新型コロナワクチンの第一回目を大田区の集団接種会場で受けて思ったこと

6月22日に接種券が届いた。

説明書には60-64歳は7月7日から予約ができると書いてある。自宅近くの医院でゆっくり打つつもりだったけれど、その翌日に、FBの情報で、蒲田駅前の専門学校の会場(紙の会場リストには載っていないので、新設会場だろう)ならファイザーのワクチンを即日予約できることを知った。実際にHPから入ってみると、予約枠はどこもガラガラに空いていて、何のストレスもなく簡単に2回分の接種の予約が取れた。

第1回接種は、6月28日14時30分の枠を取った。

30分単位で枠どりしているので、運営上、予約時間の30分前より早くいくのは適切でない。入場は2時30分少し前でいいだろうと思いつつも、2時7分に到着してしまった。

入り口を入ると、2時30分枠で、もう約30人が先着している。

「へー、思ったより出足が早いなあ」と思いつつ、待っているだけではつまらないので、会場のオペレーションの基本設計を推定してみる。

その推定結果は

①30分で50人の接種をする。

②30分枠で60席の待合席を、2か所用意している。(余剰席は、たまに見かける付き添いの人の席と、バッファ分だな)

③2時7分の時点では、奥の60席が2時の枠で、進行中。手前の60席が2時半の待機枠。

④着席時に渡されるバインダーに、予約券と、記入済の予診票、身分証明書を挟んでおく。

⑤2時15分頃から、到着順に検温と書類チェックが始まる。担当者4人で行われる。

⑥2時20分頃から、3時枠のお客様がぽつぽつやって来る。外で待てともいえず、バッファ分の席に案内して何とか凌いだり、一部を2時の枠の席に案内している(この辺の対応が顧客満足に関係する)。

⑦2時20分から接種会場へ到着順での案内開始。私の案内は2時28分だった。

⑧書類確認後(バーコードチェック)問診ブースに案内され、問診。ブースの数は7つだったかなあ。

➈接種ブース(これも7つだったかなあ)に案内され、2時38分に接種完了。痛くはないが、結構奥まで針が入るなあ、という印象だった。

⓾医師が接種したワクチンの型名と有効期限、ロットを示すシールを予防接種済証(臨時)に貼付し、日付を記入する。そして予診票にサインをする。それとは別に、チェックポイントでバーコードチェックをする。

⑪7人の医師が30分で50人に接種するためには、一人の医師が30分で7-8人、つまり約4分に1回接種するのが基本になる。接種担当医師の時給は1万5千円とか言われているが、そうなら1回1000円というところかな。まあ、妥当なんだろう。医師は接種だけを行なえるように、問診ブースを別に仕立ててパイプライン化している。問診は時給の安い保健師が担当するならばそれも妥当なことだ。

⑩チェックポイントで14:55と手書きされたタグを予診票に貼付される。待機室に案内され、15分の接種後待機を指示される。向い側のブースには何かの事情で30分待機を指示された人々が少数いる。4人程度の担当者がタグに書かれた時間を見ながら、最終チェック所へ時間順に案内する。

私が案内を受けたのは15:05分。予定より10分遅れ。

⑪最終チェックブースで、チェックを受け、バーコード管理、予防接種済証(臨時)に接種会場の判を押してもらって、次回用の問診票を受け取る。これでおしまい。

⑫全体としてのボトルネック工程は2人で行っている最終チェックブースかな。そのために15分の接種後待機所が遅延で溢れそうな感じがあったが、最終チェックブースの前に待合席を3つ設けてバッファリングしていた。これは最終ブースを3人に増やすより適切。接種後待機時間が多少伸びてもたいして問題ではないので。

接種工程に入ってから、立って待つこともなく、40分で完了するなら、まあ、妥当なオペレーションだなあとの印象だ。

さて、私の体調。

接種直後は、気分は悪くはないが、ちょっと眠いかなあ。あまりシビアなことはやりたくないなあ。今日はぼんやり自宅でネトフリ族になるか、という感じ。

接種後4時間経った時に、試しに手を上にあげてみたら、接種部にちょっと凝ったような痛みが来るのに気が付いた。

医師にも言われたので、風呂はシャワー程度にした。飲酒は何も言われなかったが、あえて飲むこともないという事で、久しぶりの休肝日にした。

翌朝起きても、おんなじ感じ。熱は平熱。腕は押せば痛いのはそのまま。手を変に動かさなければ痛くはない。だるくはないけれど、気分的にはあまり外に行きたくはなくて、家でブログでも書くか、という感じだな。

2回目接種は3週間後。オリンピック開始前に間に合う。2回目は人によっては発熱など副反応が重いという経験談も聞いているので、ちょっと用心しようかな。

追記:接種後48時間で腕の接種部の痛みは消滅した。

 

パリで出会った川瀬巴水。平塚の川瀬巴水展でやっと本物を見て、いたく心に沁みたというお話。

川瀬巴水のことを初めて知ったのは、3年前(2018年)にパリを観光旅行して、パサージュ巡りをしていた時のことだ。

とある本屋に立ちよって、ジャポニズム関係のものがいっぱいあるなあ、と棚を眺めていると、

「あれ、このKAWASEって人、あなたの親戚なの」

とパサージュを案内してくれていた人が言う。

「えっ、」と思って振り返ると、彼の示していたものは、川瀬巴水の「錦帯橋の春宵」の版画のコピーだった。

「親戚ってことはないと思うけど、パリで同姓の画家に出会うとは何かの縁ですね。思い出として買おうかな。」と言って、購入したのが川瀬巴水との出会い。

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自宅に帰ると、早速ポスター用の額縁をアマゾンで買って、版画のコピーを中に入れて、机に置いた。

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「来春に、錦帯橋の桜を見に岩国まで行こうか」などと話しながら、川瀬巴水ってどんな作品や経歴なんだろうとググってみた。すると、晩年は大田区中央に住んでいて、そこが終の棲家になったとあるではないか。大田区中央は、今住んでいるところのとなりの町で、よく散歩で通るところだ。そして、巴水が亡くなった年は私が生まれた年だ。

自宅のある地域は、昭和初期に尾崎士郎室生犀星などが住んでいたいたということで、「馬込文士村」と言われ、駅前の天祖神社の横には馬込文士たちのレリーフがある。

それをよく見ると、川瀬巴水レリーフがあるではないか(これを見ていると、なんだか祖父の顔を思い出す)。

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おお、やっぱり縁を感じるなあ、ということで俄然川瀬巴水に興味が湧いてきた。

そうこうしていると、確か新聞の書評欄で、ちょっとユニークな川瀬巴水の画集がでたことを知った。川瀬巴水の大ファンである、林望(「イギリスはおいしい」など、さんざん笑わせてもらったなあ)がそれぞれの画に絡んだ思い出話などを書き、それの英訳まで併記されている。英訳があるのは、川瀬巴水はスティーブン・ジョブズが愛蔵するなど、むしろ海外で人気があることを考えてのことかもしれない。

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迷わず買ったが、どういう訳かパラパラと見る程度で、林望のコメントも英訳もあまり読まないまま、書棚に置かれている状態になっていた。

さて、今月になって、フェイスブックか何かで、平塚市美術館で「川瀬巴水展」が開かれるのを知った。平塚市に「荒井寿一」という実業家がいて、その方の川瀬巴水コレクション一挙公開という事の様だ。平塚と言えば、昔、藤沢に住んでいたこともあるので近所の感覚があり、藤沢に合唱の練習で行くついでに平塚まで足を伸ばして見にいくことにした。ここにも若干の縁を感じるところだ。

さて、川瀬巴水展。やはり、本物を見るからこそ伝わってくるものがある。

ほぼ年代順に、作品が並んでいるのだが、(当時の朝鮮を含む)全国を行脚して(別府から奥入瀬まで)、名所だけでなく、各地のさりげない風景を写実的に版画にしている。

特に、夕暮れ時や月夜の風景など、暗がりの中でのグラデーション表現に圧倒される(本物を見ないと多分わからない)。さらに、雨や雪の降る様子や、水面に映った揺らぐ映像など、静止画なのに、静逸さの無音を含む音や、動きが感じられるところが凄い。

