モーツァルト、格別に心に響く。その理由は、自然から拾った肉声のような歌が、調性に捕らわれずに揺らいでいて、それが共鳴を手掛かりに連続的な転調で見事に解決されていく様子に魂が揺らぐからと、「K.545」を弾き、「レクイエム」を学び、小林秀雄を読んで思った、というお話。

多くの人が言う。「モーツァルトは他の音楽とは違う」と。

私も「モーツアルトか、それ以外か」というぐらい別格に思える。なぜなんだろう。

「それはモーツァルトが天才だからさ。」そうかもしれない。

それでは先に行けないので、モーツァルトモーツァルトたらしめている理由を言葉で理解したい。と、いうことで、碩学の書いた本をいくつか読んでみた。その後で自分の体験と対比して感想を述べてみたい。

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【モオツアルト】

小林秀雄は「モオツァルト」の中で、以下のようなことを言っている。

1)モオツァルトの主題は短い。その短いメロディが、作者の素晴らしい転調によって、魔術のように引き延ばされ、精妙な和音と混じり合い、聴く者の耳を酔わせるのだ。そして、まさにその故に、それは肉声が歌うように聞こえるのである。

2)モオツァルトの器楽主題は、ハイドンより短い。ベエトオヴェンは短い主題を好んで使ったが、モオツァルトに比べれば余程長いのである。言葉を代えれば、モオツァルトに比べて、(ベエトオヴェンは)まだまだメロディを頼りにして書いているともいえるのである。

3)長い主題は(ベエトオヴェンのように)観念の産物である。しかし、モオツァルトは主題を(観念から生み出さずに)自然から拾う(だから短い)。モオツァルトの異常な耳は、その短い主題のあらゆる共鳴を聴き分ける。

4)モオツァルトは大自然の広大な雑音のなかから主題を捉える。そしてその共鳴が、全世界を満たしているのがわかる。なので、モオツァルトはある主題が鳴るところに、それを主題とする全作品を予感する。それがモオツァルトがある手紙の中で言っている、「音楽は順を追って演奏されるのではなく、一幅の絵のを見るように完成した姿で現れる」という事の意味なのだ。

5)モオツァルトには、心が耳と化して聞き入らねば、ついていけぬようなニュアンスの細やかさがある(ハイドンにはない。ハイドンは主題的器楽形式の完成者ではあるが、歌がない)。一と度この内的な感覚を呼び覚まされ、魂のゆらぐのを覚えたものは、もうモオツァルトを離れられぬ。

6)モオツァルトの捉える、自然の中に生まれたばかりの不安定な主題は、不安に耐え切れず動こうとする。それはまるで己を明らかにしたいとねがう心の動きに似ている。それは本能的に転調する。主題が明確になることは、主題がある特定の観念なり感情なりとなれ合ってしまうので、それは死を意味する(モオツアルトの主題は転調するのでそうはならない)。これがモオツァルトの作曲の信条なのだろう。

(注) モーツアルトの主題は自然の揺らぎのように常に動いているので、絶えず転調している。それが生命を感じさせる。まず主題があって、それを音楽で表現した、という類のものは死んだ音楽である。というのが私の感想。

7)モオツァルトの音楽には、短い主題が矢継ぎ早にいくつも現れる(Divertmentoなど)。一つの主題をとらえきれぬうちに次の主題が現れ、僕らの心はさらわれて、魂だけになる。それがtristesse allante(疾走する悲しさ)となる。こういう矛盾した二重の観念を同時に思い浮かべるのが自然になる、というのがモオツァルトの世界。残酷な美しさ、とか、真面目な諧謔とか。

8)ベエトオヴェンは対立する観念を表す二つの主題を選び、それで強烈な力感を表現した。モオツァルトの力学は、はるかに自然であり、その故に隠れている。一つの主題自身が、まさに破れんとする平衡の上に慄えている。(四十一番のシンフォニーのフィナアレやハ長調クワルテット(K.465 )で説明)

