「今の新自由主義的資本主義経済が作り出した格差社会を、マルクス経済学を現代の視点で見直すことで解決できるか」を語った本を読んでみた。

この本も表紙は客よせパンダで、むしろ裏表紙が内容を語っている。

マルクス主義を現代風に見直すことで今の格差社会に活路を見出したいというのがこの本の主旨であると思う。

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マルクス主義を見なおそうとストレートに言うと、あの無茶苦茶だったレーニンスターリン毛沢東の時代に戻りたいの、あり得ないよ。共産党一党独裁はそもそも民主主義ではないし、国民が国家(共産党)の下僕となることで生じる上位下達の無気力無競争状態が社会の発展の原動力を奪ってしまって、社会を停滞、崩壊させるから駄目でしょ。そして権力はその常なる姿として腐敗し、反対派を魔女狩りのように粛清してその権力をむりやり維持しようとするから、人権なんてない暗黒社会だよ。で終わってしまう。

大切なのは国民主権。国の有り様を決める憲法を国民の意志として定め、その憲法の精神を実現するやり方を定める法律を、普通選挙で選ばれた各地域の国民の代表者(議員)が多数決で定める。

そして、その法律に基づいて国民から税金を取り、それを原資にして実務を執行し、国家の安寧秩序を守るための強制力を持つ機関としての政府を多数派政党、あるいは選挙で勝った大統領に編成させる。

そして、その状況を議員だけでなく国民が監視する(その状況を国民に知らせるために存在するのが新聞、報道などのいわゆるマスコミ)。その実行の仕方が気に入らなければ、その民意をデモやストという形で政府に伝えて改善を促すし、定期的に行われる普通選挙によって政権を取らせる多数派政党(あるいは大統領、選挙制度による)を交代させられる。

そういった民主主義という仕組みが、国民と国家(政府権力)との関係における最良の仕組みだよ。それはいわば現代社会が共有している基本原理のようなものだよね。

と、一気に書いて、守るべきものは民主主義であって、その最大の価値は権力者の横暴を防ぐ仕組みにあることが再確認できたが、この中に資本主義という言葉が入っていない、つまり、必ずしも、民主主義=資本主義ではないことに気づく。

皮肉なことではあるが、実態は独裁国家なのに〇〇民主主義人民共和国と名乗っている国もある。かの国では、虐げられてきた農民や労働者階級である(はずの)人民の一部が王権や他国から来た権力を倒して、自らが権力を握ればそれが民主主義という定義なんだろうな。

さて、言葉の意味を確認すると

民主主義:普通選挙で時の政権を担う人を決めること

資本主義:法人(株式会社)がお金(資本)を集め、それを元手に製品やサービスを提供してお金を増やして利益を上げ、資本家に配当によるフローの利益や株価の値上がりという資産価値の増大で報いることを旨として経済活動をすること。

自由主義私有財産を守ることを第一とし、政府が個人にあまり干渉しないようにすること。市場経済に任せて国家は法人や個人の経済活動に対する規制をあまりしないこと。

共産主義私有財産を廃し、国あるいは共同体が資産を所有すること。人民は国や共同体から提供される家に住み、与えられた職場で働く。衣食住と仕事が死ぬまで国から保証されるので個人財産を増やしたり、それを子供に相続させたりする意味がなくなる社会。個人生活のフロー(生活費)が維持できれば個人のストック(資産)はいらないという考え方。究極の平等社会。

社会主義:政府が社会全体を差配し、個人の生活をささえること。社会のための活動は主に政府が国営で行う(下水道、電気、運輸交通、物の製造、医療、福祉)。利益を上げることが目的の私企業は停止し、国営企業が社会に必要なものやサービスを提供する。経済成長よりも社会全体の平等を重視する。

さて、本書である。

第一部に登場するマイケルハートはデューク大学の教授で、「帝国」という「21世紀の共産党宣言」と言われる書物の著者である。

氏は、まず最初に「格差論」のピケティに代表される、行き過ぎた資本主義を飼いならして社会民主主義的な社会を作ろうという考えでは世の中はよくならないと言い切る。

社会運動による社会変革をおこし、コモン(=民主的に共有されて管理される社会的な富)の自主管理を基盤とした民主的な社会を作る。それが新しい「共産主義社会」であるという。

牧草地、川の水、電力供給システムがコモンの典型的な例。さらにいえば地球全体がコモンであるともいえる。コモンの考え方は地球温暖化を防いで地球をまもろうという環境主義と背中あわせになってくる。そして、経済成長するために石油を掘るなどという行為は地球を略奪しているとして、経済成長を旨とする資本主義と対立することになる。

発展とは経済成長のことではなく、地球に対してよいことをすることだという。

資本主義では利潤の追求に適していないものは放置される。それは教育、育児、介護、低炭素産業であるとも言っている。

所感としては、国家でなく、人民が民主的に管理するコモンの考え方は面白いと思う。太陽光発電+水素エネルギー(水素を燃やして電力を作る燃料電池太陽光発電が余っている時にその電力で水を電気分解して水素を作って貯蔵する)でエネルギーを自給自足できるスマートシティがそのようになれば面白い。