さらに、とても正確な遠近法が建物の存在感を際立たせている。

暗がりを濃い青系の色のグラデーションで表現するのだが、ちょっと突飛な連想だが、ピカソの青の時代を思い出したりした。

しかも、画題が昭和初期の風景で、ああ、これが母親たちが見ていた風景なんだなあ、と自分の一世代前の時代に対する憧憬のようなものが湧いてくる。(なるほど、林望が文を書いた画集の題が、Nostalgiaである意味がやっと実感できた)。

そのグラデーション表現の真骨頂の一つが、今の自宅の近くを描いた「大森海岸」だ。

川瀬巴水の描く日本情緒 雨降る大森海岸の夕景

これは私の母親が生まれた昭和5年の作。母親はこんな木造家屋で、暗い夜を過ごしていたんだと(母親は大森生まれではないけれど)しみじみしてしまう。

それにしても、家の中の少ない灯火が川面に映って揺らいでいる表現の素晴らしいことよ(この画は画集にも載っていて、林望の解説によれば、この川は蒲田近辺を流れている呑川らしい)。

錦帯橋の春宵」昭和22(1947)年 36.4x26.2 も展示されていた。自宅のコピー画では桜のピンクが強調されて見えるのだけれど、本物はまるで色調が違う。確かに春宵の画だ。桜の色は抑え気味で、宵の口の暗い青の色調表現がすばらしい。自宅のコピーでは「錦帯橋の桜」の画になってしまう。

他にも濃青のグラデーション表現の画が沢山鑑賞できた。

版画の技法は全く詳しくないが、そもそも版画でどうやったらグラデーションが表現できるのかが私にはわからない。

巴水はいわゆる絵師で、巴水の絵を版木に起こす彫師とそれを使って版画を摺る摺師がいたそうだ。

摺師によって当然色調は変わるだろうという事で、展示会では「馬入川」の色調の違う2作品が展示されていた。これは摺師の違いを味わおうと言う事なのかな(展示会の一部の作品は撮影可になっていた)。

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    東海道風景選集「馬入川」 昭和6(1931)年  24.2x36.5

馬入は、国道1号線が相模川を渡るあたりのことで、藤沢に住んでいたころによく馬入橋を車で通ったものだ。90年前の、橋もなく、富士山がくっきり見える風景にしみじみ見入ってしまう。

全体的に、夕暮れ時や月夜の風景の画が多いので、暗い青の色調のものが多いのだけれど、赤を使ったものもある。

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鶴が岡八幡宮 昭和6(1931)年 49.0x32.7

「鶴が岡八幡宮」。ここも何度も言っているところで、その写実性に圧倒されるのだけれど、赤がほぼ単色で塗られていると、何だかイラスト画のように見えてしまう。

晩年の傑作として紹介されていた「増上寺の雪」も当然赤い。赤に目が奪われるものの、積もった雪のしっとりとした質感、降っている雪(結構激しそうだ)の動きから、寒々とした感じが伝わってくる。屋根の下や、木々の奥の陰影表現に見入ってしまう。

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増上寺の雪 昭和28(1953)年 33.7x43.9

市電待ちをしている人々の部分を拡大すると、今風のイラスト画のようだ、と勝手に思う。

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増上寺の雪」 部分拡大

顔の陰影は、版画ではつけづらいのか、川瀬巴水展でも木版での人物画は歌舞伎役者(松本幸四郎)しかなかった。

一方で、ポスターや雑誌の表紙や挿絵として、歌舞伎役者(中村歌右衛門坂東三津五郎など)や落語家(柳家小さん古今亭志ん生など)の顔を描いた作品が数多く展示されていた。

 川瀬巴水展。本物を見て巴水の画の神髄を感じることができた。

ああ、最終日に行ったのが残念だったなあ。何度でも見たい。どこかでまたやってくれないかな。地元大田区にも川瀬巴水関連の展示物がいろいろありそうなので調べてみよう。

 

このブルームバーグの記事を読んで、DeFiの世界での暗号資産の取引は、イーサリウムのセカンドレイヤーで金融技術を駆使したスマートコントラクトを使って異次元的に凄いことをやっているのに驚いたというお話。

金融のプロであるFBの友人が、下記のブルームバーグの記事をFBで紹介してくれた。

www.bloombergquint.com

それを見た私は、タイトルから内容を推測して、甘いコメントをしたところ、その友人は、私が読み取れなかったこの記事の核心部分に気づかせてくれる、丁寧なコメントを返してくれた。

そこで目の覚めた私は、この記事を全部和訳をしながら、イーサリウムや金融の言葉の意味を調べつつ、内容を理解し、なんだか凄いことになっているなあと思った。そのことを書いてみたい。

暗号資産の取引は、一般には、コインべースのような販売所(日本ではビットフライヤーが大手かな、そのイメージはビットコインを円で売り買いするようなこと)で行われていると思うのが普通だろう。

ところが、最近では、DeFi (Destributed Finance)と言われる世界(Crypto World)があって、コンピュータのプログラム(正確には、イーサリウムの中に書き込まれたスマートコントラクト)が仮想通貨間の取引(例えばビットコインをイーサリウムに換えるなど。ビットコインを直接ドルのような法定通貨に換えるのはないんだと思う(未確認))を行っている。これが驚きの一つ目。

そして、そのDeFiの中では流動性のプールと言われるしくみがあって、暗号資産を、いわば、暗号資産間の取引に使える仮想コイン(トークン)に換えることができる(流動性=現金のようなもの)。

これは天才的だ。以前、「ビットコインは暗号通貨か暗号資産か」という議論があったけれど、通貨への換金性が低いと見れば資産だ。そういったビットコインのような暗号資産は有象無象を含めて山ほどあるが、その間の取引に使える仮想通貨(ビットコインはもともとこう呼ばれた)を流動性のプール(このプールという言葉が絶妙)という形で発明している。これには参った。

これがないと、ビットコインとイーサリウムを現物の物々交換で取引するような感じになってしまうので、値段や量の折り合いがつかず取引できない事態にもなり得るが、一旦それぞれを流動性トークン(仮想通貨が買える現金のようなもの)に換えてしまえばそれがない。なので一気に仮想資産の売買が(DeFiという世界の中では)やり易くなる。

さらに驚くのは、こういった仮想通貨(流動性のプールのトークン)にドルで売り買いできる値段までついている。

仮想通貨Compound(コンパウンド)とは?DeFiの始め方や仕組みを解説 | InvestNavi(インヴェストナビ)

この記事ではCOMPという仮想通貨(流動性トークン)は2020年9月で272ドルだと言っている。

これにはびっくりだ。デジタルデータの媒介パラメータに現物値段がついている。人の欲望はとどまることを知らないという事か。確かに暗号資産に現物値段があるのであればそれを媒介するデータにも値段があってもいい。

さらに、DeFiでは、自分の暗号資産を貸し出してその金利を取ったり、または自分の暗号資産を質に入れて、現金化(流動性プールのコインを手に入れる)こともできる。

これはDeFiの世界に、一般金融で使われるスワップやレポ(Repurchase)の技術が導入されていることを意味する。つまり、金融の技術と暗号資産の技術(ブロックチェーン)の両方を巧みに操つる数理のエリートがDeFiの世界を跋扈している。これは脅威だ。

でも、DeFiを誰かが管理しているとは言わない。管理者がいないのがDistributed Financeの本質だから。あるのはコードとしてのスマートコントラクト。ここで定義されたとおりに Crypto WorldのFinanceが執行されてる。

これは神の見える手だ。スマートコントラクトのコードは誰でも見ることができる。これがオープンなブロックチェーンの世界だ。

さらに、驚いたのは、こういった取引の規則を書き込んだスマートコントラクトをイーサリウムのセカンドレイヤーで行っている。

これには参った。金融の本質である共通時間の支配を逃れ、自分たちの時間軸を創り出している。これは実はトンデモないことなんじゃないかと思う。

私は、金融の本質は時間を金で買う事だと思っている。2000万円貯金出来たら家を買おうとするのであれば、家を手に入れるのは20年後かもしれない。ところが2000万円をローンで借りれば、その日にでも家を手に入れることができる。20年という時間を前に倒して、幸せを早く手に入れるのが金融の力。時間を前に倒す力の利用料として金利を払う。何と美しい話だろう。

ブロックチェーン技術の難点の一つは、ひとつのブロックに書き込めるデータの上限が決まっていること。

例えば、ビットコインの例で行くと、10分に一回、1MB分のブロックしか追加できない。1件の取引を記述するデータ量が、仮に500バイトだとすると、10分間で2000件、1分で200件の取引しか決済できない。これでは、セブイレブンが日本中の全店舗でビットコインの支払いだけを受け付けるようにしたら、ブロックに書き込めない支払いが溢れてビットコインは事実上決済の手段として使えなくなる。