9)ハイドン器楽的旋律に、モオツァルトは歌声の性質を導入した。

10)モオツァルトには、熟練(さまざまな音楽技術の修得、テクニック)と自然さとの異様な親和のうちに、精神の自由さを表現している。

11)モオツァルトの均整は、均整を破ることで得られているモオツァルトは音楽形式の破壊者である。モオツァルトは自由に大胆に限度を踏み越え、その思い切った傷口の治癒法を発明している。

(注)破壊するだけでなく解決しているんだ。それが調性を破壊しただけのロマン主義以降のモダンな音楽家達との大きな違いだな。

その解決の手法は揺らぎによる相転移だ(量子アニーラーか)。(感想)

12)モオツァルトの音楽の極めて高級な意味での形式の完璧は、彼以外のいかなる音楽家にも影響を与え得なかった。

13)なので、モオツァルトはハイドンとベエトオヴェンの間に橋を架けた、とういう見方は的外れである(同意)。

14)(蛇足的に)ハイドンは器楽的主題の音楽の形式の完成者ではあるが、歌がない。モーツアルトには歌しかない。楽器もすべて歌っている。モオツァルトのオペラは歌しかないので(オーケストラに声を加えることは歌う楽器の種類がひとつ増えたということ)、目をつぶって聞けばよい(演技や話の筋を追うのは本質と関係がない)。

(感想)ハイドンに歌がないと言われると、これからメサイアの合唱を習おうかと思っている身にはつらいなあ。器楽的に扱われる声の歌を学ぶのもいいのかな、と思うしかないな。モーツァルトのオペラを目をつぶって聴けと言われたら、オペラ業界は立つ瀬がないよなあ。オペラを見たい人はワーグナーヴェルディを聴け、かな。

さて、小林秀雄だ。

学生の頃に読もうとした記憶があるが、3行読んでは眠くなり、全然進まなかった記憶がある。

今回、2回読み直して、言いたいことが分かったように思う。氏は音楽家ではなく、リスナーの立場での物書きはあるけれど、私の疑問に相当程度言葉を与えてくれた。

モーツアルトは、

・音楽形式を破壊し、そして同時にその治療した姿をその音楽の中で示している。

(感想) ゆらぎによる破壊が他の層(調)への相転移(転調)による解決に至る。その自然なダイナミズムが人々に自然な喜びを与えているのだろう

・自然から聞き取った歌を自由に走らせるうちに、その揺らぎが調性の縛りを超えていき、それがかえって生命の生き生きとした感じを表わしていいる。

(感想)調性の中で落とし前をつけようとする音楽は息苦しくて、死んでいるように聞こえる。調性そのものを破壊してもその解決を示さなければ、音楽は崩壊する(現代音楽の一部)。

ここからは妄想なんだけれど、ハイドンの形式は、古典的な波動(安定的な正弦波)としての音のハーモニックス(共鳴)であるのに対し、モーツァルトの音楽は、量子力学的な波動であって、沢山の波束が揺らぎながらも、ボゾンみたいな巨視的なまとまりを持ちつつ、揺らいでいて、小さな相転移動的平衡と成長の混在)をすることで生命を表している、というようなことを思う。

そしてモーツァルトの聞き取る自然の共鳴は、量子的な波動関数の重ね合わせとその間の遷移を思い起こさせる。そして、その波動関数の重ね合わせの全体が一瞬でわかるので、その重なりを順を追って再現するための時間のパラメータがモーツァルトの頭の中では不要になっている(ループ量子重力論的だな)。

つまり、モーツァルトの音楽だけが、(量子論的な揺らぎが本質である)自然と生命の姿に整合していて、それが天下無双の歌となって私たちのこころに共鳴するのだろう。

小林秀雄のおかげで、わたしの思いが言葉によってかなり整理でき、量子物理的な妄想を得たのは、収穫だったと思う。

 

【音階の音楽家

次に、学生の頃に読んだ、吉田秀和の「主題と変奏」の中にある、モーツァルトを論じた、「音階の音楽家」という評論の事を少し話したい。そのエッセイのサブタイトルは、

モーツァルトって、いつもド・レ・ミ・ファばかりなんじゃないの(H.S.夫人)」だ。

ははは、確かにそう思っている人は多いだろう。

実は、大学生の頃の私は、それに近かった。20歳の頃、ロックを卒業(?)して、ピアノを中心にクラシックを聴き始め、レコードを買い、FMのエアチェックをたくさんした。

