複雑系の研究で有名な、サンタフェ研のジョフリー・ウェストの著作、「SCALE:生命、都市、経済をめぐる普遍的法則」を読んで思ったこと。

この本の主題は、ずばり、複雑系と言われる、生命、都市(社会経済活動)、企業の成長と死を説明する共通のモデル(スケーリング則)があるのかどうかという事にある。

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その結論は、生命と企業は線形以下のスケーリング則に則るので、同一種の中では大きくなれる限界があって(人が3メートルの身長になることはない)、成長はいずれ止まり、最後に死を迎える。その理由は、成長に必要な代謝の仕組みが、大きくなった全身にエネルギーを供給しきれるか、とか、3次元の体積で決まる体重を支える、足の2次元の断面積(筋力)の大きさとの関係などが、バランスするポイントで成長が止まるから。

一方、都市の成長モデルは生命とは違う。下水道や道路などのインフラ網のフラクタルな構成は生命体の代謝を維持する血管網とよく似ているけれど、そういった都市のインフラ機能の他に、人と人のつながりが都市機能に活力を与え、社会経済活動加速していく面がある。その社会ネットワークの構成は血管網とは異なり、都市の規模の1.15乗の超線形で増えていく。その超線形性の規模の拡大があるがゆえに、都市は人を集め、それを維持するインフラが破綻しない形で成長していけるので、死を迎える必然性がない。なので都市化は進み、都市は(外敵の侵略以外では)自律的に死を迎えることなく成長していく、という事。

スケール則と言うと、核分裂のように、

dy/dt = ay という、増加率はその量に比例するという、基本的な微分方程式を思い浮かべ、その解は y=exp(ax)(エクスポネンシャル)で、a>0であれば、yは短調増加関数でいずれ発散することを思い浮かべる。

しかし、この本で議論するスケール関数はそれではなく、xのべき乗(アロメトリック)関数で表される、y=xのn乗と言う式。

この式は統計データの相関関係の分析から示されたものを、後付けて理屈をつけて説明される(が、この理屈は、フラクタル性の不思議が絡んでとても難解)。

この式で、nが1の時は線形関係になる。n>1の時(超線形と定義)は、下に凸の短調増加関数でいずれ発散する。しかし、n<1の時は上に凸の単調増加関数だけれど、xが大きくなるにつれてだんだん増加率が落ちてくる(dy/dx=nx(n-1乗))。なので、現実的なxの範囲では発散しないといえる。

また、都市の成長のように、n>1の場合で、xが単調増加するといっても、それはシンギュラリティのように発散してしまう前に、相転移するという。なので、そう簡単には現実的なxの範囲では、発散しないと言う。

つまり、氷を熱していくと無限に温度が上がっていくのではなく、0℃のところで潜熱を使って水に転移し、比熱も大きくなって(2.1→4.2)氷よりもゆっくり温度上昇する。そして100℃で同じように潜熱を使って水蒸気に相転移する。

それと同じようなことが起こると言う。そしてその相転移イノベーションが引き起こすとしている。

なので、この本の議論の中心は、生命や、企業、都市のスケール則をxのn乗でモデル化できたときに、そのnが1より大きいのか、あるいは小さいのか、という事に集約される。

xは生命体の場合は、体重、身長、年齢、などで、企業の場合は、売上、従業員数など、都市の場合は面積や人口など。つまりそれらを構成する基本要素が増える時にその生命活動(代謝)を支えるインフラがそれに追従して大きくなれて、生命を維持できるのかどうかが議論のポイントになる。

では、まず生命体を見てみよう。

 生物は体重が2倍になっても、それを維持するのに必要なエネルギーは2倍でなく、75%増で済む(代謝効率が良くなる)。これはつまり、規模が大きいほど生命維持の効率が上がることを意味している(クジラは長命、ネズミは短命。)。

これは代謝(率)は体重に対して、n=0.75(4分の3)の線形未満のスケーリング則に従うと言う。

y(代謝量)=x(体重=細胞の量)の3/4乗に比例する

このサイズ増大による省力化は規模の経済(スケールメリット)と言われる。

象はネズミの1万倍重いが、その生命の維持に必要なエネルギー総量はネズミの1000倍でいい、という事。(クライバーの法則)

哺乳類の大きさが2倍になると、心拍数が25%減る(結果として長寿)なのも同じ。

生理学的な量のスケーリング指数は1/4の整数倍になる。

人間はATPをADPに分解する過程でエネルギーを得ている。しかし、ATPの体内総量は250グラムほど。なので、毎日2x10(の26乗)個ものATP分子、即ち80キログラムのATPを(畜電池みたいに)リサイクルして使っている(自分の体重と同じぐらいの量に相当する)。

 このATPを循環的に供給し続けるには、酸素が必要で、その酸素を全身に行きわたらせる役割を果たすのが毛細血管網である。

大動脈から毛細血管まで、いわゆるインピータンスマッチングした形で(反射のロスなく)血流を枝分かれさせていくには、後続の管の半径は2の平方根を係数にして自己相似型でスケールする必要がある(すなわちフラクタル構造)。

 スケーリング指数が1/4の整数倍になることの説明は複雑。4はマジックナンバーで、それは資源輸送を受けている体積が3次元という事に、フラクタル次元の1が加わって3+1=4になるのだと言う。

これは、肺胞の表面(葉っぱの表面でも同じ)がしわくちゃであると、肺胞の取り込む酸素の量が、肺胞の表面積(2次元)というより、肺胞の体積(2+1=3次元)に実質的に比例することから(次元が一つ上がることが)類推できる。

生命を支えているネットワーク(血管網や、樹木の枝や根のはり方)はほぼすべて自己相似フラクタルに近い。これは最適化や空間充填といった幾何学や物理原則の帰結であると言える。

コメント:大学生の時に、これはエントロピーの最大化原理の発露であるとして習ったけどなあ。いまはそれをフラクタルで説明するんだ。

生命の自然選択はエネルギー損失最小化と代謝能力最大化を引き起こした。

肺胞の例で言えば、空間充填の最適化のために、(肺胞がしわくちゃになること、即ち自己相似フラクタル構造をとることで)酸素の取り込み量が表面積比例でなく、体積比例に漸近するという事が、追加次元を生じさせ、生物があたかも4次元で作用しているかのように見せている。これがマジックナンバー4の起源であり、1/4乗則の幾何学的起源でもある。

生物は3次元空間を占めているが、その内部の生理機能と組織は4次元のように働く。

生物の成長はなぜ止まるのか。

① 細胞の数(体重)が倍になっても、代謝(エネルギー供給量)は4分の3乗でしか増えない。なので、体重とそれを維持するエネルギー供給のバランスポイントが生じる。

② 代謝を支える酸素を供給する血管の数は4分の3乗でスケールするので、細胞が増えると、個々の毛細血管が奉仕しなくてはならない細胞の数は4分の1乗で増えて行って、(最後はもう賄えない数になってしまう)あるところで限界を迎える。

なので、すべての生物の成長曲線(生存日数と体重の関係)は個々の生物のパラメータを勘案して正規化すると1本の曲線に重なる。

纏めると、エネルギー供給、即ち代謝を支える酸素を供給する血管網ネットワークが、自己相似フラクタル構造で最適化されていて、そのネットワーク能力が細胞数の増大に対して、3/4という線形未満のスケーリングをすることに起因して、細胞の増殖に、そのエネルギーの供給が追い付かなくなって、成長が減速し、いずれ事実上の停止に近づくことが生命の成長と停止の根本原理である。

ATPの活性化エネルギーは0.65eVで、10℃の温度上昇で生産速度が倍になる。このことは、2℃の気温変化で成長率と死亡率に20-30%の変化をもたらす。これは生態系の大混乱をもたらすので、気候変動を防ぐ必要性の根拠となる。

人間の死は圧倒的に器官(心臓発作、脳卒中)や分子(がん)の損傷と関連して、感染症は比較的少ない。それらがないとしても人は125歳以上生きた例がない。

哺乳類の生涯心拍数(心拍数x寿命)は約15億回で共通。大きな動物はゆっくりした脈拍で長く生き、小さな動物は速い脈拍で短くいき急ぐ。

ただし、人間は25億回。これは、ここ100年の特例。我々人類は、社会共同体の出現と都市化によって、自然の調和から外れ、何か別物に進化したと言える。

哺乳類が1グラムの組織維持に使うエネルギーは生涯で約300キロカロリーで不変。これはATP分子の代謝回転数が1000兆回という不変性からきている。

寿命延長策は総合的に考える必要があるが、摂取カロリーを10%減らせば、寿命が10%伸びる、ぐらいの考え方は有効だろう(はら八分目、医者いらず)。

 

都市の場合

都市が大きくなるにつれて、ガソリンスタンドの数、道路、電線の長さなどの(生命維持のための、血管網のような)社会インフラ量はn=0.85でスケールする(n<1なので大都市ほどインフラ効率は上がる)。

一方で、賃金、資産、特許、犯罪、エイズ患者、歩行速度、教育施設の数などの、生理学とは無関係な、人間の社会経済活動によるものはn=1.15 で超線形(n>1)のスケールが起きる。

超線形のスケールは有限時間シンギュラリティという発散する破綻をまねくように思えるが、技術革新という、(潜熱を伴う)相転移を起こさせ、それを回避していくことになる。