これを防ぐ技術が(イーサリウムの)セカンドレイヤー技術だ。

https://bitcoin.dmm.com/column/0193

メインのブロックチェーンとは切り離されたところで特定のデータ交換の一群を処理しておいて、その結果だけをメインのブロックに書き込むようなことだ。例えば、日米間の送金が100本あったとすると、それを直接メインのブロックに100個書くのではなく、その100本を束ねて入出金を相殺した1本の結果だけをメインに書くような事かな。

DeFiの世界では、このセカンドレイヤーの技術を提供しているのはポリゴンテクノロジー社だそうだ。

これで何ができるかというと、例えば、2021年5月19日の水曜日に起きた、暗号資産(ビットコイン)の大暴落のような時に、通常の暗号資産交換所は、売りと買いの希望値段と量があわないと売買が成り立たず、売買不成立で時間が無駄に過ぎたり、売り注文の件数が爆発的に増えてシステムが追いつかなくなったり、自分が希望する時間内に希望値段で売買することができない。

これが、DeFi(スマートコントラクト)であれば、以下のような妄想が湧く。

例えば、ビットコインがひどく暴落している時でも、あらかじめビットコインがいくらになったら流動性コインに換える、としておけば、BTCの相場の急落の影響は緩和できる。そして、価格が暴落していない別の暗号資産をアルゴリズムで選んで、その暗号資産を、その流動性コインを使って、何日以内に買うとしておいてもいいだろう。この売買をセカンドレイヤーで行えれば、リアルタイムで相場がどうのこうのという事と切り離してスマートコントラクトがあらかじめ決めた規則で値決めして、納得づくの売買ができるかもしれない。

これはあくまで妄想なんだけど、セカンドレイヤーのスマートコントラクトで(いわゆる相場とは切り離れて、かつ内部の流動性プールや最新金融技術を使って)独自の時間軸で独自の値決めの仕組みで動作するスマートコントラクトが作り込めるのであれば、世界は変わるなあと思うのです。

ビットコインがドル換算値段で今いくらだ、買っておくと値が上がって儲かるかな、なんて視点で暗号資産を見るのではなくて、デジタルな世界で数字で表現されたものがどのような仕組みで安全に交換され、その結果が保存されるのかという視点と、その安全に保存されるデータが、なぜ通貨換算で価値をもつ(ビットコインにドルの値段が付く)のかを冷静に弁別してみること。そして、DeFiの世界に最新の金融技術が持ち込まれ、デジタルな資産の流動化と交換に関して異次元の進化が起きているかもしれないことには注目していく必要があるだろう。

複雑系の研究で有名な、サンタフェ研のジョフリー・ウェストの著作、「SCALE:生命、都市、経済をめぐる普遍的法則」を読んで思ったこと。

この本の主題は、ずばり、複雑系と言われる、生命、都市(社会経済活動)、企業の成長と死を説明する共通のモデル(スケーリング則)があるのかどうかという事にある。

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その結論は、生命と企業は線形以下のスケーリング則に則るので、同一種の中では大きくなれる限界があって(人が3メートルの身長になることはない)、成長はいずれ止まり、最後に死を迎える。その理由は、成長に必要な代謝の仕組みが、大きくなった全身にエネルギーを供給しきれるか、とか、3次元の体積で決まる体重を支える、足の2次元の断面積(筋力)の大きさとの関係などが、バランスするポイントで成長が止まるから。

一方、都市の成長モデルは生命とは違う。下水道や道路などのインフラ網のフラクタルな構成は生命体の代謝を維持する血管網とよく似ているけれど、そういった都市のインフラ機能の他に、人と人のつながりが都市機能に活力を与え、社会経済活動加速していく面がある。その社会ネットワークの構成は血管網とは異なり、都市の規模の1.15乗の超線形で増えていく。その超線形性の規模の拡大があるがゆえに、都市は人を集め、それを維持するインフラが破綻しない形で成長していけるので、死を迎える必然性がない。なので都市化は進み、都市は(外敵の侵略以外では)自律的に死を迎えることなく成長していく、という事。

スケール則と言うと、核分裂のように、

dy/dt = ay という、増加率はその量に比例するという、基本的な微分方程式を思い浮かべ、その解は y=exp(ax)(エクスポネンシャル)で、a>0であれば、yは短調増加関数でいずれ発散することを思い浮かべる。

しかし、この本で議論するスケール関数はそれではなく、xのべき乗(アロメトリック)関数で表される、y=xのn乗と言う式。

この式は統計データの相関関係の分析から示されたものを、後付けて理屈をつけて説明される(が、この理屈は、フラクタル性の不思議が絡んでとても難解)。

この式で、nが1の時は線形関係になる。n>1の時(超線形と定義)は、下に凸の短調増加関数でいずれ発散する。しかし、n<1の時は上に凸の単調増加関数だけれど、xが大きくなるにつれてだんだん増加率が落ちてくる(dy/dx=nx(n-1乗))。なので、現実的なxの範囲では発散しないといえる。

また、都市の成長のように、n>1の場合で、xが単調増加するといっても、それはシンギュラリティのように発散してしまう前に、相転移するという。なので、そう簡単には現実的なxの範囲では、発散しないと言う。

つまり、氷を熱していくと無限に温度が上がっていくのではなく、0℃のところで潜熱を使って水に転移し、比熱も大きくなって(2.1→4.2)氷よりもゆっくり温度上昇する。そして100℃で同じように潜熱を使って水蒸気に相転移する。

それと同じようなことが起こると言う。そしてその相転移イノベーションが引き起こすとしている。

なので、この本の議論の中心は、生命や、企業、都市のスケール則をxのn乗でモデル化できたときに、そのnが1より大きいのか、あるいは小さいのか、という事に集約される。

xは生命体の場合は、体重、身長、年齢、などで、企業の場合は、売上、従業員数など、都市の場合は面積や人口など。つまりそれらを構成する基本要素が増える時にその生命活動(代謝)を支えるインフラがそれに追従して大きくなれて、生命を維持できるのかどうかが議論のポイントになる。

では、まず生命体を見てみよう。

 生物は体重が2倍になっても、それを維持するのに必要なエネルギーは2倍でなく、75%増で済む(代謝効率が良くなる)。これはつまり、規模が大きいほど生命維持の効率が上がることを意味している(クジラは長命、ネズミは短命。)。

これは代謝(率)は体重に対して、n=0.75(4分の3)の線形未満のスケーリング則に従うと言う。

y(代謝量)=x(体重=細胞の量)の3/4乗に比例する

このサイズ増大による省力化は規模の経済(スケールメリット)と言われる。

象はネズミの1万倍重いが、その生命の維持に必要なエネルギー総量はネズミの1000倍でいい、という事。(クライバーの法則)

哺乳類の大きさが2倍になると、心拍数が25%減る(結果として長寿)なのも同じ。

生理学的な量のスケーリング指数は1/4の整数倍になる。

人間はATPをADPに分解する過程でエネルギーを得ている。しかし、ATPの体内総量は250グラムほど。なので、毎日2x10(の26乗)個ものATP分子、即ち80キログラムのATPを(畜電池みたいに)リサイクルして使っている(自分の体重と同じぐらいの量に相当する)。

 このATPを循環的に供給し続けるには、酸素が必要で、その酸素を全身に行きわたらせる役割を果たすのが毛細血管網である。

大動脈から毛細血管まで、いわゆるインピータンスマッチングした形で(反射のロスなく)血流を枝分かれさせていくには、後続の管の半径は2の平方根を係数にして自己相似型でスケールする必要がある(すなわちフラクタル構造)。

 スケーリング指数が1/4の整数倍になることの説明は複雑。4はマジックナンバーで、それは資源輸送を受けている体積が3次元という事に、フラクタル次元の1が加わって3+1=4になるのだと言う。

これは、肺胞の表面(葉っぱの表面でも同じ)がしわくちゃであると、肺胞の取り込む酸素の量が、肺胞の表面積(2次元)というより、肺胞の体積(2+1=3次元)に実質的に比例することから(次元が一つ上がることが)類推できる。

生命を支えているネットワーク(血管網や、樹木の枝や根のはり方)はほぼすべて自己相似フラクタルに近い。これは最適化や空間充填といった幾何学や物理原則の帰結であると言える。