愛聴のピアノ曲は、主にショパンとベートーベンで(極めて普通だ)、たまに、バッハ、シューベルトシューマンドビュッシーを聴く程度。モーツァルトピアノ曲は一枚もレコードをもっていなかった。ハイドンは聴く気すらなかった。

その理由は、ピアノは、難曲を名人が見事に弾き切るのを聴くものであって、子供でも弾けるような音階だけのモーツァルトピアノ曲なんて、あえてレコードを買うまでもないや、という、とても表層的な理解でいたからだ。

でも、モーツァルトのピアノに興味がないわけではなく、FMでたまたま聴いた、ポリー二の弾くモーツァルトのピアノ協奏曲23番(のその明るさ)が一瞬で大好きになったことをよく覚えている。

ポリーニショパンエチュード集が愛聴版で、一番好きなピアニストはポリーニであったこともあるだろう。(ポリー二のブラームスピアノコンチェルト2番も大好きだ。でも、シューベルトのさすらい人はリヒテルでなくてはならない。あれ、話がそれた。モーツァルトに話を戻そう。)

いつからモーツァルトを至高のものとして大好きになったのかは覚えていない。

確かに言えることは、40歳を過ぎて初めてピアノを習い始め、まだ初心者なのに、軽い気持ちでモーツァルトのあの有名な16番のソナタ(K.545)の第一楽章を弾こうとしたことがあって、その時、身をもってモーツァルトの深さ、凄さ、に気がついた。

そして、自分がモーツァルトにすべてを見透かされているようで、モーツァルトがレクイエムで言っている、Profundo Lacu(底なし沼)に落ちたことを知った(どれだけ自己流で練習してもモーツァルトの音楽に到達できない。そして練習をすればするほどモーツアルトが好きになる。もう神への愛の境地か)。

ピアノ初心者は、音階練習をしないといけないのだが、「そんな無味乾燥な練習は嫌だな、そうだ、音階練習みたいなモーツァルトを弾けばいいんだ。」

そんな軽い気持ちでK. 545を習い始めたが、全く形にならない。弾いている自分が聴くのも苦痛なへたくそさだ。音階練習にすらならない。

「なぜなんだ、譜面ずらは単なる音階練習なのに(H.S夫人と同じだ)」

譜面はこうだ。

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ここで、吉田秀和氏が言う。

上の譜面の三段目の最初の小節のCis音(C♯)が新しい雰囲気をもたらし、動揺と緊張を氏の胸に引き起こすそうだ。

ハ長調の音階練習なら♯はいらない。弾いてみると実感するが、ここがハ長調を外れるC♯になってることで、音が生き生きしてくる。

(感想)ハ長調の音階で構成される(ダイアトニックコード)Dmのコード(短調)が、二長調のDコードになるともいえる。暗い短調のコードが嫌なのかな。

私の実感としては、音階練習なら16分音符で並べればいいものを、音階を昇降する最初の音が8分音符になっているところに、生き生きした動きを感じる。

最初ラからラへの音階昇降であったものが、自然にソーソ、ファーファ―、ミーミ、レーレと降りてきて、そこで、レで始まるニ長調を予感させるC♯が出てくる。そしてここから音階は高いドまで駆け上がり、その後Fの和音とGの和音で降りてくる。それはこの音階が後にヘ長調ト長調で再現されることを予告しているようだ。

もう、たまらなく心が動かされる。ところが、ここがピアノ初心者は、歌うようには全く弾けない。指のタッチがコントロールできないので、音階の階段がゴツゴツして踏み外したり、ころげ落ちることが頻発するのだ。

さらに、吉田氏は、ハ長調の主テーマが終わった後の展開部に言及する。

譜面はこうだ。

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ここは左手と右手が掛け合いをするところだ。左手が男性で、上昇音階で問いかけ、右手が女性で、下降音階で答える、そんな二声のアリアに聞こえる。