 シャーレという閉鎖系環境下でのバクテリアの増殖は、指数関数的ではあるが、時間とともに有毒な老廃物が産出されて、それによる細胞の死と、多数のバクテリアを養う栄養源が有限であるという制約が効いてきて、増殖はとまり、やがて死滅する。これを資源が限られた地球上の人類の姿になぞらえるのは自由である。

私のコメント

dy/dt = a y -by3乗 と考えればいい。

yが小さい時は、yの3乗の項は小さくて無視できるので、yはゲインaで指数関数的に増えていく。

ところが、yが大きくなると、yの3乗の抑制項が顕著化する。

その結果、dy/dt は小さくなってきて、a y -by3乗=0のところで、増大が止まる。

その時のyの値は√(a/b)になる。

つまり、指数関数とは言っても、現実には、無限大のシンギュラリティに到達するわけではない。

人類は世界全体で年間150兆キロワット・時のエネルギーを使っている。

生物としての人間は100ワットの電球一個分:一日2000キロカロリー(100ワット/秒x24時間=8640KW,  1W=4.2J)で生きていける。

ところが今では3,000ワット相当のエネルギーを社会生活を維持するために消費している。アメリカではこれが11,000ワット(110倍)にまでなっている。

太陽から地球に供給されるエネルギーは年間100万兆キロワット・時。これに対して、我々が使う、年間150兆キロワット・時のエネルギーは0.015%でしかない。この意味ではエネルギー問題は原理的には存在しない(利用面の問題はある)。

 都市をその物理インフラ(道路網、水道、電気網)だけで考えてはいけない。情報の流通を考え、そこに住む住民が本質であることを理解する(都市機能だけを考えて作った人工都市ーブラジリアやキャンベラなどーはうまく機能せず、人が集まらないのがその証左となる)

コメント:今はやりのスマートシティもそうだろう。こんな街を作りました、皆さん住んでくださいではうまくいかない。

都市の本質は大都会の与えてくれる類まれなる多様性がもたらす好機が優位性となって人々の相互作用を促してアイデアと富を創出し、イノベーションと企業家精神と文化活動を促進するところにある。

都市とはそこに住む人の相互作用による適応社会のネットワークである。

都市では、ガソリンスタンドの数や、送電線、道路、ガス管の全長などが、都市のサイズ(面積)に対して0.85のべき乗でスケールする。すなわち、規模が倍になっても85%増で済むので、都市では効率よい規模の経済が成立している(生命体は 3/4=0.75でスケールするので、生命体の方が都市よりも効率はいいが、同じ線形未満のスケーリング則に従うことが統計的には言える)。

この意味では、大都会ほど一人当たりの排出物(炭酸ガス)や公害が少ないという直観に反する結論が得られる。

一方で、都市のGDP、平均賃金、雇用総数、特許産出数、犯罪総数、インフルエンザ総数、レストラン件数、集会ホール数など、生物にはない社会経済的な量(都市の本質)は、都市の規模に対して1.15のべき乗でスケールする。

これは都市における収穫逓増を表している。

つまり、都市は大きければ大きいほどそれだけ革新的な社会資本が生み出せる。

都市の生命インフラのスケール指数は0.85で、生物のそれが0.75であるのと比べると、効率が劣る。その理由は、都市は最適化の年月を生物ほど長くかけていないことと、均一な空間充填ではなく、最低限必要な量以上に、過剰に資源を取り込んでいる貪欲なメンバー(住民)が存在していることが理由であると推測できる。

人間は6次の隔たり以内で皆つながる。これは身近な内から、5人―15人ー50人ー150人ー500人―1500人とほぼ3倍でスケールするフラクタルパターンになっている。

150人というのが、おおよそ顔と名前が一致するメンバーの数で、これが狩猟採集集団などの、機能的ユニットのサイズ感になる(企業でもそうかな:コメント)。これは人間の脳の処理能力(大脳新皮質の体積)と関係がある。

都市は人々の相互交流の表現で、これは人間の神経ネットワーク、即ち脳の構造と組織にコード化されている。

人口サイズと都市ランキングにジップの法則がある。それは、都市人口は都市順位に反比例するということ。(2010年の、人口最大のニューヨークは840万人、第二位のLAは392万人で約2分の1、3位のシカゴは272万人で約3分の1)になる。

都市は物理インフラと、すべての人々の相互作用で生まれる社会経済活動で構成され、どちらも、ある特性を最適化する進化として生まれる、フラクタル構造である。

人々の相互作用は人々のリンク数(人口をnとすると、n(n-1)/2)に比例する。nが大きければ、ほほnの2乗に比例する。ところが現実的に人がリンクできる人数は限られてくる。そこで実際は150人程度のクラスターの中に限られるような事になり、結果としてnの1.15乗に比例すると考えられる。

都市の物理インフラとエネルギー使用量が0.85乗でスケールすることで得られる0.15のボーナスが、人々の相互作用に比例する社会経済活動に加算されて、社会経済活動は1.15乗でスケールすると言える。

つまり、インフラとエネルギー使用の線形未満のスケール特性(0.85)は、社会活動の超線形スケール特性(1.15)と正確に反比例している。

その結果、都市は大きくなればなるほど、個人の稼ぎが増えるので人を引きつける。その一方で、その都市を維持するための一人当たりのインフラとエネルギーは減る。これが都市が不滅で発展を続ける理由である。

都市の道路網などのインフラは、生命体の毛細血管網と同じ線形未満スケーリングになる。

その一方で、富の創造に関わる社会経済ネットワーク(社会相互作用と情報交換の流れ)の強さは端末ユニット間(すなわち個人間:家族などのクラスター内)で最大で、階層が上がっていくにつれて系統的に弱まる(毛細血管という端末から大動脈に上がっていくと血流が大きくなるのとは逆)ので、超線形スケーリングになって収穫逓増をもたらし、都市は大きくなるほどライフ・ペースが加速する(生物は巨大化するほど脈拍数が下がってゆっくり長生きするのとは逆)。

その結果都市では実質的に時間が速く進行する。

都市の大きさは、1時間の移動距離で決まる。古代ローマは歩行都市なので、直径5キロ(今のヴェネチアもそう)、自動車移動なら40キロになる。

コメント:足立区綾瀬から大田区蒲田まで車(高速利用)で約30キロ、40分

     杉並区荻窪から江戸川区小岩まで車(高速利用)で約40キロ、1時間

生物を支配する線形未満のスケーリングと規模の経済は、安定した有限の成長とライフ・ベースの減速をもたらすが、社会経済活動を支配する超線形スケーリングと規模の経済の増大は、無限の成長とライフ・ペースの加速をもたらす。

 

企業の場合

企業の規模(売上額と資産額)は0.9でスケールする。

 企業は都市よりも生命体に似ていて、収穫逓増とイノベーションではなく、ある種の規模の経済(大きくなりすぎると、全体にエネルギーが供給できなくなる)に支配されている。

企業の売上が代謝で、費用はその維持費。

企業が成長しても、その成長率が市場の成長率以下であると企業は生存できない。これが生命体と企業の違い。これが適者生存の市場経済の本質。

成熟した大企業の成長は止まっている。これは生命体に似ている。

企業の死とは倒産だけでなく、M&Aされて自社としての売上計上が消えることを意味する。

1950ー2009年の間で、アメリカの上場企業28,853社の内、22,469社(78%)が死んだが、そのうちの45%がM&Aによる死であった。倒産・清算はわずか9%。

企業の(時間に対する)生存率曲線は企業規模、業種による差はあまりない。バクテリアコロニーのような生命の共同体システムに似ている。

つまり、企業が死ぬリスクはその年齢やサイズとは無関係だ。

上場企業の半減期は10.5年に近い。

企業の死因のひとつは、企業サイズが大きくなるほど、費用における、研究開発費の割合が減って、イノベーションの支援が、官僚的な管理費の増大に追いついていないことがある。

企業は、ほとんど、売り上げと費用のバランスポイントで生きている。加齢による復元力の低下がおきていると、ちょっとした危機でも大惨事になって死滅する。

コメント:

企業内の人のネットワーク(組織)がトップダウン型だと、それは毛細血管網に似ていて、線形以下のスケーリングとなり、どこかで成長が止まる。

都会の中の人のネットワーク(末端に行くほど結合が強い)に似た、超線形でスケールする組織にするには、機動的な小規模クラスター集団をトップに直結させるような、ボトムアップ型がいいんだろうな、と読んでいて思った。

 

持続可能性の議論

べき乗指数が1より大きいと、下に凸の成長になって、有限時間内で発散(シンギュラリティ)に至る。これを防ぐには、パラダイムシフト(相転移)を起こすイノベーションを起こして、パラメータをリセットする必要がある。

そして、そのイノベーションを起こす間隔をどんどん短くしていかなくてはならない。

 

あとがき

今やネットワークに繋がったデバイス数は世界人口の2倍以上で、そのデバイスの一人当たりの画面の面積は30センチ四方より大きい。

 

以上

ビジネスと人生の「見え方」が一変する、生命科学的思考、迷いなく生きるための生命講義 を読んでみた。

ビジネスと人生の「見え方」が一変する、生命科学的思考、迷いなく生きるための生命講義 を読んでみた。

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著者の高橋祥子氏は、京大を卒業してから、東大の院で生命科学を専攻し、博士課程在籍中に、個人向けにゲノム解析サービスを提供するベンチャーを起業した方。