コメント:大学生の時に、これはエントロピーの最大化原理の発露であるとして習ったけどなあ。いまはそれをフラクタルで説明するんだ。

生命の自然選択はエネルギー損失最小化と代謝能力最大化を引き起こした。

肺胞の例で言えば、空間充填の最適化のために、(肺胞がしわくちゃになること、即ち自己相似フラクタル構造をとることで)酸素の取り込み量が表面積比例でなく、体積比例に漸近するという事が、追加次元を生じさせ、生物があたかも4次元で作用しているかのように見せている。これがマジックナンバー4の起源であり、1/4乗則の幾何学的起源でもある。

生物は3次元空間を占めているが、その内部の生理機能と組織は4次元のように働く。

生物の成長はなぜ止まるのか。

① 細胞の数(体重)が倍になっても、代謝(エネルギー供給量)は4分の3乗でしか増えない。なので、体重とそれを維持するエネルギー供給のバランスポイントが生じる。

② 代謝を支える酸素を供給する血管の数は4分の3乗でスケールするので、細胞が増えると、個々の毛細血管が奉仕しなくてはならない細胞の数は4分の1乗で増えて行って、(最後はもう賄えない数になってしまう)あるところで限界を迎える。

なので、すべての生物の成長曲線(生存日数と体重の関係)は個々の生物のパラメータを勘案して正規化すると1本の曲線に重なる。

纏めると、エネルギー供給、即ち代謝を支える酸素を供給する血管網ネットワークが、自己相似フラクタル構造で最適化されていて、そのネットワーク能力が細胞数の増大に対して、3/4という線形未満のスケーリングをすることに起因して、細胞の増殖に、そのエネルギーの供給が追い付かなくなって、成長が減速し、いずれ事実上の停止に近づくことが生命の成長と停止の根本原理である。

ATPの活性化エネルギーは0.65eVで、10℃の温度上昇で生産速度が倍になる。このことは、2℃の気温変化で成長率と死亡率に20-30%の変化をもたらす。これは生態系の大混乱をもたらすので、気候変動を防ぐ必要性の根拠となる。

人間の死は圧倒的に器官(心臓発作、脳卒中)や分子(がん)の損傷と関連して、感染症は比較的少ない。それらがないとしても人は125歳以上生きた例がない。

哺乳類の生涯心拍数(心拍数x寿命)は約15億回で共通。大きな動物はゆっくりした脈拍で長く生き、小さな動物は速い脈拍で短くいき急ぐ。

ただし、人間は25億回。これは、ここ100年の特例。我々人類は、社会共同体の出現と都市化によって、自然の調和から外れ、何か別物に進化したと言える。

哺乳類が1グラムの組織維持に使うエネルギーは生涯で約300キロカロリーで不変。これはATP分子の代謝回転数が1000兆回という不変性からきている。

寿命延長策は総合的に考える必要があるが、摂取カロリーを10%減らせば、寿命が10%伸びる、ぐらいの考え方は有効だろう(はら八分目、医者いらず)。

 

都市の場合

都市が大きくなるにつれて、ガソリンスタンドの数、道路、電線の長さなどの(生命維持のための、血管網のような)社会インフラ量はn=0.85でスケールする(n<1なので大都市ほどインフラ効率は上がる)。

一方で、賃金、資産、特許、犯罪、エイズ患者、歩行速度、教育施設の数などの、生理学とは無関係な、人間の社会経済活動によるものはn=1.15 で超線形(n>1)のスケールが起きる。

超線形のスケールは有限時間シンギュラリティという発散する破綻をまねくように思えるが、技術革新という、(潜熱を伴う)相転移を起こさせ、それを回避していくことになる。

 シャーレという閉鎖系環境下でのバクテリアの増殖は、指数関数的ではあるが、時間とともに有毒な老廃物が産出されて、それによる細胞の死と、多数のバクテリアを養う栄養源が有限であるという制約が効いてきて、増殖はとまり、やがて死滅する。これを資源が限られた地球上の人類の姿になぞらえるのは自由である。

私のコメント

dy/dt = a y -by3乗 と考えればいい。

yが小さい時は、yの3乗の項は小さくて無視できるので、yはゲインaで指数関数的に増えていく。

ところが、yが大きくなると、yの3乗の抑制項が顕著化する。

その結果、dy/dt は小さくなってきて、a y -by3乗=0のところで、増大が止まる。

その時のyの値は√(a/b)になる。

つまり、指数関数とは言っても、現実には、無限大のシンギュラリティに到達するわけではない。

人類は世界全体で年間150兆キロワット・時のエネルギーを使っている。

生物としての人間は100ワットの電球一個分:一日2000キロカロリー(100ワット/秒x24時間=8640KW,  1W=4.2J)で生きていける。

ところが今では3,000ワット相当のエネルギーを社会生活を維持するために消費している。アメリカではこれが11,000ワット(110倍)にまでなっている。

太陽から地球に供給されるエネルギーは年間100万兆キロワット・時。これに対して、我々が使う、年間150兆キロワット・時のエネルギーは0.015%でしかない。この意味ではエネルギー問題は原理的には存在しない(利用面の問題はある)。

 都市をその物理インフラ(道路網、水道、電気網)だけで考えてはいけない。情報の流通を考え、そこに住む住民が本質であることを理解する(都市機能だけを考えて作った人工都市ーブラジリアやキャンベラなどーはうまく機能せず、人が集まらないのがその証左となる)

コメント:今はやりのスマートシティもそうだろう。こんな街を作りました、皆さん住んでくださいではうまくいかない。

都市の本質は大都会の与えてくれる類まれなる多様性がもたらす好機が優位性となって人々の相互作用を促してアイデアと富を創出し、イノベーションと企業家精神と文化活動を促進するところにある。

都市とはそこに住む人の相互作用による適応社会のネットワークである。

都市では、ガソリンスタンドの数や、送電線、道路、ガス管の全長などが、都市のサイズ(面積)に対して0.85のべき乗でスケールする。すなわち、規模が倍になっても85%増で済むので、都市では効率よい規模の経済が成立している(生命体は 3/4=0.75でスケールするので、生命体の方が都市よりも効率はいいが、同じ線形未満のスケーリング則に従うことが統計的には言える)。

この意味では、大都会ほど一人当たりの排出物(炭酸ガス)や公害が少ないという直観に反する結論が得られる。

一方で、都市のGDP、平均賃金、雇用総数、特許産出数、犯罪総数、インフルエンザ総数、レストラン件数、集会ホール数など、生物にはない社会経済的な量(都市の本質)は、都市の規模に対して1.15のべき乗でスケールする。

これは都市における収穫逓増を表している。

つまり、都市は大きければ大きいほどそれだけ革新的な社会資本が生み出せる。

都市の生命インフラのスケール指数は0.85で、生物のそれが0.75であるのと比べると、効率が劣る。その理由は、都市は最適化の年月を生物ほど長くかけていないことと、均一な空間充填ではなく、最低限必要な量以上に、過剰に資源を取り込んでいる貪欲なメンバー(住民)が存在していることが理由であると推測できる。

人間は6次の隔たり以内で皆つながる。これは身近な内から、5人―15人ー50人ー150人ー500人―1500人とほぼ3倍でスケールするフラクタルパターンになっている。

150人というのが、おおよそ顔と名前が一致するメンバーの数で、これが狩猟採集集団などの、機能的ユニットのサイズ感になる(企業でもそうかな:コメント)。これは人間の脳の処理能力(大脳新皮質の体積)と関係がある。

都市は人々の相互交流の表現で、これは人間の神経ネットワーク、即ち脳の構造と組織にコード化されている。

人口サイズと都市ランキングにジップの法則がある。それは、都市人口は都市順位に反比例するということ。(2010年の、人口最大のニューヨークは840万人、第二位のLAは392万人で約2分の1、3位のシカゴは272万人で約3分の1)になる。

都市は物理インフラと、すべての人々の相互作用で生まれる社会経済活動で構成され、どちらも、ある特性を最適化する進化として生まれる、フラクタル構造である。

人々の相互作用は人々のリンク数(人口をnとすると、n(n-1)/2)に比例する。nが大きければ、ほほnの2乗に比例する。ところが現実的に人がリンクできる人数は限られてくる。そこで実際は150人程度のクラスターの中に限られるような事になり、結果としてnの1.15乗に比例すると考えられる。