氏はここの音階の展開と転調にデモーニッシュな力を見ている。確かに♯と♭だらけだ。

私には、各音列が違う調である感じはするものの、それぞれが何調かと言われても、しっくりした答えが思い浮かばない。

こういった半音階の動きは、小林秀雄の言う自然な歌の揺らぎでもあり、調性の自由な展開の姿でもあるのだろう。

こういった揺らぎに起因する自由な明るさが表現できないと、音楽にならない。

逆に言うと、この譜面からどのような音楽を紡ぎ出すかは、演奏家の力量や音楽観を裸のままで示すことになる。なので、初級者が弾こうとすると力量のなさがモロにみえてしまって、それがかえってモーツァルトの魔力に魅せられることになる。

ここで、一流のプロが弾く、K545 をいくつか聴いてみよう。各人ニュアンスが違っているのが面白い。

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バレンボイム。私は、これを模範としたいなあ。

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リヒテル。素晴らしいけれど。この遅めのテンポでもいいんだっけ、とは思う。

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藤田真央。素晴らしいモーツァルト弾きだと思う。この演奏はかなり速めで、装飾音で遊んでいる。かなり自由を感じる。

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グレングールド。最初聴いた時は腹が立つほど変わっていると思ったが、今は結構好きかも。

この4名が「モーツアルト・コンクール」のファイナリストでこの曲の演奏で決着をつけるとすると、あなたは誰を選ぶだろうか。

【第2楽章】

私は10年ぐらいの間に、K545は3楽章全部を習ったが、発表会で弾いていいと言われたのは第2楽章だけだ。これも見た目は練習曲なんだけど、私がぼんやり弾くとほんとに練習曲になってしまう。

この第2楽章と真剣に向き合うと、ここまで魂を入れた演奏をすることになるのだ、といたく感銘したのが、この内田光子の演奏だ。

恐らくモーツァルトは、天から降って来る音符を書き留めるように、さらさらとこの曲を描いたのだろうけれど、その境地を表現するのは並大抵の事ではない。

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【レクイエム】

「レクイエム」を歌っていると、モーツァルトの半音階の揺らぎがもたらす音楽の深みを強く実感する。その中でも特に、「キリエ」を歌っている時が素晴らしい体験だ。

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キリエは 四声の各パートが「Kyrie eleison」と「Christe elesion」の二つを、歌詞(ギリシャ語)を引き延ばしながら、音列のパターンを変えつつ、歌い出しをずらして何度も重ねていく、複雑な二重フーガだ。

「Kyrie eleison」は、「主よ、憐み給え」と言う意味で、「Christe eleison」は、「キリストよ、憐み給え」という意味だ。

憐み給えと言うのは、私の罪へのお許し(=慈悲)をください (God have mercy on us)と言う事で、仏教の「南無阿弥陀仏」と同じような意味の、とても大事な言葉だ。

テノールは、「Christe eleison」で歌い出すのだが、最初はシ♮で歌い出す。2回目は「ファ」、三回目は「ド」、4回目は「ソ」だ。

難しいのはクリステエ、レエエエ、エエエエ、エエエエ、エエエエ、・・・イソンと、エエエエと細かい音列を刻むところの音階が毎回変わるところだ。

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31小節目は3回目のエエエエのところだけれど、4連符の始まりの音はレーレ―ミーミと全音で1回上がっている。

ところが、4回目のエエエエは35小節にあるのだけれど、ここはラ♭ーラーシ♭ーシ♮と半音階で3回上がっている。

ここの音列の半音精度を出すことが合唱団の質に繋がる大事なところで、レッスンで何度もダメ出しをされるところだ。

こういった、同じパターンを繰り返さずに、半音レベルで揺らいでいくところがモーツアルトの本質なんだろうと練習していて思う。

一方、「Christe eleion」のテノールの歌い出しはこうだ。

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11小節目、レーレ、ド♮、ファ、ソ♯ーソ♯、ラと、長調で歌う。

ところが、2回目に歌う時(次頁で不掲示)には、これがレーレ、シ♭、ミ♭、ファーファ、ソ♯と、同じレで始まっても、音の上りが低くて、短調に変わっている。

こういう半音の変化による調性の揺らぎもとても心に沁みる。

キリエを歌っていると、この2つの主題の半音階の揺らぎや、調性の変化がもたらす複合的かつ調和のある音場の中にいるのがとても素晴らしい経験になる(はずだ)。

 