やたら長いタイトルのなかの、「生命科学的思考」という言葉に惹かれ、そういうものがあるのであれば、知りたいと思って、中身も見ずにアマゾンでポチって読んだ。

読後感としては、「なるほど、生命科学とはそういうモノの見方をするのか」という気づきはいくつかはあるものの、主な内容は、氏が個人生活や企業経営において困難にぶち当たった時に、氏が言うところの、生命科学的な視点から自分の判断や行動を決めていったことの経験を語っているもので、主に20代、30代の若者に向けて、アドバイス的なコメントを綴ったものと思えた。

その意味では、迷いながらも自らの道を切り拓こうとしている人々には一定の価値を提供していると言える。いかにもNewsPicksらしい本ではある。

本書で印象に残った文言を振り返りつつ、いくつかコメントしてみたい。

まず、氏のいうところの生命科学的な思考とはなんなのか。

何度も出てくる言葉は、

「生命原則を客観的に理解した上で主観を活かす思考法」を身につけるということ。

そして覚悟から生まれる情熱をもって個人の幸せを追求するともに、種全体の繁栄をも考えた行動(地球環境保護など)をとるという事。

ここで言う生命原則とは、「個体として生き残り、種が繁栄するために行動する」事。

また、遺伝子に抗って思考し、行動し続けるという非効率的な行為こそが人類にとっての唯一の希望であると述べている。(ドーキンスの「利己的な遺伝子」の主張と同じ)

死があるのは、世代として新陳代謝することで種の繁栄につなげる意味があるともいえる。

我々が感情を持っているのは、その方が生命の生存戦略上有利だからだと考えられている。感情があることで、個でなく、集団で過ごすようになって、そっちの方が種の生存の面で有利になるから。

RBFOX1という遺伝子が、怒りや攻撃的行動に関係するという仮説がある(感情は遺伝子に起因するという仮説)。

視野というのはモノを見る範囲と、その時間軸の長さの事。それを主体的に設定できる能力を身につけると自由になれる。

生命原則では、個として生き残る(狭く短い)視野と、種が繁栄する(広くて長い)視野の両方がある。これらの間をうまく調整することが大切。年齢を重ねるにつれて後者の視野を持つことが増えてくる。小さい視野だけでは思考停止になって生きづらくなる。

生命には複数の時間軸が組み込まれている。

DNAは2重螺旋で固定され、不変であるが(長期時間)、RNA(の量など)は時によって変わる(短期時間)。これはRNAが環境変化に適応する手段であるから(RNAは一本鎖で不安定だから変われる)。

がんはDNAのコピーミスだけれど、それがあることで進化の可能性が担保されている面もある。

生命はまだ見ぬ未来への進化のためのセレンディピティ(想定外の発見)を求めて、DNAのコピーミスという不安定性を、個体が死ぬかもしれないリスクをとりながらも、種の保存のために命をかかて担保しているともいえる。

情熱は未来差分を意識し、それ向かって行動する初速から生まれる。

覚悟を決めると生きやすくなる。それは目指すものを決めると葛藤しなくなるから。

何かが変化する時に私たちは時間を感じる。

快楽と幸福は違う。その大きな違いはそれらがもつ時間軸にある。

快楽は気持ちよく楽しいことで、身体的・本能的な満足感のことで、ドーパミンの放出のような一時的な生体反応の事。

幸福は過去から現在、未来に至る長い時間の中で形成されるもの。

快楽は個人の生命活動の変化で、幸福は個人の行動の変化で感じるもの。

幸福は理性によって人間の潜在能力を開花させることで実現できる(アリストテレス)。

 企業経営を生命科学的視点でみると、

フレデリック・ラル―氏のティール組織(著作「Reinventing Organization」)のように、組織をひとつの生命体のようにとらえる。

企業理念や企業文化という(あまり変わらない)同質性(種が同じという事だな)を前提としてその上に多様性を作る。

単に差異を重視してバラバラなものを集めても意味がない。

コメント:種が同じとは、その間で子孫が作れるという事である、と何かの本で読んだことがある。確かに、相互的に何かを生み出すことのない違ったものを集めても、なにも生まれないよなあ。

多様性の尊重と、同質性のない相対主義を混同してはならない(マルクス・ガブリエル)

ただ単に異なるものが存在する状態を肯定も否定もしない相対主義は、思考停止の産物であり、意志ある同質性を前提とした多様性とは似て非なるもの。

短期的視点で(営業)利益を上げることと、変化するための中長期的視点での(研究開発)行動という複数の時間軸をもって企業を経営する(個人の生活でもそうだな)。中長期の視点では失敗を許容することで変化の多様性が生まれる。

種全体は、その多様性の中から、環境変化に適合するものが生き残る形で、種として生き延びていく。企業も生き延びるためにはそれと同じ多様性を中にもつ必要がある。

生命=動的平衡、でもある。

同じ事象を見ているのに、自分と他人が違う行動をとるのは、それぞれが見ている時間軸がずれているから。共同作業はメンバーの視点の時間軸を合わせる(今日はこれをやろう、ではなく、1か月後にこれを成しているためには、今日はこれを優先してやるべきだという視点を合わせる)とうまくいく。

企業には複数の時間が流れている。DXがうまくいかないのはこれが原因。技術の導入にかかる時間と、組織体制を変えるのに必要な時間は異なる。

客観的な情報を集めれば未来が見えると思うのは間違い。未来を見通せないからこそ(生物のように)多様性を維持するのだと考えるべき。

最後は主観的な判断で突き進む。吉田松陰の「諸君、狂いたまえ」がこれに当たる。

学術研究は論理の積み重ねで行い、主観を廃する。一方、事業は多くの人を巻き込む必要があり、ストーリー、即ち、私はこうしたいと言う経営者の主観的な意志(起業におけるミッション)が求められる。

利己的な遺伝子」という名著を書いた、リチャード・ドーキンスは「私たちには、これらの創造主(遺伝子)に歯向かう力がある。この地上で、唯一私たちだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのだ」と刺激的な名言を述べている。

そのためには、意識して思考し、行動することが必要不可欠である。

何もしなければ、エントロピー増大則により、あらゆるものは秩序を失う方向に進む。

量子物理学者であるシュレーディンガーは、その著書「生命とは何か」で、「生命は生きるために負のエントロピーを環境から絶えず摂取している」と言っている。

サルトルは「実存が本質に先立つ。どんなことも自分の行動によって意味が変わる。主体に基づけば我々は常に自由である。」と主観によって行動し、意味を見出すと言う、実存主義を語っている。

その後、2度の戦争や、社会の混乱に対し、個人の主観だけではどうしようもない、社会の構造を変えようという、構造主義が起こったが、客観的に構造を捉える構造主義だけでもうまくいかない。

「生命原則を客観的に理解した上で、主観(=意志)に基づいて思考し、行動する」というドーキンス的な生き方が必要。

最後にまとめると、「ああ、ドーキンスを読もう」になるのかな。

ゲイシャ種に関するコーヒーロースター店主との会話がためになった件。

行きつけのコーヒーロースタ―店「ナチュラル」に行ったら、エチオピア産のゲイシャ種の豆があった。

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いつも買うモカ・イルガチァフィとコスタリカと一緒に購入して、

「先日、サザコーヒーのカウンターでコロンビア産のゲイシャ種を飲んだけど、すっきり系の甘さと長く続くいい酸味が結構気に入ったよ。このエチオピア産のゲイシャ種もおなじような感じかな。この店で年末だけ売っている、パナマ産のゲイシャは200g で3000円越えで、ちょっと手が出なかったけど、今年は買うからね。」

というと、意外な答えが返ってきた。

「あのー、今年はパナマ産のゲイシャは仕入れられないと思います。」

「えー、何で。」

パナマ産のゲイシャは、まず1級の畑で取れたものが、オークション販売になって、トンデモない値段になるんです。今までは、2級畑のものはオークションにならず、商社に流れてきたので、それを店が仕入れることができたのです。しかし、今年は2級畑のものも農園側がオークションにかけると言っているので、商社に流れてこないんです。商社も怒っていますよ。」

「へー、同じ品種でも畑の区画が違うだけで、味や、格が変わるって、ワインみたいだねえ。ロマネコンティの隣の畑でピノ・ノワールを作っても同格のワインにならないのとおなじだね(笑)。」

「土地(土壌、気候、育て方)だけじゃありません。豆の処理の仕方(コーヒーの実の中の豆をどのタイミングで取り出して乾燥させるか)や、焙煎(時間)、抽出(温度)によっても味は変わります。」

「そうだよね。地域差なら、ワインで言えば、同じシャルドネ種でもフランスのシャブリとアメリカのナパでは違ったものになるしね(笑)。」

ゲイシャ種に関しては、今はナチュラル(コーヒーの実をそのまま乾燥させてから豆を取り出す)で処理することが流行ってきていますが、私はゲイシャのあのきれいな味を引き出すにはウォッシュ(外側の皮と果肉を剥いで、豆だけを取りだして洗ってから乾燥させる)の方がいいと思っています。」

「例えば、フルーツをドライフルーツで食べるのがナチュラル、フレッシュなまま食べるのがウォッシュと考えてもらうといいですよ。豆そのものの味がするのはウォッシュです。ナチュラルにすると複雑な味になります(店主談)。」