だけれどそれはせいぜい数万人単位の話で、そういったスマートシティーが何件実現できるのかといったレベルの話だろうなあ。環境にやさしいコモン的な生活をすることで地球温暖化問題が全体的に解決できるとはとうてい思えない。

地球全体を考えるならば、77億人が飢えず、暑さ寒さをしのげる衣服と住まいを得られるようにするのが第一。そのためにはテクノロジーを進歩させて(食品の遺伝子編集も含む)食料の生産性を上げ、社会生活のためのエネルギーを安く大量に供給しなくてはいけない。その実現のために、利益を増やすことを駆動力にして、生産の拡大を実現することを旨とする資本主義は、極めて効率の良い仕組みであることをあらためて確認したい。

確かに、効率や利益を第一に考えて行動することで、環境への負荷が増したり、その流れに乗れない人を置いてきぼりにする弊害はある。

しかし、環境主義的なコモンが、人口爆発が継続している地球全体で適用できるシナリオが示されない以上、一部の特定地域で「ユートピア」のようにそれが実現できたとしても、それは大したことにはならないないだろと思う。それを社会運動として地球全体に広げていけるとでも思っているんだろうか。あまりに理想主義に過ぎると思う。

一部のリバタリアンたちがそういう理想郷を求め、それをダイバシティ―として認めるような寛容さが先進国で発生して、いくつかの理想郷は(スマートシティとして)実現される、あるいは北欧の社会民主主義国家の一部がそうなることはあっても、地球全体規模での処方箋にはならないだろうなあ。

地球温暖化は進行し、人が気候的に暑すぎて住めないところは確実に増えてくるだろう。それを放置できないのはそのとおり。超楽観論としては、その代わりに、今は寒すぎて人が住めないツンドラ地帯が大穀倉地帯になって人類を救うかもしれない(ツンドラが融け出すとその地下に埋蔵されている大量のメタンガスが放出され、それが地球温暖化を加速するとの説もある。それはそれで問題だけど)。

究極的には人類は地球を捨てて火星に移住するなどのシナリオもオプションにはなるだろう。未来のノアの箱船だな。そのための宇宙空間を含むテクノロジー開発はやめるわけにはいかない。それを支える仕組みとして資本主義が最も効率的である点をもって、私は資本主義にもとづく「テクノロジーが人類を救う」コンセプトを支持したい。そのテクノロジーはもちろん地球温暖化を緩和する技術開発も含んでいる。

地球温暖化対策のコストを(広い意味での利益を追求することを旨とする)資本主義のスキームでどう負担するのか、そこにコモンの受益という概念をどのような納得性を持って入れ込めば社会がそれに向かって動けるのか、それを考えたいとは思う。また、それをするのが政治だと思う。

具体的には納得性のある環境税の徴収とそれを原資とした有効な環境対策の実行がカギになる。企業にその事業範囲を超える規模の環境対策のコスト負担を求めるのは無理。

炭素ガス排出権の取引は極めて資本主義的な環境対策だと思ったが、その実態が今どうなっているのかよくわからないな。

黄色いベスト運動のように、炭素ガスを排出する化石燃料に単純に環境税を課税するとトラック労働者が怒るという卑近な例もある。

地球を守るために成長をやめて、CO2が少なくて寒冷な気候であった産業革命前の生活に戻ろうなどという事はあり得ない。そうなれば「神に祈り、神をひろめることを名目とした戦争」以外、やることがなくなるのだから。

 

さて、第3部のポールメイソン氏。資本主義は情報テクノロジーによって崩壊すると自著の「ポストキャピタリズム」で述べている。

氏のいう事はどうもこういうことらしい。

デジタルミュージックを例にとる。一度音源を作ればそれをネットで配信するコストは限りなくゼロに近い。変動原価はほぼゼロなのでその販売単価はやはりゼロになる。これでは儲けが出なくなって資本主義が崩壊するんだと。

ビジネスを知らない人ですねえ。物の値段はその提供する価値で決まるのですよ。コストで決まるのではありません(著作権というコストもある)。デジタルコンテンツビジネスの醍醐味は、(著作権のことは別にして)変動原価実質ゼロで、価値を有料で大量に提供でき、それで膨大な利益を得るところにあるのですよ。

さらに、その価値提供のやり方を、昔のiTuneのような、デジタルデータとその使用権という「モノ」の販売から、ストリーミングという、いつでもどこでもそのときに聞きたい音楽があるという楽しい経験に満ちた空間を提供するというビジネスを構築したところに革新的な凄みがあるのです。

1曲いくらという価値提供の方法すら過去のものとし、国境を越えたグローバルサービスビジネスに発展的に展開し、さらに、地域性のある消費税を一時的に骨抜きにすらしているという、従来のビジネスをほぼ不可逆的に破壊する新しいやり方で市場を席捲する、とてもディスラプティブなビジネスモデルなのです。