都市の物理インフラとエネルギー使用量が0.85乗でスケールすることで得られる0.15のボーナスが、人々の相互作用に比例する社会経済活動に加算されて、社会経済活動は1.15乗でスケールすると言える。

つまり、インフラとエネルギー使用の線形未満のスケール特性(0.85)は、社会活動の超線形スケール特性(1.15)と正確に反比例している。

その結果、都市は大きくなればなるほど、個人の稼ぎが増えるので人を引きつける。その一方で、その都市を維持するための一人当たりのインフラとエネルギーは減る。これが都市が不滅で発展を続ける理由である。

都市の道路網などのインフラは、生命体の毛細血管網と同じ線形未満スケーリングになる。

その一方で、富の創造に関わる社会経済ネットワーク(社会相互作用と情報交換の流れ)の強さは端末ユニット間(すなわち個人間:家族などのクラスター内)で最大で、階層が上がっていくにつれて系統的に弱まる(毛細血管という端末から大動脈に上がっていくと血流が大きくなるのとは逆)ので、超線形スケーリングになって収穫逓増をもたらし、都市は大きくなるほどライフ・ペースが加速する(生物は巨大化するほど脈拍数が下がってゆっくり長生きするのとは逆)。

その結果都市では実質的に時間が速く進行する。

都市の大きさは、1時間の移動距離で決まる。古代ローマは歩行都市なので、直径5キロ(今のヴェネチアもそう)、自動車移動なら40キロになる。

コメント:足立区綾瀬から大田区蒲田まで車(高速利用)で約30キロ、40分

     杉並区荻窪から江戸川区小岩まで車(高速利用)で約40キロ、1時間

生物を支配する線形未満のスケーリングと規模の経済は、安定した有限の成長とライフ・ベースの減速をもたらすが、社会経済活動を支配する超線形スケーリングと規模の経済の増大は、無限の成長とライフ・ペースの加速をもたらす。

 

企業の場合

企業の規模(売上額と資産額)は0.9でスケールする。

 企業は都市よりも生命体に似ていて、収穫逓増とイノベーションではなく、ある種の規模の経済(大きくなりすぎると、全体にエネルギーが供給できなくなる)に支配されている。

企業の売上が代謝で、費用はその維持費。

企業が成長しても、その成長率が市場の成長率以下であると企業は生存できない。これが生命体と企業の違い。これが適者生存の市場経済の本質。

成熟した大企業の成長は止まっている。これは生命体に似ている。

企業の死とは倒産だけでなく、M&Aされて自社としての売上計上が消えることを意味する。

1950ー2009年の間で、アメリカの上場企業28,853社の内、22,469社(78%)が死んだが、そのうちの45%がM&Aによる死であった。倒産・清算はわずか9%。

企業の(時間に対する)生存率曲線は企業規模、業種による差はあまりない。バクテリアコロニーのような生命の共同体システムに似ている。

つまり、企業が死ぬリスクはその年齢やサイズとは無関係だ。

上場企業の半減期は10.5年に近い。

企業の死因のひとつは、企業サイズが大きくなるほど、費用における、研究開発費の割合が減って、イノベーションの支援が、官僚的な管理費の増大に追いついていないことがある。

企業は、ほとんど、売り上げと費用のバランスポイントで生きている。加齢による復元力の低下がおきていると、ちょっとした危機でも大惨事になって死滅する。

コメント:

企業内の人のネットワーク(組織)がトップダウン型だと、それは毛細血管網に似ていて、線形以下のスケーリングとなり、どこかで成長が止まる。

都会の中の人のネットワーク(末端に行くほど結合が強い)に似た、超線形でスケールする組織にするには、機動的な小規模クラスター集団をトップに直結させるような、ボトムアップ型がいいんだろうな、と読んでいて思った。

 

持続可能性の議論

べき乗指数が1より大きいと、下に凸の成長になって、有限時間内で発散(シンギュラリティ)に至る。これを防ぐには、パラダイムシフト(相転移)を起こすイノベーションを起こして、パラメータをリセットする必要がある。

そして、そのイノベーションを起こす間隔をどんどん短くしていかなくてはならない。

 

あとがき

今やネットワークに繋がったデバイス数は世界人口の2倍以上で、そのデバイスの一人当たりの画面の面積は30センチ四方より大きい。

 

以上

ビジネスと人生の「見え方」が一変する、生命科学的思考、迷いなく生きるための生命講義 を読んでみた。

ビジネスと人生の「見え方」が一変する、生命科学的思考、迷いなく生きるための生命講義 を読んでみた。

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著者の高橋祥子氏は、京大を卒業してから、東大の院で生命科学を専攻し、博士課程在籍中に、個人向けにゲノム解析サービスを提供するベンチャーを起業した方。

やたら長いタイトルのなかの、「生命科学的思考」という言葉に惹かれ、そういうものがあるのであれば、知りたいと思って、中身も見ずにアマゾンでポチって読んだ。

読後感としては、「なるほど、生命科学とはそういうモノの見方をするのか」という気づきはいくつかはあるものの、主な内容は、氏が個人生活や企業経営において困難にぶち当たった時に、氏が言うところの、生命科学的な視点から自分の判断や行動を決めていったことの経験を語っているもので、主に20代、30代の若者に向けて、アドバイス的なコメントを綴ったものと思えた。

その意味では、迷いながらも自らの道を切り拓こうとしている人々には一定の価値を提供していると言える。いかにもNewsPicksらしい本ではある。

本書で印象に残った文言を振り返りつつ、いくつかコメントしてみたい。

まず、氏のいうところの生命科学的な思考とはなんなのか。

何度も出てくる言葉は、

「生命原則を客観的に理解した上で主観を活かす思考法」を身につけるということ。

そして覚悟から生まれる情熱をもって個人の幸せを追求するともに、種全体の繁栄をも考えた行動(地球環境保護など)をとるという事。

ここで言う生命原則とは、「個体として生き残り、種が繁栄するために行動する」事。

また、遺伝子に抗って思考し、行動し続けるという非効率的な行為こそが人類にとっての唯一の希望であると述べている。(ドーキンスの「利己的な遺伝子」の主張と同じ)

死があるのは、世代として新陳代謝することで種の繁栄につなげる意味があるともいえる。

我々が感情を持っているのは、その方が生命の生存戦略上有利だからだと考えられている。感情があることで、個でなく、集団で過ごすようになって、そっちの方が種の生存の面で有利になるから。

RBFOX1という遺伝子が、怒りや攻撃的行動に関係するという仮説がある(感情は遺伝子に起因するという仮説)。

視野というのはモノを見る範囲と、その時間軸の長さの事。それを主体的に設定できる能力を身につけると自由になれる。

生命原則では、個として生き残る(狭く短い)視野と、種が繁栄する(広くて長い)視野の両方がある。これらの間をうまく調整することが大切。年齢を重ねるにつれて後者の視野を持つことが増えてくる。小さい視野だけでは思考停止になって生きづらくなる。

生命には複数の時間軸が組み込まれている。

DNAは2重螺旋で固定され、不変であるが(長期時間)、RNA(の量など)は時によって変わる(短期時間)。これはRNAが環境変化に適応する手段であるから(RNAは一本鎖で不安定だから変われる)。

がんはDNAのコピーミスだけれど、それがあることで進化の可能性が担保されている面もある。

生命はまだ見ぬ未来への進化のためのセレンディピティ(想定外の発見)を求めて、DNAのコピーミスという不安定性を、個体が死ぬかもしれないリスクをとりながらも、種の保存のために命をかかて担保しているともいえる。

情熱は未来差分を意識し、それ向かって行動する初速から生まれる。

覚悟を決めると生きやすくなる。それは目指すものを決めると葛藤しなくなるから。

何かが変化する時に私たちは時間を感じる。

快楽と幸福は違う。その大きな違いはそれらがもつ時間軸にある。

快楽は気持ちよく楽しいことで、身体的・本能的な満足感のことで、ドーパミンの放出のような一時的な生体反応の事。

幸福は過去から現在、未来に至る長い時間の中で形成されるもの。

快楽は個人の生命活動の変化で、幸福は個人の行動の変化で感じるもの。

幸福は理性によって人間の潜在能力を開花させることで実現できる(アリストテレス)。

 企業経営を生命科学的視点でみると、

フレデリック・ラル―氏のティール組織(著作「Reinventing Organization」)のように、組織をひとつの生命体のようにとらえる。

企業理念や企業文化という(あまり変わらない)同質性(種が同じという事だな)を前提としてその上に多様性を作る。

単に差異を重視してバラバラなものを集めても意味がない。

コメント:種が同じとは、その間で子孫が作れるという事である、と何かの本で読んだことがある。確かに、相互的に何かを生み出すことのない違ったものを集めても、なにも生まれないよなあ。