ナチュラルって、ブドウの皮をつけたまま仕込む赤ワイン、ウォッシュはブドウの皮を剝いでから仕込む白ワインみたいだと思うとわかりやすいね。今日買ったコスタリカは(果肉を少し残して乾燥させる)イエローハニー製法だから、これはロゼみたいなもんだ(私)。」

「この店は、(ていねいな管理が必要な)ナチュラル製法の豆を高い技術で焙煎して売るのが特徴だからナチュラルって名前にしたと前に聞いているけど、パナマゲイシャだけはウォッシュを推すとはねえ。パナマゲイシャは素の豆がそれだけいいんだってことなの。」

「はい。それに、パナマゲイシャはその味を引き出すのに最適な焙煎条件の範囲が狭いので、しっかりした焙煎士のいるところで買わないと意味ないですよ。」

「それと抽出の温度も大事です。」

「なるほど。コーヒーは 豆(品種)+土地(テロワール)+処理方法(ナチュラル/ウォッシュ/ハニー)+焙煎(時間)+抽出(温度)の総合力で味を引き出すものなんだね。どういう場所で、どういうカップで、誰と飲むかももちろん大事。」

エチオピアゲイシャ、家で楽しんでみるよ。」

という事で、さっそく、パナソニックのコーヒーメーカー(豆の挽きから抽出までお任せ)で出したエチオピアゲイシャは、豆を多めにした濃い味志向でもあったので、ナチュラル製法らしいしっかりした味でした。

サザで飲んだコロンビアゲイシャはスッキリ系だったので、同じゲイシャ種でも随分違う。あれはウォッシュ製法だったのかもしれない。サザで豆のままで買って自宅で飲んだパナマ・チリキはそれ以上に超スッキリだったので、これもウオッシュなのかな。今度サザにいったら聞いてみよう。

今まであまり深く考えたことがなかった、コーヒー豆のナチュラルとウォッシュ。赤ワインと白ワインに例えてみたら、俄然興味が湧いてきた。いろいろ味わってみよう。

人はなぜ音楽に感動するのか。その理由が知りたくてこの本を読んだ。結果として「ホログラフィックな脳」という妄想にたどり着いた。

Daniel Levitin氏の「This is your Brain on Music」。2006年に米国で出版され評判になった本。その邦訳の版権がYAMAHAに移り、新版となって今年の1月に出たので読んでみた。

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著者のLevitin氏はミュージシャンから音楽プロデューサになり、その後神経科学者になった人物。原題の「This is your Brain on Music」とは、「音楽を演奏したり、聴いたりしている時にあなたの脳はどうなっているのか」というのが多分正しい訳だと思う。著者は音楽の現場を知り、脳の仕組みを科学的に調べている人のようなので、「(よい)音楽はなぜ人を魅了するのか」について納得感のある答えが得られることを期待して読み進めた。

蛇足を先に言うと、邦訳の「音楽好きな脳」というのは日本語翻訳版によくある「売らんかな」が先走りすぎた訳であると言いたい。この本のどこかに、脳が音楽が好きであることを証明する事実とその仕組みの説明が書いてあるわけではない。

氏が神経科学者として示してることは、「音楽を聴いた時と、言葉を聴いた時とでは脳内でニューロンが発火して反応する部位が違う。」「人が幸福を感じる時には、ドーパミンが放出されている。ある音楽を聴いてそれが心地よければ、それはドーパミンが出ているからだ。」という、生化学反応レベルの説明だけだ。私にはそういう説明では「それでなにか?」としか思えない。

私が知りたいのは、「協和音は気持ちよく、不協和音は落ち着かない感じなのはなぜか」とか、「長調(ドーミーソのCのコード)は明るく感じ、短調(ドーミ♭ーソのCmのコード)は暗く感じるのはなぜか」のようなことなんだけど、この手の疑問に関しては、音楽を聴いている時は、今までの経験したことの記憶と照合する行為を脳がしているからだと言うような説明があっただけで、私には「なるほど」という、膝を打つような答えは読み取れなかった。

音楽も、言葉も、雑音も、空気の振動であり、それが鼓膜を震わせて、その信号が脳に伝わる。それが原因となって脳の中いろいろな部位のニューロンを発火させるが、その発火の起こる場所が音楽は多岐にわたっているのが、(雑音や言葉でなく)音楽を聴いた時の特徴だと氏は言っている。

それは恐らく、音楽には、雑音と違って、周波数が整数比でそろっている共鳴する部分(ハーモニー)や、リズム(一定した音圧の繰り返し)、音のつながり(メロディー)や強弱があって、それらのパターンを脳が認識して反応する。そして、それらからいろいろな特徴を抽出してそれらを上位概念として統合し、それを過去の経験と照合するような、アルゴリズミックな処理を行って、その整合度に応じて、どの程度ドーパミンを放出させるかを脳が指示しているんじゃないかと、私は勝手に思っている。しかし、本書では、あくまで音楽を聴くと、脳のどの部位が反応するという、実際のモノとしての脳の中での反応の観測結果を超える記述はしていない。

私が妄想しているような、脳というハードウェアの上で行われる、ソフトウェア的なアルゴリズムの処理の様子を科学として観察、検証する手段がまだない、というのがその理由ではないかと思われる。実験と検証と旨とする科学者という態度では、当然そうなる。

例えば、高性能AIチップを電子顕微鏡で観察しても、トランジスタがメタル配線で繋がっているものが見えだけである。これは脳の神経細胞網に相当する。このチップが人工知能として機能して、囲碁の妙手を発見するの仕組みを説明するためには、そのチップの上で動作しているCNNのアルゴリズム(ソフトウェア)を説明しないといけない。しかし、アルゴリズムは顕微鏡では観察できない。チップのどの部分が動作しているかを電磁的に観察してアルゴリズムを理解しようとしても、日暮れて道遠しという感じだ(超優秀なハッカーならできるかもしれない)。

この脳内のアルゴリズムを恐らく「意識」というのだと思う。

この意識の問題はとても厄介で、脳科学だけでなく、あっという間に心理学、哲学、宗教にまで話が発散するので、ここでは深入りしない。過去の経験の蓄積によって醸成されてきた「私の美意識」が、この音楽のこの部分に感動するという状況を発現させているわけで、その音楽の同じ場所であなたも同じように反応するわけではない、という話になると、個の問題も絡んで来て、一般化を旨とする科学としては手に負えない。赤ん坊にモーツアルトを聴かせると喜んでいるように見えるのと、あなたがモーツアルトのレクイエムを歌って荘厳な感動を得ることは同じではないはずだ。

ここで、見方を変えて、脳ってひょっとしたら経験を蓄積して成長していくホログラムのようなものなんじゃないのという妄想を語ってみたい。

ホログラムというのは、物体にレーザー光を当てて、その反射波である物体光と、その物体を照射した光と光源を同じくし、半透明反射鏡(ビームスプリッタ)で分波された参照光を干渉させて、その干渉縞を記録したものである。

この干渉縞(ホログラム)に元の参照光を照射すると、物体光が3次元的に再生される(再生光)。この再生光のことをホログラフィと呼ぶ。

干渉縞とは、空間周波数で表記される逆空間であって(次元は1/距離で表記されるものが縦横に2つある2次元である。干渉縞の厚み方向の次元は意味を持たない)、干渉縞には、物体光の3次元の空間表現が2次元の逆空間に変換されて保存されている。

参照光を干渉縞に充てることで、2次元パタンである干渉縞から3次元の再生光が現れる。これは2次元の逆空間と3次元の実空間が等価で相互に変換し合えることを意味している。

これは宇宙物理学が言うところの、3次元の重力のあるAdS空間(極率が負の空間)は2次元のCFT(共役場)空間と等価であるとう、AdS/CFT Correspondenceをホログラフィック原理といっていることと根っこは同じである。

その再生光は、もともとの物体光と同じになるというのが凄いところだ。(厳密には全体的な光の強度はファクターがかかる感じで少し落ちるが、像が欠損したり歪んだりはしない)。このことを突き詰めると存在論や認識論にまで行きつく(Dinge an sichがホログラムで、再生光がErsheinung。認識しようとする観測行為が参照光)。しかし、その議論はここではしない。

ホログラムの凄いところは、「部分が全体である事」。干渉縞のどの部分にも物体光全体の情報が記録されている。具体例で説明すると、仮にホログラムの上半分を欠損させたとしても、物体光の上半分がなくなるのではなく、全体としての物体光が暗くなる(S/Nが劣化する)だけで全体は再生される。なので、ホログラムは極めて冗長度が高い。逆に言うと、大きな3次元空間の情報をとても小さな2次元干渉縞で記録・再生できるという事になる。

ここでやっと脳の話に戻るが、脳内の記憶はホログラフィックに保存されていて、音楽を聴いて、ある種の記憶が呼び覚まされて、個の美意識が働き、感動する(ドーパミンが出る)と言うのは、音楽の鼓膜からの入力が参照光となって、過去の音楽体験が再生光となって現れるのではないか、というのが私の妄想なのである。

宇宙の現れ方と、脳内の記憶や音楽の感動の発露が同じホログラフィックな現象であると思うと何だかロマンだなあ。

本書でも、著者は、「音楽は脳全体に分散している。」と言っているし、脳の一部が損傷して文章が読めなくなったのに、楽譜が読める人がいるという例が示されている。それは、脳内の記憶はホログラフィック(部分のなかに全体がある)であるとの考え方と方向性はあっているように思う。