氏はこういうことも言っています。

「情報社会では仕事と余暇の区別が曖昧になり、社会的な知に媒介された共同的な仕事が主流になる。」

例えば、氏が記事を書いて原稿料をもらう仕事と、ウィキペディアに書き込みをする余暇でする作業の価値を考えると、ひょっとしたら後者の方が社会の役に立っているかもしれないというような事象をどう考えるか、それと個人の労働に対する対価(提供した価値に対する報酬)をどう考えるか、といった新しい局面が生じつつあるという事を指摘している。

ウィキペディアのような、人々の共同作業でできた知識は誰に帰属するのかの問題が出てくる。また、フェイスブックに集まったデータは誰のものかの議論も発生する。これを「コモン」と考えれば、第一部のマイケルハートの考えに近づく。

こういった資産の共有の考え方は、私的所有を前提とする資本主義と相いれなくなってくる。

私的労働や私的所有の考え方が揺らぐことが、ポストキャピタリズムで、それを共有主義(共同資産=共産主義)のバージョンアップと言えなくもない。

オープンソースの考え方はその一つとも考えられ、資本主義の原理からは出てこない無償の社会的共同作業が資本主義の生産性を上回ることもあり得る。つまり無料のものが社会に対して価値を生んでいるわけで、これも資本主義や労働に対しての報酬という概念に変更を迫っていると言える。

そして、氏は今ブームともいえるユヴァル・ハラリの考え方を批判する。ハラリの「ホモ・デウス」には人間の理論がなく、人は技術の前では無力で、人は既にアルゴリズムになっていると言っているに過ぎず、単なるディストピア論だから、というのがその理由。

氏の主張の根幹は、サイバー独裁に抗うヒューマニズムを持とうというもの。それはAIをコントロールする権利を人間が保持すること。

資本主義社会と並行しながら非資本主義的社会を小さいスケールから作っていくことがポストキャピタリズム

うーん、やっぱり資本主義を乗り越えて世界規模で展開できるポストキャピタリズムが具体的に提案できているわけではない。

ビッグデータを社会の共有財とし、それをみんなで管理することで調和的、人間中心的な社会を維持しようという考えには一定の共感がもてる。

それを踏まえてGAFAやBATをどうするのか。BATは中国共産党の考えに沿って動くだろう。GAFAの独占を嫌って、米国民主党社会民主主義勢力の言うように、分割、解体するのは得策ではないかもしれない。ここが議論の分かれ目になる重要なポイントなんだろうなあ。

さて、第2部のマルクス・ガブリエル。彼はNHK BSの番組「欲望の資本主義」に出演するなど、日本でも著名になっているドイツの哲学者である。

彼がこの本で言っていることは、共産主義とはなんの関係もない。まずは、SNSが助長する相対主義への批判。相対主義とは正義、平等、自由のような普遍的な価値を認めず、土地ごと、文化ごとのローカルな決定を認めることで、事実はいくつも存在するという態度のこと。普遍的価値を否定されては哲学の出番がなくなって困るよね。

次は、自然科学を絶対視する自然主義に対する批判。自然主義がはびこると政治的決定を一部の専門家に委ねる危険が生じるのがいけない(AIが支配するデストピアのことを言っているんだな)。

AIが倫理を持っていないことの批判。AIは不死である。どう生きるかが倫理なので、不死のAIには倫理がない。AIには意識がない。意識こそが思考と知性の前提となる。

うーん、彼の望む社会は人間が倫理観を持って生きる社会であって、AIに人が判断を移譲してしまうような社会になってはいけないということかな。では、どうしたらいいのということは何も言っていないような気がした。

この本を読んで、行き過ぎたように見える資本主義の有り様、GAFA独占の功罪、人はAIに判断を移譲してしまうのか、AIの時代に倫理に基づく人間主義は確立できるのか、環境主義は新しい共産主義(地球はみんなのもの:共有財産=共産)につながるのか、ビッグデータを人々の共有財(コモン)にする社会は実現できるのかなど、いろいろ考えるきっかけやキーワードをつかむことができたのはよかった。

#AI #社会主義 #共産主義 #倫理 #マルクスガブリエル #ディストピア #人間主義 #資本主義 #自由主義 #コモン 

 