多様性の尊重と、同質性のない相対主義を混同してはならない(マルクス・ガブリエル)

ただ単に異なるものが存在する状態を肯定も否定もしない相対主義は、思考停止の産物であり、意志ある同質性を前提とした多様性とは似て非なるもの。

短期的視点で(営業)利益を上げることと、変化するための中長期的視点での(研究開発)行動という複数の時間軸をもって企業を経営する(個人の生活でもそうだな)。中長期の視点では失敗を許容することで変化の多様性が生まれる。

種全体は、その多様性の中から、環境変化に適合するものが生き残る形で、種として生き延びていく。企業も生き延びるためにはそれと同じ多様性を中にもつ必要がある。

生命=動的平衡、でもある。

同じ事象を見ているのに、自分と他人が違う行動をとるのは、それぞれが見ている時間軸がずれているから。共同作業はメンバーの視点の時間軸を合わせる(今日はこれをやろう、ではなく、1か月後にこれを成しているためには、今日はこれを優先してやるべきだという視点を合わせる)とうまくいく。

企業には複数の時間が流れている。DXがうまくいかないのはこれが原因。技術の導入にかかる時間と、組織体制を変えるのに必要な時間は異なる。

客観的な情報を集めれば未来が見えると思うのは間違い。未来を見通せないからこそ(生物のように)多様性を維持するのだと考えるべき。

最後は主観的な判断で突き進む。吉田松陰の「諸君、狂いたまえ」がこれに当たる。

学術研究は論理の積み重ねで行い、主観を廃する。一方、事業は多くの人を巻き込む必要があり、ストーリー、即ち、私はこうしたいと言う経営者の主観的な意志(起業におけるミッション)が求められる。

利己的な遺伝子」という名著を書いた、リチャード・ドーキンスは「私たちには、これらの創造主(遺伝子)に歯向かう力がある。この地上で、唯一私たちだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのだ」と刺激的な名言を述べている。

そのためには、意識して思考し、行動することが必要不可欠である。

何もしなければ、エントロピー増大則により、あらゆるものは秩序を失う方向に進む。

量子物理学者であるシュレーディンガーは、その著書「生命とは何か」で、「生命は生きるために負のエントロピーを環境から絶えず摂取している」と言っている。

サルトルは「実存が本質に先立つ。どんなことも自分の行動によって意味が変わる。主体に基づけば我々は常に自由である。」と主観によって行動し、意味を見出すと言う、実存主義を語っている。

その後、2度の戦争や、社会の混乱に対し、個人の主観だけではどうしようもない、社会の構造を変えようという、構造主義が起こったが、客観的に構造を捉える構造主義だけでもうまくいかない。

「生命原則を客観的に理解した上で、主観(=意志)に基づいて思考し、行動する」というドーキンス的な生き方が必要。

最後にまとめると、「ああ、ドーキンスを読もう」になるのかな。

ゲイシャ種に関するコーヒーロースター店主との会話がためになった件。

行きつけのコーヒーロースタ―店「ナチュラル」に行ったら、エチオピア産のゲイシャ種の豆があった。

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いつも買うモカ・イルガチァフィとコスタリカと一緒に購入して、

「先日、サザコーヒーのカウンターでコロンビア産のゲイシャ種を飲んだけど、すっきり系の甘さと長く続くいい酸味が結構気に入ったよ。このエチオピア産のゲイシャ種もおなじような感じかな。この店で年末だけ売っている、パナマ産のゲイシャは200g で3000円越えで、ちょっと手が出なかったけど、今年は買うからね。」

というと、意外な答えが返ってきた。

「あのー、今年はパナマ産のゲイシャは仕入れられないと思います。」

「えー、何で。」

パナマ産のゲイシャは、まず1級の畑で取れたものが、オークション販売になって、トンデモない値段になるんです。今までは、2級畑のものはオークションにならず、商社に流れてきたので、それを店が仕入れることができたのです。しかし、今年は2級畑のものも農園側がオークションにかけると言っているので、商社に流れてこないんです。商社も怒っていますよ。」

「へー、同じ品種でも畑の区画が違うだけで、味や、格が変わるって、ワインみたいだねえ。ロマネコンティの隣の畑でピノ・ノワールを作っても同格のワインにならないのとおなじだね(笑)。」

「土地(土壌、気候、育て方)だけじゃありません。豆の処理の仕方(コーヒーの実の中の豆をどのタイミングで取り出して乾燥させるか)や、焙煎(時間)、抽出(温度)によっても味は変わります。」

「そうだよね。地域差なら、ワインで言えば、同じシャルドネ種でもフランスのシャブリとアメリカのナパでは違ったものになるしね(笑)。」

ゲイシャ種に関しては、今はナチュラル(コーヒーの実をそのまま乾燥させてから豆を取り出す)で処理することが流行ってきていますが、私はゲイシャのあのきれいな味を引き出すにはウォッシュ(外側の皮と果肉を剥いで、豆だけを取りだして洗ってから乾燥させる)の方がいいと思っています。」

「例えば、フルーツをドライフルーツで食べるのがナチュラル、フレッシュなまま食べるのがウォッシュと考えてもらうといいですよ。豆そのものの味がするのはウォッシュです。ナチュラルにすると複雑な味になります(店主談)。」

ナチュラルって、ブドウの皮をつけたまま仕込む赤ワイン、ウォッシュはブドウの皮を剝いでから仕込む白ワインみたいだと思うとわかりやすいね。今日買ったコスタリカは(果肉を少し残して乾燥させる)イエローハニー製法だから、これはロゼみたいなもんだ(私)。」

「この店は、(ていねいな管理が必要な)ナチュラル製法の豆を高い技術で焙煎して売るのが特徴だからナチュラルって名前にしたと前に聞いているけど、パナマゲイシャだけはウォッシュを推すとはねえ。パナマゲイシャは素の豆がそれだけいいんだってことなの。」

「はい。それに、パナマゲイシャはその味を引き出すのに最適な焙煎条件の範囲が狭いので、しっかりした焙煎士のいるところで買わないと意味ないですよ。」

「それと抽出の温度も大事です。」

「なるほど。コーヒーは 豆(品種)+土地(テロワール)+処理方法(ナチュラル/ウォッシュ/ハニー)+焙煎(時間)+抽出(温度)の総合力で味を引き出すものなんだね。どういう場所で、どういうカップで、誰と飲むかももちろん大事。」

エチオピアゲイシャ、家で楽しんでみるよ。」

という事で、さっそく、パナソニックのコーヒーメーカー(豆の挽きから抽出までお任せ)で出したエチオピアゲイシャは、豆を多めにした濃い味志向でもあったので、ナチュラル製法らしいしっかりした味でした。

サザで飲んだコロンビアゲイシャはスッキリ系だったので、同じゲイシャ種でも随分違う。あれはウォッシュ製法だったのかもしれない。サザで豆のままで買って自宅で飲んだパナマ・チリキはそれ以上に超スッキリだったので、これもウオッシュなのかな。今度サザにいったら聞いてみよう。

今まであまり深く考えたことがなかった、コーヒー豆のナチュラルとウォッシュ。赤ワインと白ワインに例えてみたら、俄然興味が湧いてきた。いろいろ味わってみよう。

人はなぜ音楽に感動するのか。その理由が知りたくてこの本を読んだ。結果として「ホログラフィックな脳」という妄想にたどり着いた。

Daniel Levitin氏の「This is your Brain on Music」。2006年に米国で出版され評判になった本。その邦訳の版権がYAMAHAに移り、新版となって今年の1月に出たので読んでみた。

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著者のLevitin氏はミュージシャンから音楽プロデューサになり、その後神経科学者になった人物。原題の「This is your Brain on Music」とは、「音楽を演奏したり、聴いたりしている時にあなたの脳はどうなっているのか」というのが多分正しい訳だと思う。著者は音楽の現場を知り、脳の仕組みを科学的に調べている人のようなので、「(よい)音楽はなぜ人を魅了するのか」について納得感のある答えが得られることを期待して読み進めた。