音楽は時間とともに流れていくので、時間の関数として記述される(楽譜)。音楽全体を一瞬で味わうことはできない(これが絵画と違うところだ)。

時間の逆空間(1/時間)が周波数空間で、音の高さとして表現される。ハーモニーというのは複数の音の高さ(周波数)の間に一定の整数比の関係がある事を言う(A Majorのコード:ラード#ーミは おおよそ、440z-550Hz-660Hzである)。人間の脳はハーモニーに敏感であるという事は、脳の中では周波数空間で音が処理されているからだと言えるだろう。つまり、脳は時間の逆空間を認識している。

ピアノはすべての調性で弾けるように平均律で調律されてしまうので、完全なハモリのコードがなっているわけではない。(例えばド#は554.365Hzである)。なので、A Majorコードをピアノで弾くと、長調短調かを決める三度の音であるド#は、整数比の関係になる550Hzより4.3Hzちょっと高い。そのせいか、A Majorコードは、私には長調が少し過剰に出た、硬い和音に聞こえる。

これを半音下げてA♭ Majorのコードにすると、微妙な周波数比の関係が変わるので、私には柔らかく聞こえる。

概してピアノ曲の場合、A♭(ベートーベン悲愴第2楽章)やD♭(雨だれ)など♭系の長調の曲のハーモニーの方が私にはしっくりくる。

雨だれは最初Des-durの長調で明るく柔らかく軽やかに始まるけれど、#系短調のCis-molに転調した後は、何か嵐を予感する緊張感と重々しさが出てくる。名曲はちゃんと調性を操って深い感動を引き出しているのだと実感する。

一方、歌声やバイオリンの音程は完全にアナログで、独奏の場合、音の高さをピアノの平均律ぴったりで演奏する必要はない。その微妙な音程の取りかた(特に短調のフレーズを下がって来るところ)が実は名人芸が発揮されるところで、それを聴いて人々は涙するのです。脳が凄く共鳴しているという事なんだな。

音楽を聴いて、ある情景が浮かんだり、昔の経験が突然現れたりするのは、音楽という入力が参照光となって、過去の記憶が物体光のように再生されるからではないかと、私は妄想している。

脳の記憶は連想メモリのようなものという人もいるようだ。過去の記憶を構成する映像や音は、連想の元となる事象の経験をレファレンス(引き出しのタグ)とする干渉縞となって、次元が一つ下がった逆空間に保存されているのではないか、などと、勝手に想像している。

さて、私の妄想はこれくらいにして、本書で印象に残った記述を以下に列挙し、コメントを加えてみよう。

認知心理学者ロジャー・シェパードは、「も数百万年に渡る進化の産物だ」と言っている。

 コメント:その進化はDNAで受け継がれるのだろうか。DNAはタンパク質(ハードウェア)の設計図に過ぎない。心はソフトウェアであるとすると、その進化は外界からそれをダウンロードする仕組み(目や耳などの感覚器官)が進化したと捉えるしかないのでは。

マイルス・デビスは、自分のソロで一番大事な部分は音と音の間の空白、次の音との間に入れる空間である、と語っている

コメント:同意。音のない空間を支配してこそ音楽は力を得る。音楽は時間を支配し、(音の聴こえる)空間を構築することで時空を作り上げている。

時間を流すのにメロディが必要だというのは古典的な考え方で、メロディーをなくし、ハーモニーだけで空間を作るのが現代音楽のひとつの形だと、武満徹をライブで聴いていて感じたことがある。

それは、2本のギターで奏でる「Time within Memory」だったと思うが、記憶が曖昧だ(今思うと意味深な題だな)。記憶の中の時間をハーモニーだけで表現していたんだろうか。私は時間というより、空間を感じだけどね。

無音を聴くとしたジョン・ケージ4分33秒」までいくと、理屈が勝って、私にはついていけない。でも、これにも時間という概念は明確にある。

モーツアルトも、フレーズとフレーズの間にある呼吸感が表現できてはじめてモーツアルトになるのは、ピアノを弾いていて実感(できなくて痛感)することろだ。

・周波数は物理的なもの。ピッチは周波数に対して生物が持っている心的表象のこと。それは外界にはなく、頭の中にある心理的な表象で、脳がないと発生しない。

ニュートンは光には色がないことを指摘した。色は光が網膜に当たると一連の神経科学的な事象を引き起こし、その産物として色と呼ばれるイメージが心の中で生まれる。

デザートは舌に触れた時だけ味がする。冷蔵庫のなかでもその味があるわけではない(うーん、量子力学観測問題みたいだ)。

コメント:ピッチと色は認識の形として似ているという事か。どちらも脳内だけにしか存在しない。

周波数とピッチを別なものとして定義していることに注意したい。

・おおむね文化的な理由から、私たちは長音階を嬉しい気持ちや勝利感と結びつけ、短音階を悲しい気持ちや敗北感に結び付ける傾向がある。

コメント:うーん、これでは、短調の曲を聴くとなぜ悲しいと感じるか説明できているとは思えないなあ。そういう風に教育・訓練されたからとでも言いたいんだろうか。

スクリャービンラヴェルなどの作曲家は、作品を音の絵画だとし、音符とメロディーは形態と形状、音色は色と陰影に匹敵するものだと言った。

・音楽が絵画と違うのは時間とともに変化する動的な性質をもっていること。

・音楽を味わう核心は音色にある。

・リズムは長時間をかけて聴くものを究極の力で支配してきた。

・テンポ感の正確さの神経的な基礎は小脳にある。

・音楽の7要素は、音の大きさ、ピッチ、リズム、メロディー、ハーモニー、テンポ、拍子である。

・曲全体の音符間の相対的な関係を維持したまま、ピッチ(調)を下げたり(移調)、テンポを遅くしたりしても同じ曲に聞こえる。この不思議なことは、人間の精神を部分や要素の集合でなく、全体性や構造に重点を置いて捉えるゲシュタルト心理学でも、うまく説明できない。

認知科学者は脳をCPUチップというハードウェアにたとえ、心をCPUで実行されるプログラム、即ちソフトウェアにたとえる。だから、よく似た脳から全く異なる心が生まれる。

・人の思考と信念と経験の総計は、脳の発火(電磁気的活動)パターンで表現されているというのが有力な見方だ。

コメント:パターンというのが重要だな。メロディーやハーモニー、リズムを想起させる言葉だ。ランダムではパターンにならない。韻文には、七五調といったリズムのようなパターンが備わっているので、散文と違って、よく記憶に残り、少ない文字数で感動を与えることができるんだろうな。

・前葉頭は計画や自制心に関わり、感覚器官からの雑然とした信号から意味を汲み取る。側葉頭は聴覚と記憶を受け持ち、小脳は感情と動きの計画に関わっている。

・平均的な脳は1000億(100ギガ)個のニューロンで構成されている。ニューロンのつながりから思考や記憶が生まれる。

・曲には全体的な響き、音の色彩がある。これをサウンドスケープという。これによって初めて聴く曲でもこれはビートルズの曲と分かる。

コメント:目で見るもののランドスケープ(風景)と比較すると面白いな。

・記憶がなければ音楽はない。大作曲家が、変奏や移調という変化をつけて巧みに作った繰り返しに脳が感情的に満足するのが音楽の楽しみ。

コメント:モーツアルトの時代のように、音楽はライブしかない時には、ソナタ形式のような繰り返しは大事。しかし、今はCDやYouTubeで同じ曲を何百回も聴くことができる。なので、音楽の形式が変わってもいいように思うけれど、流行歌だってAABA'のような形式の曲が多い。好きな楽曲は何回聴いても飽きることがないのは不思議だなあ。聴けば聴くほど細かいところの理解が進んで、楽しさが増えてくる。

それに挑戦する(繰り返しのない)現代音楽は必ずしも脳を喜ばせないのだとしたら、何のためにやっているの、と思う事もある。

・音楽は期待を体系的に裏切ること(テンポ感を微妙にずらすグルーブ)や意外性を表す(突然の転調など)ことで私たちの感情に語りかけて来る。

・小脳は音楽を聴いている時は活動するが、雑音を聴いている時は活動しない。そして好きな音楽を聴いていると(感情に関与している)小脳がより活性化する。

・科学者達は感情とは何かについてさえ意見の一致を見ていない。

・冗長性と機能の分散は、神経構造にとって欠かすことのできない原則だ。

コメント:そのためにはホログラムが優れていると思うんだけどなあ。

・音楽は言語よりずっと動機付け、報酬、感情に関わる原始的な脳構造に深く入り込んでいく。

・世界レベルのエキスパート(音楽演奏家)になるは、どんな分野でも1万時間の練習が必要だ。

コメント:1日5時間x365日x5.5年。仲間に披露できる程度の趣味のレベルなら1000時間かな。1日1時間X5日x52週x4年。

・運動と脳と音楽の間にはつながりがある、という事が実証されつつある。

・音楽の聴き手のエキスパートにたいていの人は6歳までになれるが、音楽的文化の文法を精神的なスキーマに組み込み、音楽的な期待を抱けるようになっていることが、音楽に美しさを感じる経験の核心である。しかし、それをどうやって身につけていくのかを神経科学者はまだ解き明かしていない。