コーヒーメーカーをアマゾンで買って思ったこと。

我が家のコーヒーメーカーが故障した(ミルに豆が噛んだ。掃除してもモータ回らず)。
 5年ぐらい毎日使っていて、多分寿命だな。ほぼ同じものを一番安かったアマゾンで買った(10%のポイントバックを加味しても近くの量販店より6%安い、配送無料:プライム会員だからかな)。
 注文後44時間でヤマトが配達してくれたが、メーカー梱包にアマゾンの送付先ラベルが貼ってあるだけ。無駄がなくこれでいい。アマゾンの過剰梱包は改善しているなあ(テニスボールを12個買ったときはアマゾンダンボールの外梱包だったけど)。
 汎用家電をわざわざ量販店に行って買う理由がない(エアコンのような据付が重要なものはまだ二の足を踏むけど)。
 でも、配送の兄ちゃんは(ヤマトのトラックじゃないので、多分個人配送業主のギグ契約配送)は雨の中、息が上がっていたし、メーカーだって薄利多売のジレンマに陥っているだろう(メーカー直納と思われるスポンサープロダクトは宣伝効果を期待して薄利多売を受け入れていると思う)。
 ユーザのクレーム返品もメーカ丸受契約だろうなあ(アマゾンのクレーム返品はネットから宛先ラベルを出して、着払いで送り返すだけ。実に簡単。服のサイズが怪しければ、S,M,L 全部買って合わないものを返品する買い方をむしろ推奨しているぐらい)。
 アマゾンが強くなって、ものが安く家に届くのは、消費者視点では問題を感じないけれど、流通、配送は強いものしか残れなくなる(特徴ある商品をマーケットプレイスに出す自由度はあるので商品選択の多様性はむしろ量販店の規模を超えて増える)。
 独占は最終的には消費者に不利益があるのでダメというのが、独占禁止法の根本なんだろうけれど、アマゾンなどのプラットフォーマーの独占に対しては、消費者視点では、購買情報を取られること以外の不利益を感じない。
 むしろ卸、流通系のビジネスを破壊する影響が大きんだろうと思う。弱いベンダーを淘汰して、ラストワンマイルの配送のギグエコノミー化を加速するだろうな(最終的には自動運転ドローンや配送ロボットになって、人の仕事を奪う)。
 それでビジネスの中抜きの効率化が進んで、消費者は欲しいものがすぐに見つかって、安くはやく手に入る。それでいいじゃん。という考えに落とし穴はないのか、ちょっと考えている。
 つまり独占的なプラットフォーマーが社会基盤となった時に、その、いわば「共有地」を成長至上主義の私企業が管理していることの功罪だな。その中にあふれるデータを使って私企業はビジネスを成長させるんだけれど、そのデータって、もともとは私たちのものでしょ、それでいいの、という視点。
 哲学者はそれを「倫理」のような視点で話したがるけれど、ちょっと違うと思う。価値を生み出すデータという資産を私企業がタダで資産計上もしないで使っていて、その企業の本質を見誤っていませんか(RoAが過剰評価になると野口先生にセミナーで習いました)。というような、正しいデジタルプラットフォーマの評価の視点とでもいうのかな。
 それとみんなのデータを使っているのなら、その使用料を税金という形でちゃんと払いなさいよ、という考え方。法人税は企業がロビイストを使っていろいろな特例を認めさせて、その複雑な処理を支援する税理士、会計士業界の仕事が増えるように彼らとうまく連携して、ますますわかりにくくしているけれど、事業コストともいえる外形標準課税をしたらどう、その税を原資にUBIをして、ギグ化してしまった人々の生活を支援するのが人民のための政治でしょとも思えるのです。売り上げに比例するデータ資産の活用償却費を税という形で現金で払いなさいよ(キャッシュフローきつくなるけど)、といういい方でもいいのかな。
 大企業の法人税の大増税ロビイスト利用税を導入したい、米国民主党のエリザベス ウォーレン、元MIT商法教授様に入れ知恵してやりたいな(笑)。

第九の二重フーガのところ、指揮者(大友先生など)が使う譜面(ベーレンライタ―版など)と日本の合唱用譜面(カワイ、MBSなど)で異なるところが2ヶ所ある(泉先生)

11月23日の泉先生のレッスンで聞いた話です。

第九の二重フーガのところで、指揮者(大友先生など)が使う譜面(ベーレンライタ―版など)と日本の合唱用譜面(カワイ、MBSなど)で異なるが2ヶ所あるとのこと。

【アルト677小節】

 Hei-lig-tum  のligを発声するのは2分音符(ド♯)からでなく、最後の4分音符(レ)から。(テノールのdeinと同じ音で違う発音する。なるほど)

テノール724小節】

Mil-li-o-nen!のliは2分音符(ラ)からでなく、最後の4分音符(シ)から。

歌い方は ミーリーオーオネーエンでなく、ミーイリオーオネーエンになる。

私は、5000人や1万人の第九のレッスンで実際にここまで細かい指導を受けたことはないけれど、泉先生曰く、大友先生からは指摘があるかもしれないとのこと。

各パートの合わせ精度を追求する合唱をベーレンライタ―版を正本として学ぶときには注意が必要ですね。西本250人第九はどうなるかな。

#第九合唱 #ベーレンライタ―版 

国技館5000人の第九レッスンメモ(泉先生、2019/11/23 14:30)

泉先生の三回目のレッスン。今回で泉先生のレッスンはおしまい。

前の2回のレッスンメモにあることをさらいながら、フロイデから最後まで歌った。

http://yoshihiro-kawase.hatenablog.com/entry/2019/10/15/122027

http://yoshihiro-kawase.hatenablog.com/entry/2019/09/24/214014

2回目のレッスンは二重フーガを一回歌っただけで終わったので、今回は、第九仲間が皆、大絶賛している、二重フーガの構造解説が聴けると期待していた。しかし、残念ながら、それはなかった。お楽しみは来年まで取っておくか。

友人の話では、フロイデ隊と、ザイトウムシュルンゲン隊の進行だけでなく、同じ音をバトンの用にパート間で歌い繋いでいくことの説明もあるとのこと。なるほど。自分でも譜面を眺めて考えてみよう。