蛇足を先に言うと、邦訳の「音楽好きな脳」というのは日本語翻訳版によくある「売らんかな」が先走りすぎた訳であると言いたい。この本のどこかに、脳が音楽が好きであることを証明する事実とその仕組みの説明が書いてあるわけではない。

氏が神経科学者として示してることは、「音楽を聴いた時と、言葉を聴いた時とでは脳内でニューロンが発火して反応する部位が違う。」「人が幸福を感じる時には、ドーパミンが放出されている。ある音楽を聴いてそれが心地よければ、それはドーパミンが出ているからだ。」という、生化学反応レベルの説明だけだ。私にはそういう説明では「それでなにか?」としか思えない。

私が知りたいのは、「協和音は気持ちよく、不協和音は落ち着かない感じなのはなぜか」とか、「長調(ドーミーソのCのコード)は明るく感じ、短調(ドーミ♭ーソのCmのコード)は暗く感じるのはなぜか」のようなことなんだけど、この手の疑問に関しては、音楽を聴いている時は、今までの経験したことの記憶と照合する行為を脳がしているからだと言うような説明があっただけで、私には「なるほど」という、膝を打つような答えは読み取れなかった。

音楽も、言葉も、雑音も、空気の振動であり、それが鼓膜を震わせて、その信号が脳に伝わる。それが原因となって脳の中いろいろな部位のニューロンを発火させるが、その発火の起こる場所が音楽は多岐にわたっているのが、(雑音や言葉でなく)音楽を聴いた時の特徴だと氏は言っている。

それは恐らく、音楽には、雑音と違って、周波数が整数比でそろっている共鳴する部分(ハーモニー)や、リズム(一定した音圧の繰り返し)、音のつながり(メロディー)や強弱があって、それらのパターンを脳が認識して反応する。そして、それらからいろいろな特徴を抽出してそれらを上位概念として統合し、それを過去の経験と照合するような、アルゴリズミックな処理を行って、その整合度に応じて、どの程度ドーパミンを放出させるかを脳が指示しているんじゃないかと、私は勝手に思っている。しかし、本書では、あくまで音楽を聴くと、脳のどの部位が反応するという、実際のモノとしての脳の中での反応の観測結果を超える記述はしていない。

私が妄想しているような、脳というハードウェアの上で行われる、ソフトウェア的なアルゴリズムの処理の様子を科学として観察、検証する手段がまだない、というのがその理由ではないかと思われる。実験と検証と旨とする科学者という態度では、当然そうなる。

例えば、高性能AIチップを電子顕微鏡で観察しても、トランジスタがメタル配線で繋がっているものが見えだけである。これは脳の神経細胞網に相当する。このチップが人工知能として機能して、囲碁の妙手を発見するの仕組みを説明するためには、そのチップの上で動作しているCNNのアルゴリズム(ソフトウェア)を説明しないといけない。しかし、アルゴリズムは顕微鏡では観察できない。チップのどの部分が動作しているかを電磁的に観察してアルゴリズムを理解しようとしても、日暮れて道遠しという感じだ(超優秀なハッカーならできるかもしれない)。

この脳内のアルゴリズムを恐らく「意識」というのだと思う。

この意識の問題はとても厄介で、脳科学だけでなく、あっという間に心理学、哲学、宗教にまで話が発散するので、ここでは深入りしない。過去の経験の蓄積によって醸成されてきた「私の美意識」が、この音楽のこの部分に感動するという状況を発現させているわけで、その音楽の同じ場所であなたも同じように反応するわけではない、という話になると、個の問題も絡んで来て、一般化を旨とする科学としては手に負えない。赤ん坊にモーツアルトを聴かせると喜んでいるように見えるのと、あなたがモーツアルトのレクイエムを歌って荘厳な感動を得ることは同じではないはずだ。

ここで、見方を変えて、脳ってひょっとしたら経験を蓄積して成長していくホログラムのようなものなんじゃないのという妄想を語ってみたい。

ホログラムというのは、物体にレーザー光を当てて、その反射波である物体光と、その物体を照射した光と光源を同じくし、半透明反射鏡(ビームスプリッタ)で分波された参照光を干渉させて、その干渉縞を記録したものである。

この干渉縞(ホログラム)に元の参照光を照射すると、物体光が3次元的に再生される(再生光)。この再生光のことをホログラフィと呼ぶ。

干渉縞とは、空間周波数で表記される逆空間であって(次元は1/距離で表記されるものが縦横に2つある2次元である。干渉縞の厚み方向の次元は意味を持たない)、干渉縞には、物体光の3次元の空間表現が2次元の逆空間に変換されて保存されている。

参照光を干渉縞に充てることで、2次元パタンである干渉縞から3次元の再生光が現れる。これは2次元の逆空間と3次元の実空間が等価で相互に変換し合えることを意味している。

これは宇宙物理学が言うところの、3次元の重力のあるAdS空間(極率が負の空間)は2次元のCFT(共役場)空間と等価であるとう、AdS/CFT Correspondenceをホログラフィック原理といっていることと根っこは同じである。

その再生光は、もともとの物体光と同じになるというのが凄いところだ。(厳密には全体的な光の強度はファクターがかかる感じで少し落ちるが、像が欠損したり歪んだりはしない)。このことを突き詰めると存在論や認識論にまで行きつく(Dinge an sichがホログラムで、再生光がErsheinung。認識しようとする観測行為が参照光)。しかし、その議論はここではしない。

ホログラムの凄いところは、「部分が全体である事」。干渉縞のどの部分にも物体光全体の情報が記録されている。具体例で説明すると、仮にホログラムの上半分を欠損させたとしても、物体光の上半分がなくなるのではなく、全体としての物体光が暗くなる(S/Nが劣化する)だけで全体は再生される。なので、ホログラムは極めて冗長度が高い。逆に言うと、大きな3次元空間の情報をとても小さな2次元干渉縞で記録・再生できるという事になる。

ここでやっと脳の話に戻るが、脳内の記憶はホログラフィックに保存されていて、音楽を聴いて、ある種の記憶が呼び覚まされて、個の美意識が働き、感動する(ドーパミンが出る)と言うのは、音楽の鼓膜からの入力が参照光となって、過去の音楽体験が再生光となって現れるのではないか、というのが私の妄想なのである。

宇宙の現れ方と、脳内の記憶や音楽の感動の発露が同じホログラフィックな現象であると思うと何だかロマンだなあ。

本書でも、著者は、「音楽は脳全体に分散している。」と言っているし、脳の一部が損傷して文章が読めなくなったのに、楽譜が読める人がいるという例が示されている。それは、脳内の記憶はホログラフィック(部分のなかに全体がある)であるとの考え方と方向性はあっているように思う。

音楽は時間とともに流れていくので、時間の関数として記述される(楽譜)。音楽全体を一瞬で味わうことはできない(これが絵画と違うところだ)。

時間の逆空間(1/時間)が周波数空間で、音の高さとして表現される。ハーモニーというのは複数の音の高さ(周波数)の間に一定の整数比の関係がある事を言う(A Majorのコード:ラード#ーミは おおよそ、440z-550Hz-660Hzである)。人間の脳はハーモニーに敏感であるという事は、脳の中では周波数空間で音が処理されているからだと言えるだろう。つまり、脳は時間の逆空間を認識している。

ピアノはすべての調性で弾けるように平均律で調律されてしまうので、完全なハモリのコードがなっているわけではない。(例えばド#は554.365Hzである)。なので、A Majorコードをピアノで弾くと、長調短調かを決める三度の音であるド#は、整数比の関係になる550Hzより4.3Hzちょっと高い。そのせいか、A Majorコードは、私には長調が少し過剰に出た、硬い和音に聞こえる。

これを半音下げてA♭ Majorのコードにすると、微妙な周波数比の関係が変わるので、私には柔らかく聞こえる。

概してピアノ曲の場合、A♭(ベートーベン悲愴第2楽章)やD♭(雨だれ)など♭系の長調の曲のハーモニーの方が私にはしっくりくる。

雨だれは最初Des-durの長調で明るく柔らかく軽やかに始まるけれど、#系短調のCis-molに転調した後は、何か嵐を予感する緊張感と重々しさが出てくる。名曲はちゃんと調性を操って深い感動を引き出しているのだと実感する。

