うのかどうか、ラダメスは戦勝の褒美として、ラダメスを片思いしている王女のアムネリスを娶るのかどうか。だけど、ラダメスは捕らわれて女奴隷となっているアイーダと結婚したいのだと。こういったカオスのそのまま歌にしてぶちまけても音楽にしてしまうヴェルディの面目躍如の場面だ。

戦勝凱旋という国家の慶事より、愛の三角関係の情念の方が勝る、ロマン派の世界を味わうところだ。

うーん、凄い。映画では歌詞の字幕が出るので、何を歌っていいるかはわかるが、これを劇場で聴いていたらどう聴こえるのだろう。100人のパワフルな合唱に重ねていくソリストの歌唱というものを現場で味わいたいものだ。

この派手な金管が鳴り響くオケをバックにした合唱とソリストの重ね方は、ヴェルディの「レクイエム」の後半、SanctusからDies Irae のところを思い出す。こういうのがヴェルディの音楽なんだな。

歌唱としての聴かせどころは、第四幕最期のアイーダとラダメスの二重唱だ。「愛のために死ぬ」というロマン主義の極致を歌い上げる。アイーダ役のアンナ・ネトレプトの切なくも美しい高音に泣きそうになる。

もう一つの素晴らしい二重唱は、アイーダと、アイーダの父でエチオピア王でもあるアモナズロの二重唱。父は、娘のアイーダが思いを寄せるラダメスを利用してエチオピアに逃げようと娘を説得し、娘はそれはできないと逡巡する心根を吐露するシーン。

そういえば、ベルディの「椿姫」をMETのライブビューイングで見た時にも、同じようなシーンがあった。それは、息子のアルフレッドの同棲相手であるヴィオレッタ(椿姫)に、父親のジョルジョ・ジェルモンが「息子と別れてくれ」と迫るところ。それはできないと最初は拒むヴィオレッタも最後には折れ、それを慰めるようにジョルジョが「泣け、泣け」と慰めを歌うシーンがとても素晴らしかった。

yoshihiro-kawase.hatenablog.com

2人が違うセリフを歌いながら見事にハモるのは、ありえない美しさだ。これもヴェルディの真骨頂だと思う。派手にラッパを鳴らして、ソリストに絶叫させるだけがヴェルディの音楽なのではない。

そして、この父親を演じているのは、両方ともアメリカ人のバリトン、クイン・ケルシー。歌声そのものに聞き惚れてしまう。断固たる決意をもって、娘に立ち向かう父親という役はまさにはまり役だと絶賛するところだ。

王女アムネリスを演じたラチヴェリシュベリも良かった。幕間のインタビューで、アムネリスはloveとjerousy であのようなふるまいになるけれど、badな人物ではないのでそのように演じたいと言っていたのがよく出ていた。

特に最後、生きたまま墓に入ったアイーダとラダメスの二人が墓の中で愛の歌を歌っているその真上で、アムネリスはラダメスへの思いを切々と歌う。ヴィジュアル的にも見事な愛の三角関係の表現だ。オペラはCDで聴いてもわからない、観るものだ、というのが実感できる。

また、インタビューで、アイーダ役のネトレプトはPieta(慈悲)という歌詞が20回ぐらい出てくるけれど、それぞれ意味が違うので、それらを歌い分けるのを聴いて欲しいと言っていた。私は3回ぐらいしかPietaが聞き取れなかったけれど、一流の声楽家の表現の深さに思いを致したところだ。

METならではの豪勢な舞台回しと出演者。ヴェルディの世界を満喫できます。お勧めです。

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ハーバード老化生物学研究センター共同所長のD.A.シンクレア氏が著した「ライフスパン(老いなき世界)」を読んだ。老化を情報理論的に考えているところ(デジタル情報である遺伝情報のコピーミスを訂正すれば老化しない)が新鮮だった。

ハーバード老化生物学研究センター共同所長のD.A.シンクレア氏が著した「ライフスパン」(2019年に原作)の日本語版(2020年9月)を読んだ。

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よく売れている本なので、「老化は病気なので、化学物質を摂取することで予防や治療ができる。」という氏の主張は知っていたが、その科学的な根拠、仕組みを説明している理論的な背景、実際にはどういう化学物質で老化が治療できるのかを知りたくて、隅から隅までしっかり読んだ。

氏が主張していることは、酵母やラットなどの生物実験で実証されており、権威ある学会誌にも掲載され、学界でも認められている。問題は、そういった物質を人間が長期摂取した時に、害が起きないかどうかの検証がまだ不十分であるという事。

そうではあるものの、筆者を含めてその物質を既に継続して摂取している人々はいて、特段の不具合はないようだ。気分がいい、病気にならない、物事に積極的に取り組める、などの効果を感じるとのことだが、これがブラセボ効果でなく、本当に人の健康寿命を延ばす原因になっているのかどうかはまだ実証できていないのが現状のようだ。

それらを踏まえて、現存する薬やサプリで老化を遅らせる効果が期待できるものとして以下のものが紹介されている。

①メトホルミン

これは、糖尿病の治療薬として広く使われている。先進国では糖尿病治療の目的でのみ処方箋を得て購入する薬ではあるが、タイでは、一般薬局で一粒数円でだれでも購入できる。著者はこれを毎日1グラム摂取している。

②レスペラトロール(サプリとして買える)

 酵母を長生きさせる(酵母の分裂回数は通常25回であるのが、34回まで伸びた)ことが分かった。赤ワインの中に入っている成分(ただし、毎日1000杯ぐらい飲む必要がある)。著者はこれを毎日1グラム摂取している(サプリは1錠で10ミリグラム)。