さて、今回のレッスンは前にもまして入念な発声練習を、冒頭の30分間みっちりやった。丹田アタックと口の奥を大きく開けて深い声を響かせ、頭から上に抜く歌い方を再確認した。

肩回しと、横の人の肩たたきを5000人でやるところを見たいと、いつもの泉節も炸裂。両国の本番に泉先生は来られるそうです。見かけたら明るく声かけ挨拶して欲しいそうです。最初の声出しは和田先生のご担当とのこと。

泉先生のレッスンは歌の表現力を上げることにも力点が置かれているので、歌詞をリズム読みでなく、演説のように、意味の通じる発話で物語性を持って読んだり、浅い発声を修正されたりします。私自身も男声合唱やザイトウムシュルンゲンの男声が頑張るところで、力み過ぎて荒い声を前に出していることに気づいたところがいくつかありました。

【werden Bruederの発音の確認】

Wは下の歯を上唇に当てるがかまない。その合わせた隙間から息と音を出す。

Bは(歯ではなく)唇どおしが合わさってそこから破裂音を出す。

今回の説明で納得です。

【フォル ゴーーーオツの後】

 ファゴット2本が難しい低い音(B♭)を吹いている間はそれをじっと聴いていて動かないこと(息はする)。

元々のシラーの詩では、このフォルゴーオツの後は、イールスチュールトになる。つまり、神殿の門が開かないので、跪いて神を感じるか自問し、神を探しに天空に向かうのがストーリー。

フォルゴーオツの後に男性合唱が入っているのは、ベートーベンが別の話を入れたと考える(泉説)。

【Welt?(ff)   such'(pp)の聞かせどころの後】

「天空にお父様はいらっしゃるに違いない」をまずff で歌い、もう一度ppで歌う。ここの意味を理解して歌う。

どちらもUeberの前に二分休符がある。ここは合唱もオケも無音になる。この無音をしっかり聞くこと。その無音の意味は、1回目はまだ疑問があることをffで、2回目はお父様がほのかに見えた静かな強い感動をppで表す。2回目の三連符の伴奏は尋常ならざるものを見たことの表現。

この静かな感動を持って二重フーガに突入する。二重フーガは神に最も近づくための音楽表現。

【R以降】

フーガが終わっても、Rからまた、イールスチュールトの確認作業が始まる。先ほどはWelt?に(疑問符付きで)語り掛けたのに、今度はBrueder(常にsfで歌われる、第九の合唱で一番大切な言葉)に語りかけ、オケがハイハイと答え、もう一度Bruederと言って、最終的な「天空にお父様はいらっしゃるに違いない」の確信に至る。ここも最後のlieber Vater wohnenがppだからこそ強い感動表現になっていることを理解して歌う。

お父様の存在が完全に確信できれば、もうあとはお祭り。その開始をソリストたちが歌い始める。そのソリストの部分を泉先生が一人四役で歌ってリードしてくれた。ソプラノ音域をファルセットでそのまま歌ってしまう凄さ。

それにかぶせるようにSから合唱が参加する。感激ですね。

最後のプレスティッシモはもう、祭りだワッショイ(北島サブちゃんです)で歌っていいとの指導です。そうやって歌ったらとても楽しかった。

第九のことをもっと知るにはこの本がおすすめとのこと。

《第九》トラの巻 曽根大介 著

https://www.amazon.co.jp/gp/product/4276142245/ref=dbs_a_def_rwt_bibl_vppi_i2

以上

#ベートーベン #第九合唱 #泉智之 #すみだ5000人の第九

1万人の第九、佐渡連のメモ(11/22 19:30@文京シビックホール)

東京地区の参加者1700人(主催者発表)で佐渡裕総監督の指導を受けるレッスン@文京シビックホール

18:45の開場の30分前に到着。既に200-300人ぐらい並んでいたが、8割方が女性なので、テノール席の前から4列目に座れた。

全体を見た感じでは、参加者はアルト/ソプラノ/バス/テノール=500/500/200/200 の1400人ぐらいかな。

佐渡さんは細身のブルージーンズに、足首の見えるスリッポン(例年どおり)、白地に青で電卓のキーボードのような絵が描かれたTシャツ姿で登場。時々青いタオルで額の汗を拭う。

通常の100人規模で歌う合唱とは別次元の、「1万人だからこそできる、人間のちからを示す合唱を作る」という強い思いを述べられた。

「音の神殿を作りたい」と心に響くメッセージとともに練習開始。

【フロイデ】

指揮の手が肩の上30センチぐらいのところで、巻き舌を準備して、フライング気味、各人バラバラで構わないので、体をつかって全身で発声して喜びを表す(でも、最後のデはそろえる)。1万人のフロイデで観客を驚かせ、1万人の第九の世界に観客をぐいっと引き込むことが大切。