【調性で読み解くクラシック】

YAMAHA銀座店でたまたま見つけて読んでみた。

ハ長調は♯や♭がないので明るく真っ白なイメージとか、

ニ長調(D)はDeusを連想するので、祝祭的である(モーツァルトやベートーベンもそれを意識して曲を書いた)、とか言われてもなんだかな、という感じだ。

ヘ長調は自然を感じる調だと言われるが、それはベートーベンの田園がヘ長調だからなのか、もともとへ長調にそういう感覚が備わっているのか。もし後者だとしたらその理由を知りたいんだけどなあ、と思う。ベートーベン先生に、田園でへ長調を選んだ理由を聞いてみたいよ。

私の好きなA♭や、D♭はピアノが弾きやすい調(同意)なので、ピアノの名曲が多いなんて説明もある。

楽器の都合で調の特徴をいわれてもねえ。

楽器の成り立ちから見て、弦楽器は#系の調が得意で、管楽器は♭系の調が得意だという(納得)。作曲者は楽器の得意、不得意な調を意識して、その曲の調性を決めるという「へー」という話もある。

確かに、クラシックの合唱でも、テノールはラまで、ソプラノはシまで、と最高音を決めている感じはする(声だって楽器の一種だ)。その制約で合唱曲は作るんだろうなあ。

ピアノでコードを右手でおさえてみて思うのだけれど、ドからドの1オクターブをドーミーソードとおさえるとCのコードになる。明解な和音だけれど、なんだかおさえにくい。

そこで、人差し指を親指側に近い黒鍵に置き、中指を小指に近い黒鍵に置くと、C-E♭-A♭-Cになって、A♭の展開系のコードになる。私はこちらの方が指も落ち着くし、和音もしっとり落ち着いた感じに聞こえるので好きだ。

その理由が知りたいのだけれど、その類のことは本書であまり触れていない。心理学とか、脳の音に対する反応の仕組み(個人、そしてヒトとして持っている記憶との照合を含めて)まで行かないといけないのだろうなあ。でもそれで説明されたとしても、それが何か?、私はこの音が好きだ、でいいじゃないか、という意見もあると思う。

本書には、なぜ短調は悲しく感じるかについて、こんな記述がある。

人は自然倍音になる共和音(高調波が共振する)を気持ちよく感じる。

ドとソは 周波数(音の高さ)が2:3なので、ドの3倍音とソの2倍音は共振する。

ドとミは4:5の関係。ここまでが人間の耳にハモって聴こえる共和音。

なので、ドミソはよく響いて明るく、それを長調と呼ぶ。

一方、ドミソの和音の真ん中のミをミ♭に下げる(三和音の真ん中の音にストレスをかける)と、ドとミ♭は5:6の関係で、これはあまり響いているとは言えない(不調和音の入り口)。なので、ストレスを感じて暗い響き(あまり響いていない)に聞こえる。

と、いうことのようだ。

これだと長調短調の違いは分かっても、ハ長調ヘ長調の違いは判らないなあ。基音の高さ(ドかファか)の違いや、ピアノでは平均律からくる微妙な共振周波数からのズレの影響が調によって変わることもあるのかもしれないが、そういった説明は見つけられなかった。

 

【最後に】

小林秀雄の「モオツアルト」から自分のピアノと歌によるモーツァルト体験の感想、調性の基本まで、長いブログになってしまった。

音楽を調性の形式の中に押し込めてしまうと、堅苦しく、音楽が本来持っている自然な揺らぎを殺してしまい生命力がなくなる。モーツアルトはその自然な揺らぎを、そのまま表現することができて、結果として調性という形式を超越したところで生命力のある音を紡ぎ出し、それが人の心に響くのだろう。と思った。

形式のないところに表現はない。だけど、一流の表現はその形式を守っているように見えて、その形式を、露わには感じないように、乗り越えているんだ、そのIMPLCITな感じ(非顕在性)が美しいんだな、と思った。