・協和音を好きだと感じる理由はまだわかっていない。

・音楽は社会的な結びつきや社会行動の結束を強める働きをする。

コメント:これが音楽が政治にかかわってくる理由だな。シベリウスの「フィンランディア」をNHKの「名曲アルバム」で初めて聴いた時に、日本人の私でも何だか国威高揚の思いがこみ上げて来てびっくりした。ナチスがこの曲の演奏を禁じたという「名曲アルバム」の字幕解説も印象に残っている。なぜそんな気持ちになったのか今でもわからない。シベリウスのテクニックなのか、その曲に込めたシベリウスの思いに対する脳の自然な反応なのか。

・どの曲が好きか嫌いかは、ひとりひとりの経歴、経験、理解力、認知のスキーマの違いによる。

 

いろいろ示唆に富む話ではあるが、なぜ人は音楽が好きなのかは、やはり、うまく説明できていないというのが正直な感想です。

 

 

日本酒を味わいながら、その奥深さと可能性について考える。古酒、新酒、アッサンブラージュ。でもやはりワインの魔力には勝てないのか。古酒試飲会。話は世界と時代を駆け巡った。

酒に関して感じ、思ったことをまとめてみた。
まずは日本酒の奥深さについて。NHK BSの番組。オンデマンドで見られる。
 メチャクチャ面白かった。
最大の驚きは、2018年まで28年間ドンペリ醸造責任者を務めていたリシャール・ジェフロワ氏が、富山県立山で日本酒を作り始めること。
しかもその製法は、「Assemblage(アッサンブラージュ)」すなわちブレンド
「万寿泉」で有名な枡田酒造が10数種類の生酛仕込みの原酒を提供し、ジェフロア氏がその配合を何か月もかけて決めたそうだ。普通、清酒にはないビンテージワインのような複雑ではあるがバランスの取れた、長い余韻(古酒にはある)のある酒になるそうだ。
シャンパン界で最高のアッサンブラージュをしてきたレジェンドが日本酒の新しい世界を立山の麓で拓く。酒蔵を設計したのは隈研吾(2019年11月起工式)。なんかすごい物語になりそうだ。
さらに、名古屋の酒蔵(萬乗醸造)の、フランスのマノビ米を使った酒造り。
このマノビ米で作った酒を飲んだフランス人はその米のとれた土地(南仏プロヴァンス地方のカマルグ:マルセイユモンペリエの間の海に近いところ)の塩味を感じて、通常の日本酒よりもおいしいと言っていた。フランス人にはフランス米で作った酒が最もおいしいはずだという思いが凄い。
アイラウイスキーのヨード臭をおもい出す。
酒=テロワール(土地)という事なんだな。
日本酒の奥深さと可能性を見た。さらに、それに惚れ込んで新しい日本酒の世界を拓いていく人々を知ることができたいい番組だった。
写真にある、キャラのたった「南部美人」酒造の社長も良かった。
火入れをしていない搾りたての一番おいしい生酒を海外に届けるために、瓶詰後すぐに-30℃で冷凍して出荷する「スーパーフローズン」にも意気込みを感じる。
三軒茶屋の新世代SAKE蔵のWAKAZEにも行ってみたい。
前編から見てね。
次は、古酒と料理のマリアージュ体験。
ある集まりがあって、日本酒の古酒をそれにあう料理とともに味わう会食をした。
料理との相性も抜群で、甲殻類、煮魚、ステーキ、どれとも楽しめる。香り、超柔らかい口当たり、長い余韻。どれをとっても清酒とは別世界。素晴らしい体験だった。
その集まりは、この素晴らしい古酒の魅力をどうやって広め、その価値に見合う対価をいただくかの意見交換会でもあったので、それについてちょっとまとめてみた。

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 【古酒のビジネスについて考えたこと】

1)古酒という貴重な「もの」を高く売るという発想を高めて、古酒を楽しむという「ワクワクする体験」を提供するビジネスをめざす。そのためには、古酒の「物語」が必要。

日本古来の神が飲んでいたのが「古酒」であり、古事記のなかに「古酒」が出てくる印象深い物語があれば、それに乗っかる。

そういえば、大人気アニメ映画の「君の名は」に、天女が口に含んで作った酒の話が出てきます。それが古酒の起源であるような物語で繋がると素晴らしい。若者にも訴求する。

2)ビンテージ古酒に対するセカンドブランドを作って、中国人のインバウンドにも対応し、世界に古酒を広める。

一定規模での安定製造ができないので、中国人向けの量販店に展開できないのは、ちょっと残念に思う。量の期待できるマーケットにセカンドブランドで対応する。

古酒をアンティークジュエリーのような、手に入れただけのものを売るビジネスにしていては発展できない。古酒も食材なので、毎年一定規模の生産量を確保する。

その視点から、京丹後市にある、古酒を古酒として作っている酒蔵が魅力的です。京丹後市は天の橋立が近い。しかもその酒蔵の杜氏は外国人。ネタはそろっている。

その外国人が天の橋立に行ったとき、天女が降りてきて「古酒」を作りなさいと言われたというような「物語」が欲しい。それで、氏は古酒の醸造にのめり込み、清酒が古くなって古酒になるのを待つのではなく、最初から古酒を古酒として作る手法を天女の導きで思いついたというような。外国人が古酒にのめり込むというのはインパクトがあります。それをきっかけにフレンチレストランや海外に拡販をかける。

3)ブランディング

「古酒」は天からやってきた酒というイメージをネーミングに込める。

ビンテージ古酒のシリーズは 「天嘗」 (天が嘗めて作った酒)

導入用のセカンドブランドは 「天魁」 (天のさきがけ)

とする。「天魁」が宮内庁御用達になれば最高。

「天嘗」には様々な個性があるので、様々な古酒の詰め合わせ販売ではなく、4合瓶を桐箱に入れてブランドを際立たせて個別販売する。「天嘗」の下に個性を表す個別ネームをつける。

等、思いついたことを記してみたが、このままでは単なる妄想だなあ。

とはいうものの、友人が経営する酒販店の試飲室で、とある勉強会のオフ会を行った時に、古酒のいくつかを持ち込み、新酒、生酛、バラの花から取った酵母で作ったお酒などと飲み比べて皆の感想を聞いてみた。

【古酒試飲会、話は世界と時代を駆け巡る】

まずは古酒の感想から。

 「ああ、柔らかくて、いい後味がずっと続く。1995年ものと2003年ものの違いはわかるね。」

「一つ間違うと米酢に思われるかもしれないね。酒を無管理で放っておくと酢になるという俗説もあるし。」

「酒は新しい方がフレッシュでいいという思い込みもあるしね。」

「売れ残って置いておいたものが古酒だ、という風に思われるとその価値が伝わらないね。」

など、なかなか一言でその価値が伝わる感じがしない。

【話はワインへ】

ワイン好きからは

アメリカのレストランでオーパス・ワン(当時のワインショップの値段は200ドル、今は日本の酒販店では6万円)を飲んだことあるけど、やっぱり並みのワインとは全く違ったよ。味覚が魔力的にもてあそばれる感じだったなあ。最初そっと口に含むと、舌の上面がザワザワっとして、あれ、オリでもあるの?なんて思ったけど、そんなことはなくて、その後すぐに舌の横でいい苦みを感じたなあ。苦みは舌の端の部分で感じると言うけど、ほんとにそうだなあと実感したよ。そしてゆっくり飲むと、鼻に甘い香りが抜けて行って、口から喉にかけて甘くて柔らかい味が10秒ぐらいずーっと残るんだ。もう胃袋に納まったはずのワインがまだ喉にひっかかっているのかと思ったよ。喉が味を感じるなんて初めての感覚だったな。味覚と嗅覚がクロストークしたのかな。数十年前の経験を今でもこうやって語れるほどの強烈な経験だったなあ。そういうモノが古酒にもあるといいんだけどねえ。」

「ふーん、オーパス・ワンでそうなら、ロマネ・コンティ(高級フレンチレストランで200万円以上)飲んだら卒倒するかもねえ。そういう凄い味覚って、味蕾細胞の反応というセンサーレベルの話ではなくて、脳内で味覚を認識する神経細胞ネットワークが過去の知覚経験で培ったアルゴリズム(CNN)では味覚センサーから来る情報を処理できなくて、善き誤動作を起こしてるんじゃないのかな。」

【話は味覚の認識論から細胞生物学へ】

「つまり、今まで経験したことのない味覚や嗅覚に、脳が反応できず、とりあえず悪いものではなさそうだから、いい反応を返しておこう、ってことなのかな。味覚や嗅覚は本来、体に毒なものを入れず、栄養になるものを得るための選別機であったはずのものが、快楽の追求の道具になった感があるよね。」

「それって脳内の化学反応を混乱させる麻薬にちかいかも。麻薬のように化学反応という物理レイヤーでなく、アルゴリズムという上位(ソフトウェア)レイヤーで起きているとしたら凄いね。」

「情報社会は視覚と聴覚は扱うようになったけど、味覚と嗅覚は扱うすべがまだない。触覚はもう少しで扱える(ハプティック)。生命体が生命を維持する上では、触覚、味覚、嗅覚がとても大事。今の情報社会がこのまま視覚と聴覚だけで発展しても命が活性化される感じがしなくて、むしろ無機的な世界の到来を予感させるとことはそんなところにあるのかもね。」