両手を振り降ろしながら体を使って何度も発声練習をするうちに(最後は女性も参加した)、声の迫力が見違えるように増してきて驚いた。

【Daine Zauber】

例年通り、左右の席の人と手を握り合って、ニギニギのリズム感を合わせて全員で歌う。

男性は年々よくなっているとのお言葉。

オクターブ上がるところでテノールが速くなることを注意されてやり直し(ここは毎年のことだなあ)。

ここは今年も、佐渡さんは「ニギニギ」で指揮するとのこと。

【Ja】

テンポ感がDaine Zauberの倍であることを意識して歌う。

nie ge-konntのsfの後、合唱ではじめて出てくるディミニエンド、(dim)der stehle, (p)weined~の練習。

weinendからの部分は涙を流して悲しく去っていく人々のこと歌うのだから、テンポ感を弱めて悲しい感じで歌う。

【Kuesse】

一万人のキスが煌めいているように歌う。

ソプラノ(とテノール)がJaのテンポのさらに倍(8分音符)で、上に向かう意識で歌っているのを、アルトとバスが横に流れていく基盤の音程(4分音符)を作って支えることが大事。

321のund der Cherubからは

天空の門の前で、ケルプ天使はまだ門を開けてくれないことを表現する。

326 からと328からオケ(ピアノ)が32分音符で下に2回崩れていくのはその門が開かない落胆を表している(おお、すごいことを教わった)。

その「なんで!」という、気持ちが最後の3回目のVor Gottのファのナチュラルとラの重音に現れている。(それまでの2回のVor Gottは二長調(Ddur) でファとドがシャープのD durとA durのコード。)だから、最後のVor Gottは目いっぱい引っ張る。佐渡さんの両腕が肩の高さにある間は引っ張る意味であると指揮を理解する。ここはカンニングブレスをしていいので、最後は「ゴーオツ」と「オツ」をしっかり発声すること。

この後の静寂をしっかり表現する(咳はダメです)。それは言葉による指示でなく、「ゴーオツ」の後、B♭に転調した後の、ピアノ(オケではファゴット2台)のシ♭のオクターブをしっかり聞く練習で確認されました。

男声合唱

このミッキーマウスマーチのような、天空に向かう男性の行進に付き合う音楽隊は小規模である(トランペットは1台)。その意味を理解して歌う(賛同する人はまだ少ない)。

合唱は行進にいろんな男性(例えば、パン屋、教師、警官など)が参加している不ぞろい感があっていい。

男性合唱の後のオケの演奏の最後の方は、行進していく足元がだんだんゴツゴツして来て歩きにくくなっていること(天空に向かう試練)を三連符で表現している。

恒例の、佐渡さんを男性第一列(今年はテノール1番乗りとバス1番乗りの間)に入れての、男性全員が肩を組んでの合唱は3回目でやりました。

【M】

Mに入る前に、オケが長調短調長調の和音を奏でるが、最後の長調の和音の2小節がMのメインテーマの前奏になっている意識で歌う。最初のフロイデは爆発するように歌う。

【Ihr Stuert】

佐渡さんの指揮に合わせて<Ihr Stuert>の練習。デクレッシェンドの表現ができていないとの指摘。その後のstuertは5音シュテュルツトと5音をしっかり発音する。< >の後一瞬の無音の後、その5音を始める指揮棒を佐渡さんが明確に振るのに合わせて何度も練習する。

 Welt?のffの後のppのゾッフォ。ここが佐渡さんの最大のこだわり(1万人でやるff-ppのダイナミズムの凄さを音楽的に高めていく)。発声の開始をみんなで合わせなくていいので、とにかく小ささの極限の発声で始める練習を何度もする。今日の極限練習で音が出なかった人は本番でも出なくてよい。それくらいの小さい声で始めることがとても重要。そのためにいつ発声を始めるのかをあえて棒で示さない指揮をするとのこと。

【二重フーガ】

今年の東京チームはとても上手(特にソプラノ)なのでびっくりしたとのお言葉。

ザイトウムシュルンゲンとフロイデシェーネがパートを変えながら歌われていくが、「フロイデ! フロイデ!」もソプラノ、アルト、テノール、バスの順で歌い繋いでいく。それを意識して歌う。この「フロイデ! フロイデ!」が各パートのピークになる。

【フーガの後のR】

バスがpでIhr Stuertを始め、テノールがpでAhnset duで受ける。この部分は6拍子であることを意識して歌う。この部分ではまだ疑問を感じているところなので、テノールは(音が上がっていくけれど)クレッシェンドしてはいけない。アルトが歌うゾッフォから確信が芽生えてくるのでクレシェンドする。その後4パートがユニゾンでゾッフォを歌うところで確信が確実になる。そしてそれがsfのブリューダーになって、オケがハイハイと答える聴かせどころをしっかり作る。この後、試練や迷いを乗り超えた「天空に愛しいお父様がいらっしゃる」という最終確信を歌い上げる。