③NMN(ニコチンアミドモノヌクレオチド

これもサプリで買える。

著者はこれを毎日1グラム摂取している。

著者の毎日の摂取量は、サプリの錠剤数十錠に匹敵する量である。それなりに高価だし、同量飲むのはちょっと躊躇するかなあ。

それ以外にも、毎日83ミリグラムのアスピリンと、ビタミンD, K2の推奨量を摂取している。

生活習慣として著者が実践しているのは、

①砂糖、パン、パスタの摂取量を極力少なくする。デザートは食べない。

②一日2食にするなどして、水以外何も取らない時間を長くする。(夜8時に夕食を終えたら、朝を抜いて、12時に昼を取ると、16時間の断食をしていることになる。そういったストレスを体に与えることが効果がある)。

③運動する(ある程度の負荷は必要)。

④植物を多く接摂取し、哺乳類は食べないようにする。

⑤タバコは厳禁。

⑥プラスチック容器に入った食事(コンビニ食など)を電子レンジにかけて食べない(有害なPCBが溶け出す)。

BMIは23-25に維持する。

これらは実践してもいいだろう。

さて、次に筆者が提唱している「老化の情報理論」とそれに基づく「長寿遺伝子をオンにする」方法を見てみよう。キーワードはエピゲノムのアナログ情報のメンテナンスとそれを行うサーチュインタンパク質の働きを高めることである。

さて、遺伝子(DNA)は30億対の塩基対で出来ているが、この塩基対のすべてが発現して、タンパク質の設計情報(デジタル情報)として使われるわけではない。

DNAは3次元形状をしていて、ヒストンという球状のたんぱく質に巻き付いている。そして、ヒストンに強く巻き付いている場所のDNAは発現せず、ゆるんでいるところのDNAは発現する。これが遺伝子のスイッチの役割を果たしている。

そしてその巻きつき方は、サーチュインという遺伝子(長寿遺伝子)から生成されたサーチュイン・タンパク質(酵素)が、それが取りついたところのアセチル基をつけたり外したりすることでその場所の巻き付き方の強度を調整して、遺伝子のオンオフを制御している。

ゲノム(遺伝子全体)が(タンパク質を作るための)デジタルのデータ集だとすると、この遺伝子の巻き付き方の状況(エピゲノム)はソフトウェアのようなもので、そのゲノムのおかれた状況や環境の変化に対応して、ある意味アナログ的なゲノムの制御回路のように機能している。

そして、このサーチュイン(酵素)は、壊れたDNAの修復を役目としている。癌に代表されるように、病気は、DNAのコピーミスで、あるべきでない細胞や、本来の機能を果たせない細胞ができることで起こる。なので、サーチュイン(酵素)が、壊れたDNAの修復を完璧に行うことができれば、細胞は常にあるべき姿で生成され、病気にもならず、老化もしない。

つまり、サーチュインを元気に活動させることが老化しないための根幹である。そのためいはサーチュインにエサを与えなくてはならない。そのエサになるのが、NMNであり、レスペラトールであると、私は理解した。

メトホルミンは、メチル化の工程に関係し、サーチュインを活性化し、老化時計を遅れさせるようだ(被験例はすくないとのこと)。

また、老化とは、もう細胞の分裂が行えなくなった老化細胞が発生することでもある。なので、このゾンビ細胞を(薬物などで)きれいに取り除く、あるいは老化した情報を新規状態にリセットすることができれば、老化しない。

そういった研究もおこなわれていて、その分野では、山中伸弥氏が発見した、通常の(役割の決まった)細胞を(なんにでもなれる)幹細胞に戻す4つのリプログラミング遺伝子のうちの3つを使う研究も興味深く紹介されている。

さらに面白かったのは、著者は自分の「老化の情報理論」をシャノンの「通信路符号化定理」と同じように論じていることだ。

シャノンは誤りのないデジタル情報伝送のためには、バックアップデータを用意しておいて観測者が訂正データを訂正装置に送って元のデータを復元させる、誤り訂正機能を持たせればよいと言った。

このアナロジーで行くと、

情報源=両親から得た卵子精子

送信機=時間と空間を介してアナログ情報を伝送するエピゲノム

受信機=未来の自分の体、となる。

これら以外に、元データを記録する観測者と訂正データ、元データを復元する「訂正装置」が必要だけれど、このうちの「訂正措置」が見つかったと著者は考えている。

それが、山中伸弥氏の発見した、リプログラミング遺伝子で、それによって老化をリセットできると著者は考えている。

何だか、すごいな、という感じだ。時間を巻き戻してしまうということに見える。生物の中の時間の概念も深いなあ。

観測者って誰だろうと思うが、筆者は明記していないと思う。これを神として、神は訂正データを送らないので人は死ぬのが必定なのだ、永遠の命を得たのはあの方だけ、というのが宗教者の立場だろうな。

それにも関係すると思うが、著者の行っている、「老化しない=永遠に生きる=死がなくなる」ということを目的とした研究の実施自体が、宗教的、倫理的、社会経済学的な視点から反発を受けることも多いようだ。それに対する著者の超前向きな考え方も楽しく読めた。

皆が健康で長生きできれば、個別の病気に対する医療費は減る。なので、健康長寿社会では医療費の総額は下がると言う。なんてポジティブなんだろう。

そして、いつまでも働けることは素晴らしいことだと。高齢者が若者の活躍の機会を奪うなんて情けない議論は一切しないし、高齢になってやることがないなんてことはないと。社会貢献するのもいいし、趣味で人生を楽しんでも良い。

共同著者にサイエンスライターがいることもあって、章立てもスッキリしている。表現もクリアで、日本語訳もとても読みやすい。最先端の研究内容がとてもよく理解できる。変に初心者に寄り添わず、丁寧な用語集をつけた上で、一定レベルの専門用語で語っているところもよかった。お勧めです。