「そう、これからは細胞生物学(オートファジー)による寿命拡張の探求と、脳内の意識の発現を神経細胞ネットワークの上位レイヤーレベルで理解することが肝要だな。」

「オートファジーの活性化で120歳まで生きるとしても、ただ生きてるだけじゃ意味がないよね。生きて何をするか。それが問題。」

【話は世界を駆け巡る】

「今の地球人口は78億人。過去50年で倍になった。そうはならないだろうけど、後50年でまた倍になるとしたら、地球って持つんだろうか(環境、食料、水)と思う。」

「2030-2040年頃には、地球レベルで大きな転換点が来そうだね。その頃はまだ生きている可能性が高いから、自分事として考えないと。」

「自分事で考えるなら、地球全体という視点はいらない。食料とエネルギーが自給自足できる善きコミュニティを作り、その中の一員としてなにをするかの視点でいいんだよ。」

「地域コミュ二ティが世の中の基本単位になると、国家ってどうなっちゃうのかな。国家とは国境を定め、その中にいる人々を国民と定め、その国民を守るために権力を内外に行使し、その行動原資として国民から税金を集める権限を有するもの。宗教のように、国境で区別できないものが、国家権力の上に来ると、国家の体は崩壊する。そういう動きが加速している地域もあるので、国家を単位で考えてはもういけないのかもしれない。」

縄文文化をもつ日本人はその歴史の中に解をもっているはず。縄文文化が世界中に拡がったことを含めて、縄文文化のことをもっとよく知るべき。」

「将来に向けては、地球温暖化とか、パンデミックとか、表面的な報道の裏にある事実を読み解かないといけないね。」

など、話はどんどん飛躍、循環する。

ワインには確かに物語を加速するところがあるなあ(今回は日本酒だったけど)。

そういえば、店主お勧めのアゼルバイジャンワインを飲み忘れた。

では次回、アゼルバイジャンワインを飲みながら、ノアの箱舟から、中近東情勢を最初のネタに語り合いましょう。

あ、次回は、縄文文化の咲き誇った阿蘇山麓で、でしたね。

熊本にも素晴らしい酒がある。楽しみです。

 
 

ダン・ブラウン「ORIGIN」の読後メモ。汎用AIや量子コンピュータ、生命科学と宗教、スペインの歴史。エンタメ満載。

だいぶ前に読んだんだけど、ダン・ブラウン「ORIGIN」の読後メモを作っておこう。

https://www.amazon.co.jp/Origin-Novel-Dan-Brown-ebook/dp/B01LY7FD0D/ref=sr_1_1_twi_kin_1?ie=UTF8&qid=1526719406&sr=8-1&keywords=origin%20dan%20brown&fbclid=IwAR27FCD_Wgtm7Ov8ITpQLgvRna4VwqrnoZBEsO8ZQX43GRKHmQXQ4iST4EM

ネタバレのない科学の範囲で印象に残ったこと。
1)エントロピー最大化問題を量子アニーラーに解かせると、生命はエントロピー最大化に至る過程のなかでのローカルな窪みとして存在の場所を得るとの印象を持った。
2)パターンは自然界に発生するが、コードは人の知性的な意識が意図をもって作ったもの。”Codes are the deliberate inventions of intelligent consciousnesses.”というラングドンの説に合意した上で、DNAはパターンの中にコード(のようなもの)があるんだと思った。DNAは自然物の中に何かの意識が入っているものの様に思える。
3)私がすべての始まりと思っている、量子揺らぎの話が触れられていない。でも、量子揺らぎはエントロピー増大原理のミクロな表現でもあるので、言っていることは同じか。
揺らぎ=Spontaneousと読むと、Spontaneousという言葉は本文に13回出てくる。この言葉をこういった背景をもって読むとすっきりする。
Life arose spontaneously from the laws of physics.
4)究極の問いはここに来る
If the laws of physics are so powerful that they can create life…who created the laws?! (ラングドン

AIに関しては、

目標値最大化のためにAIに自律行動を許すと、あそこまでいってしまうという警句を出しているのは確かだな。ラングドンが言ったようにAIに倫理(Should not)を教える必要があるのかどうか。AIに(囲碁の手のような)人間がまだ気が付いていない目標に対する最適解の候補を見つけさせるのはよいが、その採否の判断と執行までをゆだねるかどうかは結局人間の問題。

オンラインゲームの中では人が操るアバターとAIのアバターはそろそろ区別がつかなくなる。ロボットにAIを積んでほとんどエッジコンピューティングだけで自律的に動けるようになると、そいうロボットの存在は人間の生活に直接干渉してくる。ドローンはもうそこまで来ている(ドローン兵器)。

 

 

宇宙論を学んだメモ。AdS/CFTとホログラック宇宙論がマルチバース宇宙を拓く

昨日、あるオフ会で宇宙論の話が出て、AdS/CFTとホログラフィック宇宙論のことが話題になった。いろいろ会話したなかで、今まで調べて考えてきたことを纏めておきたくなった。
 今妄想しているのは、次のようなこと。
宇宙そのもの(Dinge an sich)は冗長多次元なもの(ホログラフィ)であり、直接知覚できない。その宇宙を、我々人間は、3次元(+時間)という脳の知覚の仕方で宇宙を参照(観察)するので、その参照光に対して宇宙そのものが返してくれる物質光(観測結果)が我々の観察している宇宙(Ersheinung)である(カントの認識論の物理的解釈)。
これが量子力学で言う観測問題(我々の方法で観測することでマルチバースの中から我々のユニバースが選ばれる。観測しない時にはマルチバースは多次元のDinge an sichとして存在する)。
天国や地獄は、マルチバースの中の、生きている人間とは違う認識方法で観測される他のそれぞれひとつのユニバースなのかもしれない(スピリチュアルな人はそういう認識ができるんだろうなあ)。
重力は、我々が3次元という認識の枠組みを持っているからこそ生じる力であって、空間が曲って認識されることを、もの(すなわち質量:ダークマターを含む)の存在と等価のように認識する。それは、電場の力が、その源となる電荷の存在に対応していること同じように思えるけれど、鶏(場)が先か卵(粒子=量子)が先かの議論のように、どっちが先かの違いがあると感じる。この後先の順番を決めることが時間という概念が発生することの本質かもしれない(空間が曲るから質量が存在する。電荷があるから電場が存在する)
電荷は観測できるが、重力子(グラビトン)はまだ未発見で、仮想上のゲージ粒子である
超弦理論で、重力は5次元空間を伝わると言うのはロマンだなあ。それの考え方が映画「インターステラ―」の中で使われているのがわかった時はちょっと感動した。つまり、重力を使って、他次元にいる宇宙人と情報の交信ができるのです(肉体の行き来はできない)。
4次元の空間認識をする宇宙人がいれば、その宇宙人の見ている(生活している)世界は我々とは違うものになる。
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学びの振り返り
日経サイエンス 量子宇宙(2018 年10月】の読後メモ
読みました。中学生の時にブルーバックスで相対論と量子論の概要を知った時以来の知的な興奮を覚えました。
ホーキングがブラックホールエントロピーブラックホールの地平の面積に比例することを見出したこと、それがホログラフィック原理に展開されAdS/CFT対応にまでたどりつくところが圧巻でした。
AdS/CFT対応とは、重力のない2次元の時空が、重力のある(極率が負である)3次元の時空と等価であることと理解しました。これは笠、高柳という2人の日本人物理学者が見出したものです。
2次元的な凝縮系の物性論の問題が(3次元重力場の)一般相対性理論で扱える事(学科同期の永長教授が「物質の中の宇宙」といっていたのはこのことか!と得心しました。)など目を開かれる思いでした。
「われわれの住んででいる時空の曲率が負であるとの精度の高い観測結果が出るかどうかでマルチバース宇宙論が検証できる。」という柏キャンパスでの野村教授の講演の結言の背景が理解できたと思いました。
 【野村泰紀教授著「マルチバース宇宙論入門(星海社新書2017年)」読後メモ】
バークレーの野村教授が最初に宇宙物理学の発展の流れをわかりやすく説明しています。我々の宇宙は、ほんののわずかの相互作用の対称性の乱れがあるせいで反物質との対消滅を免れた、残りカスの物質から10万分の1の(量子力学的な)密度の揺らぎをもとに生成されたことを知りました。
超弦理論余剰次元の意味、あまりによくできた真空エネルギーの説明を経て、量子的マルチバース波動関数の重ね合わせとして確率空間に存在していることが説明されます。それを理解するためには観測(者)を波動関数の中に含めることが必要と説明されます。量子コンピュータの重ね合わせ状態もマルチバースと説明されます。非常に学びの多い、示唆を受けた本でした。私の中では、量子コンピュータは量子状態で演算して最後に観測して結果を得るものと思って消化不良状態になっていたので、私の(コペンハーゲン的な)観測観ではまずいんだな、というのと、量子ねじれとマルチバースってどうなっているの?という課題が浮き彫りになりました。
電波天文学の意味が分かって目からうろこでした(宇宙人と電波で交信している訳ではありません)。光速はどこから見ても不変(特殊相対論)という事が人間の認識の範囲を決めていると思いました。遠くからの光は過去からの光なのです。宇宙の果ては宇宙の始まりの情報を与えてくれます。高速で遠ざかっているものはドプラー効果で波長が長くなる。だから宇宙は(光の波長がドプラー効果で長くなった)電波で満ちている、しかも膨張している。ということがこの本でわかりました。
 【野村泰紀教授のKavliの量子重力の論文の読後メモ】
量子重力論は、2次元の重力のない場の量子論が3次元の重力のある空間の理論と等価であるというAdS/CFT対応関係(ホログラフィー原理)が前提になっていて、量子重力論の正しさは3次元の時空を記述した一般相対論の結果と整合するかどうかで検証するようです。
勉強会で、この論文を自ら訳してみんなで勉強したので、その重要な記述部分を末尾に記します。
 梶田隆章先生の講演会(1-20-2020@安田講堂)のメモ】
ニュートリノ振動の意味が明確に理解できた。
ニュートリノがミューからタウに変化する。変化するという事は時間の概念があるということ(光速で進む光には時間の概念がない=時間が進まない)。時間が進むという事は光速で動いていないという事になるので、それは質量がある事になるという説明がとても腑におちた。
ニュートリノの質量はクオークの質量の10億分の1.それがビックバンの直後に発生した物質と反物質が結合して結局物質がなくなるはずだったのが、10億分の1だけ物質が反物質より多くて、物質で構成されている今の宇宙ができたことに関係しているかもしれないという壮大なロマンある話が聴けてとても感銘した。
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Kavli IPMU News No. 43,
September 2018
Quantum Gravity and Quantum Information
Yasunori Nomura
の核心部分の対訳(抜粋)
 A strange thing here is that the entropy of a black hole is given by its area. Since a black hole is the fi­nal state of the evolution of any initial state, the entropy of the black hole must be indicating “the largest possible entropy that the region can have.” In modern days, we know that entropy is given by the logarithm of the number of possible quantum states that the system can take. If space is composed of some simple constituents as in ordinary materials (e.g., if space can be approximated by a lattice with a spacing of order the Planck length), then the largest entropy of a region must be proportional to its volume. However, the discovery of Bekenstein and Hawking says that it is proportional to the surface area.