その喜びの表現はソリストに渡される。

【S】

 通して歌う。

【最後のプレスティッシモ】

いっきに歌う。

最後のオケの演奏のところで天空の門が開くということを意識する。

【私の感想】

今年は前の2回より、音楽表現と曲の解釈に関する深い指導が多くあったと思う。

佐渡さんの、1万人の第九ならではの「音の神殿を作る」、という強い思いを共有することができて、例年以上にしっかり歌おうという気持ちになりました。

周りもしっかり発声している人が多く、1,000人を超える合唱もよく響いていた(会場のせいもあると思う)。それもあって、菅井先生の発声練習から張り切り過ぎて、最後のプレスティッシモのところでガス欠気味になってしまった。高いラが出ず、ちょっと後悔。声も少し枯れてしまった(最近はめったにないんだけどな、それだけ力が入った佐渡連だった)。最初の1万人の本番の時を思い出した。今年は本番に照準を合わせて、ゲネプロは余力を残してこなすようにしよう。それと、初めてオケの後ろのアリーナ席になったので、舞い上がらないように気をつけよう。

【追記】

佐渡さんの、「第九の第一楽章は〇〇、第二楽章はダンス、第三楽章は究極のラブソング。」というコメントがあった。どうしても〇〇が思い出せない。残念。

今年の1万人の第九の第一部にゲスト出演するファビュラスシスターズは、第九の第2楽章を踊っている。その関連で佐渡さんのコメントが気になるなあ。

https://www.youtube.com/watch?v=Lt8XTZ6rI1s&fbclid=IwAR2zY8Fj86EDax_uKiRi965LU-2nhWrZLjClnuxIfnDR92quS6qKiXgCT14

#1万人の第九 #ベートーベン #第九 #合唱 #佐渡裕 #コーラス #フロイデ 

 

 

 

「正倉院の世界」の展覧会@東京国立博物館(上野)を見て思ったこと

正倉院展。御即位記念ということもあって、シニア層を中心に大人気。平日の昼間で平成館の入り口の前に200mぐらいの行列。並んでから入るまで60分かかった。

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https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1968

展示室に入ってすぐに聖武天皇の本物の直筆がある(雑集という正倉院宝物)。端正ななかにも優しさを感じる文字。楷書なので読めるのに、何ぜか読んで行けない不思議な威厳を感じた。あの聖武天皇の直筆ですよ。その重みに圧倒される感じがした。和紙のくすみ具合にも1300年の重みを感じる。

60分並んで入って、中も混んでいるので、気がせいて先に進みたくなる。しかし、後から思えば、会場でもらえる出品目録をじっくり見て、どこに何があるかをしっかり把握してから見るほうが良かったと思う。目録には、国宝、重要文化財正倉院宝物の分類が記されているが、国宝のなかで、あまり印象が残っていないもの(海磯鏡)がある。そうと事前に知っていれば、じっくり見たのになあ、と思う。

私が思うに、工芸品として素晴らしいものは概して正倉院宝物である。ポスターに載っている琵琶や螺鈿の皿は正倉院宝物である。国宝は歴史的に重要なものなんだろうけれど、見た目が地味なんだろうなあ。

さて、ハイライトの琵琶である。ギタリストである私としては、これを見るために来たと言ってもいい。人だかりがしているガラスケースの中に琵琶がひとつ納められている。ああ、なんて美しいんだろう。フレットは5つしかないのか(これでは出せる音階はかぎられるなあ)。弦は5弦。駒止めに向かって末広がりになっている。駒止めのところの弦の様子を見ると、まるでクラシックギターのような弦の止め方だな。ボディーは一枚板に見える(レスポールか)。板の色からジャカランダを想像するが目録を見ると紫檀だな。まてまて、表だけ見て感動してはいけない。裏に回ろう(ルーブルミロのビーナスだって、背中をみて感動したじゃないか)。人垣について反時計回りに裏に回る。ああ、なんて美しい螺鈿なんだ。まるで昨日作ったみたいだ。でも、こんなことってあるんだろうか。そこでふと思ってパネルの解説を読む。おお、この展示品は正倉院が素材から再現した模造品なんだ(2019年完成)。弦は当時の美智子皇后が自ら紡いだ絹糸を束ねたものであるとのこと。なるほど、そういうことか。本物は前期展示(11月4日まで)のみ。残念。でもこれはこれで現代の工芸として素晴らしいなあ。さらに凄いのはこの琵琶は演奏できること。その音を録音したものを会場で流していた。5弦なので、5つの音が聴き分けられて、耳にとどめたはずが忘れてしまった(絶対音感があればなあ)。

その横には、今度は本物の4弦の琵琶があった(この4弦琵琶の展示は後期展示のみ)。本物として歴史の重みをかんじるなあ。これはボディーが空洞になってる(セミアコか)。弦の余りを駒止めのところで束ねているのは、ギターとは弦の張り方が逆なんだろうか。こっちはフレットが4つ。うーん、同じ琵琶でも違う楽器に思える。

それと、まさかと思った蘭奢待(らんじゃたい)の本物(正倉院宝物)が見られた。NHK大河ドラマなどにも出てきたが、天皇家の最高の香木。これをまず足利尊氏が切り取り、そのすぐ左側を織田信長が切り取り、そして明治天皇がそこからずっと左の先端に近いところを切り取っている。誰がどこを切りとったかがわかるタグが付いているのでそれがわかる。何とも言えない歴史の生き証人のような香木なんだなあ。