一方、歌声やバイオリンの音程は完全にアナログで、独奏の場合、音の高さをピアノの平均律ぴったりで演奏する必要はない。その微妙な音程の取りかた(特に短調のフレーズを下がって来るところ)が実は名人芸が発揮されるところで、それを聴いて人々は涙するのです。脳が凄く共鳴しているという事なんだな。

音楽を聴いて、ある情景が浮かんだり、昔の経験が突然現れたりするのは、音楽という入力が参照光となって、過去の記憶が物体光のように再生されるからではないかと、私は妄想している。

脳の記憶は連想メモリのようなものという人もいるようだ。過去の記憶を構成する映像や音は、連想の元となる事象の経験をレファレンス(引き出しのタグ)とする干渉縞となって、次元が一つ下がった逆空間に保存されているのではないか、などと、勝手に想像している。

さて、私の妄想はこれくらいにして、本書で印象に残った記述を以下に列挙し、コメントを加えてみよう。

認知心理学者ロジャー・シェパードは、「も数百万年に渡る進化の産物だ」と言っている。

 コメント:その進化はDNAで受け継がれるのだろうか。DNAはタンパク質(ハードウェア)の設計図に過ぎない。心はソフトウェアであるとすると、その進化は外界からそれをダウンロードする仕組み(目や耳などの感覚器官)が進化したと捉えるしかないのでは。

マイルス・デビスは、自分のソロで一番大事な部分は音と音の間の空白、次の音との間に入れる空間である、と語っている

コメント:同意。音のない空間を支配してこそ音楽は力を得る。音楽は時間を支配し、(音の聴こえる)空間を構築することで時空を作り上げている。

時間を流すのにメロディが必要だというのは古典的な考え方で、メロディーをなくし、ハーモニーだけで空間を作るのが現代音楽のひとつの形だと、武満徹をライブで聴いていて感じたことがある。

それは、2本のギターで奏でる「Time within Memory」だったと思うが、記憶が曖昧だ(今思うと意味深な題だな)。記憶の中の時間をハーモニーだけで表現していたんだろうか。私は時間というより、空間を感じだけどね。

無音を聴くとしたジョン・ケージ4分33秒」までいくと、理屈が勝って、私にはついていけない。でも、これにも時間という概念は明確にある。

モーツアルトも、フレーズとフレーズの間にある呼吸感が表現できてはじめてモーツアルトになるのは、ピアノを弾いていて実感(できなくて痛感)することろだ。

・周波数は物理的なもの。ピッチは周波数に対して生物が持っている心的表象のこと。それは外界にはなく、頭の中にある心理的な表象で、脳がないと発生しない。

ニュートンは光には色がないことを指摘した。色は光が網膜に当たると一連の神経科学的な事象を引き起こし、その産物として色と呼ばれるイメージが心の中で生まれる。

デザートは舌に触れた時だけ味がする。冷蔵庫のなかでもその味があるわけではない(うーん、量子力学観測問題みたいだ)。

コメント:ピッチと色は認識の形として似ているという事か。どちらも脳内だけにしか存在しない。

周波数とピッチを別なものとして定義していることに注意したい。

・おおむね文化的な理由から、私たちは長音階を嬉しい気持ちや勝利感と結びつけ、短音階を悲しい気持ちや敗北感に結び付ける傾向がある。

コメント:うーん、これでは、短調の曲を聴くとなぜ悲しいと感じるか説明できているとは思えないなあ。そういう風に教育・訓練されたからとでも言いたいんだろうか。

スクリャービンラヴェルなどの作曲家は、作品を音の絵画だとし、音符とメロディーは形態と形状、音色は色と陰影に匹敵するものだと言った。

・音楽が絵画と違うのは時間とともに変化する動的な性質をもっていること。

・音楽を味わう核心は音色にある。

・リズムは長時間をかけて聴くものを究極の力で支配してきた。

・テンポ感の正確さの神経的な基礎は小脳にある。

・音楽の7要素は、音の大きさ、ピッチ、リズム、メロディー、ハーモニー、テンポ、拍子である。

・曲全体の音符間の相対的な関係を維持したまま、ピッチ(調)を下げたり(移調)、テンポを遅くしたりしても同じ曲に聞こえる。この不思議なことは、人間の精神を部分や要素の集合でなく、全体性や構造に重点を置いて捉えるゲシュタルト心理学でも、うまく説明できない。

認知科学者は脳をCPUチップというハードウェアにたとえ、心をCPUで実行されるプログラム、即ちソフトウェアにたとえる。だから、よく似た脳から全く異なる心が生まれる。

・人の思考と信念と経験の総計は、脳の発火(電磁気的活動)パターンで表現されているというのが有力な見方だ。

コメント:パターンというのが重要だな。メロディーやハーモニー、リズムを想起させる言葉だ。ランダムではパターンにならない。韻文には、七五調といったリズムのようなパターンが備わっているので、散文と違って、よく記憶に残り、少ない文字数で感動を与えることができるんだろうな。

・前葉頭は計画や自制心に関わり、感覚器官からの雑然とした信号から意味を汲み取る。側葉頭は聴覚と記憶を受け持ち、小脳は感情と動きの計画に関わっている。

・平均的な脳は1000億(100ギガ)個のニューロンで構成されている。ニューロンのつながりから思考や記憶が生まれる。

・曲には全体的な響き、音の色彩がある。これをサウンドスケープという。これによって初めて聴く曲でもこれはビートルズの曲と分かる。

コメント:目で見るもののランドスケープ(風景)と比較すると面白いな。

・記憶がなければ音楽はない。大作曲家が、変奏や移調という変化をつけて巧みに作った繰り返しに脳が感情的に満足するのが音楽の楽しみ。

コメント:モーツアルトの時代のように、音楽はライブしかない時には、ソナタ形式のような繰り返しは大事。しかし、今はCDやYouTubeで同じ曲を何百回も聴くことができる。なので、音楽の形式が変わってもいいように思うけれど、流行歌だってAABA'のような形式の曲が多い。好きな楽曲は何回聴いても飽きることがないのは不思議だなあ。聴けば聴くほど細かいところの理解が進んで、楽しさが増えてくる。

それに挑戦する(繰り返しのない)現代音楽は必ずしも脳を喜ばせないのだとしたら、何のためにやっているの、と思う事もある。

・音楽は期待を体系的に裏切ること(テンポ感を微妙にずらすグルーブ)や意外性を表す(突然の転調など)ことで私たちの感情に語りかけて来る。

・小脳は音楽を聴いている時は活動するが、雑音を聴いている時は活動しない。そして好きな音楽を聴いていると(感情に関与している)小脳がより活性化する。

・科学者達は感情とは何かについてさえ意見の一致を見ていない。

・冗長性と機能の分散は、神経構造にとって欠かすことのできない原則だ。

コメント:そのためにはホログラムが優れていると思うんだけどなあ。

・音楽は言語よりずっと動機付け、報酬、感情に関わる原始的な脳構造に深く入り込んでいく。

・世界レベルのエキスパート(音楽演奏家)になるは、どんな分野でも1万時間の練習が必要だ。

コメント:1日5時間x365日x5.5年。仲間に披露できる程度の趣味のレベルなら1000時間かな。1日1時間X5日x52週x4年。

・運動と脳と音楽の間にはつながりがある、という事が実証されつつある。

・音楽の聴き手のエキスパートにたいていの人は6歳までになれるが、音楽的文化の文法を精神的なスキーマに組み込み、音楽的な期待を抱けるようになっていることが、音楽に美しさを感じる経験の核心である。しかし、それをどうやって身につけていくのかを神経科学者はまだ解き明かしていない。

・協和音を好きだと感じる理由はまだわかっていない。

・音楽は社会的な結びつきや社会行動の結束を強める働きをする。

コメント:これが音楽が政治にかかわってくる理由だな。シベリウスの「フィンランディア」をNHKの「名曲アルバム」で初めて聴いた時に、日本人の私でも何だか国威高揚の思いがこみ上げて来てびっくりした。ナチスがこの曲の演奏を禁じたという「名曲アルバム」の字幕解説も印象に残っている。なぜそんな気持ちになったのか今でもわからない。シベリウスのテクニックなのか、その曲に込めたシベリウスの思いに対する脳の自然な反応なのか。

・どの曲が好きか嫌いかは、ひとりひとりの経歴、経験、理解力、認知のスキーマの違いによる。

 

いろいろ示唆に富む話ではあるが、なぜ人は音楽が好きなのかは、やはり、うまく説明できていないというのが正直な感想です。