 ここで奇妙なことはブラックホールエントロピーブラックホールの地平の面積(に係数をかけたもの)で与えられるということです。ブラックホールはいかなる初期状態から進化したものでもそれの最期の状態であるので、ブラックホールは“その領域が取り得る可能な限りの最大のエントロピー”を示していなくてはなりません。現代ではエントロピーはその系がとり得る状態の数の対数で与えられることが知られています(S=kBlogeW:Wは状態の数)。空間が通常の物質のような単純な成分で構成されていれば(それはすなわち、空間がプランク長の寸法の空間格子で近似できることと同じですが)、その領域の最大エントロピーはその体積に比例しなくてはなりません。しかし、ベッケンシュタインとホーキングの発見はエントロピーは(その領域の)表面積に比例すると言っているのです。            

注)プランク長 1.616229×10−35 m

 This implies that in a quantum theory with gravity, the number of fundamental degrees of freedom is given by that of spacetime with one dimension less than that of the original, dynamical spacetime. For example, while spacetime we live in seems to have three spatial dimensions (ignoring possible small extra dimensions), the “true theory” describing it must be formulated in spacetime with two spatial dimensions and one time dimension. This is possible because if you try to ­fill matter at each point in space (e.g., at each site of the Planck-size lattice), black holes form long before it is completely ­filled, and putting further matter only increases the size of the black holes. Namely, it is merely a ­fiction that the space we live in has full three dimensional degrees of freedom.

このことは重力を含む量子論では基本的な自由度の数は(重力によって)動いている元々の次元より一次元少ない時空の自由度で与えられることを示唆しています。例えば、我々が住んでいる時空は3次元空間に見えますが超弦理論で考えうる小さな追加次元のことは無視します)、(我々の住む)時空を記述する「真の理論」は二つの空間次元と一つの時間次元で定式化されなくてはならないのです。このことは可能なのです。その理由は、時空の各点(プランク長の格子点のそれぞれ)に物質を満たしていこうとすると、その空間全体を完全に満たしきるはるか前にブラックホールが形成されて、それ以降物質を置いて行ってもそれはブラックホールの大きさを大きくするだけになってしまう(3次元空間を満たしきれない)からです。それを言い換えると、我々が住んでいる空間は3次元の自由度をもっているというのはフィクション(作り話)なのです。

The idea that the theory of quantum gravity is formulated in spacetime that has lower dimensions than the apparent, dynamical spacetime is called the holographic principle. The lower dimensional theory formulated in this way called the holographic theory does not have the discrepancy between the number of true and apparent degrees of freedom, so it does not have gravity: the dynamical spacetime in higher dimensions and its associated gravity are only emergent. The fact that the holographic theory does not contain gravity at the fundamental level means that it can be treated as a regular quantum system, and hence can give a rigorous defi­nition of quantum gravity. This seems to be a pretty crazy conclusion. It would be natural if one cannot believe such a thing.

 重力を含む量子力学の理論が、重力によって動いている見かけ上の時空よりも一つ次元の低い次元の(重力を顕には含まない)時空で定式化されるという考え方はホログラフィー(2次元の光をホログラムに入射すると3次元の立体画像が見える)原理と呼ばれます。このようにして定式化された次元を下げた理論はホログラフィック理論と呼ばれますが、それは真の自由度と見かけ上の自由度との間に矛盾がないので、重力を含まないのです。そのことを(その矛盾のない次元より)高い次元で(ある力によって)動いている時空でみると、その動きに関連した力が重力として単に表れているだけなのです。ホログラフィック理論は(見かけの時空よりも低い次元である)基本レベルで重力を含んでいないという事実はその低次元の基本時空は通常の量子系として扱えて、量子重力が厳密に定義できるということを意味します。このことは結構常識はずれの結論に見えて、そんなことは信じられないというのも当然と言えます。

 <参考文献:ホログラフィック原理>

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E5%8E%9F%E7%90%86

高柳先生の講義

http://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/~tadashi.takayanagi/OsakaOpening.pdf

However, it has been shown - though only in some special cases - that quantum gravity indeed satisfi­es the holographic principle! This discovery was made by studying structures of string theory. In 1997, Juan Maldacena proposed, based on numerous evidences, that quantum gravity describing physics in spacetimes that asymptotically approach a certain space called Anti-de Sitter (AdS) space is equivalent to conformal fi­eld theory (CFT) formulated in non-gravitational spacetime that has dimensions one less than the gravitational asymptotically AdS space. This relationship is called the AdS/CFT correspondence.

 しかし、いくつかの特別な場合だけとは言っても、量子重力理論はホログラフィック原理を満たしていることが示されました。この発見は超弦理論の構造を研究することでなされました。1997年にファン マルダセナは数多くの事実に基づいて、反ド・ジッター空間(極率が負の空間)と呼ばれるある空間に漸近していく空間での物理を記述する量子重力物理学は、重力のある反ド・ジッター空間より一つ次元が少ない重力のない空間で定式化された共形場理論(CFT)と等価であると提案しました。この関係はAdS/CFT関係と呼ばれています。

 The AdS/CFT correspondence is an extremely powerful mechanism despite the fact that it applies only to special spacetimes. First, CFT is a class of quantum fi­eld theory and is mathematically well de­fined. This implies that quantum gravity in spacetimes that are not so distant from the one we live in (asymptotically AdS space) is de­fined for the ­first time without relying on perturbation theory. Also, many theories describing the nature (e.g., QCD describing nuclear force and theories used in condensed matter physics) are well approximated by CFT at strong coupling. In general, it is extremely diffi­cult to solve such a theory with strong coupling, but by the AdS/CFT correspondence we can solve it approximately using general relativity in one higher dimensions. And above all, this correspondence gives a concrete example of the holographic principle, showing how dynamical spacetime with gravity is generated from non-gravitational theory in lower dimensions.

 AdS/CFT対応は特別な時空(負の極率を持つ空間)に対してしか適用できないとは言っても極めて強力な(数値計算上の)方法です。最初にCFTは場の量子論の一種で数学的によく定義されたものです。このことは我々の住んでいる時空(極率が負であるAdS時空に漸近、即ち極限で一致する時空です)とそんなに大きく隔たっていない時空での量子重力物理学(3次元空間+時間の時空での重力を含めた量子力学)が(CFT:すなわち重力を含まない2次元の場の量子論)で正確に計算できるので、(近似解を級数展開で求める)摂動論に頼らないで初めて(正確な計算式で)定義できることを示唆しています。また、自然を記述する多くの理論(すなわち核力を記述するQCD: Quantum Chromodynamics: 量子色力学クオークの物理:や凝縮系物質の物理学で使われる理論:超流動超電導など)は強い相互作用を持つ時のCFTでうまく近似できるのです。概して強い相互作用を持つ(物性)物理のモデルの(CFTの)理論式を数式で解くのは極めて難しいのですが、AdS/CFT対応関係を使って、一つ次元を増やした(AdS)空間で一般相対論を使って近似的に解くことができるのです。そして、結局のところ、このAdS/CFT対応関係はホログラフィック原理の具体例になっていて、重力を持ち、その重力によって動いている時空が、重力を持たず、次元数が一つ少ない時空の理論からどのように生成されるのかを示しています。