それ以外にも残欠と言われる、布の端切れが多数展示されている。染物美術が好きなひとはたまらないだろうな。聖武天皇が実際に着ておられた衣服の端切れや、吹かれた簫(笛)、打たれた碁石もある(飾り碁石であまり打たれた形跡がないらしいが)。その他お面や国宝の竜首水瓶もある。

最後は撮影も可能な場所になっていて、宝物保護の活動の紹介や撮影可の模造品が置いてある(簫など)。最後に森鴎外が歌った歌が掲示されていた。「燃ゆべきものの燃えぬ国」。これが日本文化の本質だな。燃えないように石で作る他の文化の対極にある。

 

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 #正倉院 #国立博物館 #蘭奢待 #琵琶 #螺鈿 #正倉院宝物 #国宝

 

 

 

 

 

 

 

 

コート―ルド美術館展は楽しめました@東京都美術館(上野)

レーヨン事業で財を成したイギリス人のコート―ルド氏が、印象派の時代のフランス絵画の芸術性に早くから気づいて、それをイギリス人に紹介する意図をもって買い集めた美術品を展示しているコート―ルド美術館が改装のために閉館している間に、東京都美術館が名画の貸し出しを受けて展示している美術展。

とても楽しめました。

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セザンヌルノワールというように作家別に画をまとめて展示しているのでわかりやすい。

セザンヌの画の展示は印象として「緑のセザンヌ」。森の木々を描いた作品が多い。全部で9作品ある。例のセザンヌらしい山(サントーヴィクトワール山)も描かれている。同名の画がオルセーにもある、「カード遊びをする人」もあるが、少しだけアングルが違っていて、展示品の方がテーブルがより「かしいでいる」気がした。

セザンヌが書いた手紙も展示されている。フランス語の筆記体なので全く読めないけれど、セザンヌのサインだけはわかった。「あ、真筆なんだ」ということで見入ってしまった。そういえば画のサインはどうだったかな、と思って画を再度いくつか見たが、サインが見当たらない。セザンヌは未完の作品が多く残っているのが有名だけれど、それと関係あるのか、単に見落としたのか、私にはわからないな。

さて、ルノワール。今回初めて見た「アンブロワーズ・ヴォラールの肖像」(1908年)。釘付けになって見入ってしまった。中年男性の画商を左斜め横から描いたものだけれど「なんてうまいんだろう」と感嘆した。ルノワールというとモデルの女性がみんなかわいいので、そういった視点で見てしまうことが多いけれど、中年のおっさんを描いた画をみてルノワールの力量を理解できた気がした。アングルの設定、背広の質感、頭髪のはげた感じ、左目から背景に至る暗さの表現の深み、こんな画が見たかった。ネットのデジタル画像を見ていては全く見えない領域での表現力。素晴らしい。

このおっさん画商は印象派のサポーターでもあったようで、セザンヌピカソも彼の肖像画を描いているのをネットで知った。見比べるのも面白い。ピカソはぶっ飛ぶけど。

今回のハイライトはマネの「フォーリーヴェルジュールのバー」(1882年)。その画の一部がチケットの背景になっている。

https://www.tobikan.jp/information/20180620_1.html

面白いことに、この画のエックス線写真(レントゲン写真)が合わせて紹介されている。その分析よると、鏡に映っているバーの女性の後姿は元はもっと中央よりにあったのを書き直したことが判明した(写真を見ると、後姿が2つあるのが、レントゲン検査のようにわかる)。ネットによると、この後ろ姿のあるべき位置をめぐっていろいろ言われているようで、それに一石を投じる科学の力を示したものと言えますね。コート―ルド美術館はこういった研究機関でもあるそうです。

そういう事は別にして、この画は真ん中のかわいい子以外に見るべきものがとても多い画です。皿の上に積まれた果物の質感表現にはセザンヌと違ったものを感じるし、鏡に写ったバーのある劇場の観客の様子はルノワールムーランドラギャレットを思いだすが、そこにはマネならではの表現がある。この画にもとても見入ってしまった。

ウィキペディアによれば、フォーリーヴェルジュールというミュージック・ホールは2013年でも存在している。今でもあるなら行ってみたいですね。

と思って、ググってみると、今は通常のミュージカルを見る場所のようで、バーなどはないかもしれないですね。

https://www.foliesbergere.com/

さらに、グーグルマップで場所を調べると、パリで私の歩いたことのある、オペラ座ルーブルーオランジェリーの三角形の外だけれど、オペラ座からは歩ける距離だとわかった。

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その他、ゴーガン(ゴーギャン)やドガモディリアーニの「裸婦」などいい画がいっぱいあるし、ロダンの彫刻の小ぶりなものもいくつか展示されている。

イギリス人大富豪の懐の深さも含めて、見どころ満載のいい展覧会です。お勧めです。

ショップでフランス直輸入のビスケットを売っていたので思わず買ってしまった。後で見ると輸入元は神楽坂の有名なそば粉のガレットのレストランの「ル・ブルターニュ」。なるほどですね。さっそくガレット(薄焼き)の方を頂きました。

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#コート―ルド美術館 #セザンヌ #マネ #ルノワール  #フォーリーヴェルジュール #ガレット