ガロア、あの革命後の動乱とコレラにまみれた激動の1830年頃のパリで、その後の数学のありかたを変えるような天才の輝きを示しながら、わずか20歳で投獄され、決闘による死を迎えた。そんな男とその数学のことを時代背景も含めて知りたくてこの本を読んだ。同じ時期を描いた「レ・ミゼラブル」と重ねてみるとしみじみするなあ。

ガロア。その名前を始めて聞いたのは中学3年生の時だった。物理の先生が、何かの折に、「数学の才能は若いうちに発揮される。ガロアを見ろ。天才的な論文を獄中で書いて、決闘で死んだんだ。その年はわずか20歳だ。」

若くして決闘で死んだ天才というのは、思春期の中学生の興味をそそるには十分で、その名前は脳裏に深く刻まれた。だけど、「先生、ガロアの論文ってどんなことが書いてあるんですか。」とは聞けなかった。

私は理系に進んだけれど、数学科ではないので、ガロアのまわりをうろうろしていたかもしれないが、その核心を知ることなく、馬齢を重ねてしまった。

最近、革命的な数学と言われるIUT理論の紹介書を読んだ。

https://yoshihiro-kawase.hatenablog.com/entry/2020/05/20/110726

そこでガロアの話が出てきて、

ガロアは群と言う概念を初めて作り、それを用いて次数が5次以上の一般代数方程式は解けない(解の公式はない)ことを示した。」とあり、初めてガロアの業績の一端を知ることができました。

「そうか、群か。群論って、大学2年の時に「応用群論」と言う講義をうけたはずなんだけど、わかってないんだよね。群は、結晶の対称性とか、ルービックキューブの解法とか、そういう操作を扱う道具のような印象があるけど、群論が数学に革命をおこしたってどういうこと?」

 と、昔の思い出がよみがえってくる。IUTの紹介書の著者である加藤文元氏がガロアの生涯に関する本を書いていると知ったので読むことにした。

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やはり気になるのはガロアが生きていた、1811年‐1832年という時代背景である。

フランス革命は1789年のバスチーユ監獄への襲撃で始まったのだけれど、その余波がある程度落ち着いたと言えるのは、ナポレオンの治世(1804‐1814)や、王政復古、1830年の7月革命と7月王政(まさにガロアの時代)を経て、1948年のナポレオン3世の第二共和制までかかるのではないだろうか。

ガロアが生きた1811‐1832年はまさに、この共和派と王党派が戦いを繰り返す激動期の最中である。

ドラクロアの「民衆を導く自由の女神」は1830年の7月革命(3日間の栄光)を題材にしている。

この7月革命にまつわることで、当時18歳であったガロアは、科学技術の最高峰である、エコール・ポリテクニークへの入学の失敗と、彼の数学を理解し、彼の後見者になったかもしれない第一級の数学者であるコーシーの応援を失うという、大きな痛手を負っている(コーシーは熱烈なカトリックの王党派なので、共和派を恐れて亡命してしまい、査読中であったガロアの最初の論文を散佚させてしまった:本書より)。

一方で、この頃から後の投獄と決闘に繋がるガロアの共和派としてのふるまいが過激化してきている。

こういった政治的な激動期に、音楽の世界ではロマン派が花開いていたというのはどういうことなのだろう。共和革命(人民が王政を倒す)というのは、人のロマンチズムをかきたてるのだろうか。

ベートーベンの第九は1824年(古典派音楽の集大成とロマン派への架け橋)。

ベルリオーズ幻想交響曲1830年

ショパンがパリに来たのは1831年ショパンガロアは街ですれ違ったかもしれない)。

ショパンの革命のエチュード1831年ショパンはこの曲をロシアのポーランド侵攻に対する怒りをぶつけて書いた(という俗説がある)。

ヴィクトル・ユーゴ―の小説レ・ミゼラブルは、1815年から1832年を描いていて、ジャン・バルジャンはまさにガロアと同時代の人物である。

ジャン・バルジャンがマリウスを背負って逃げた1832年のパリの下水道はひどいものであったろう。パリの街並みが大改造され、衛生状態が改善されるのは1853年以降のことである。1831年にはパリでコレラが大流行し、その時ガロアは獄中にあったのである。

ミュージカル「レ・ミゼラブル」に出てくる、「民衆の歌」は1832年のパリ市民(共和派)が王党派の政府とぶつかった6月暴動の時に共和派の人々が歌ったもの。ガロアはこの年の5月30日に(自らが望んだものではない)決闘に追い込まれて死んでいる。

ガロアがこの時、マリウスとともに「民衆の歌」を歌っていたんだと思えば、なにかグッとくるのだけれど、それはできなかったということになる。

けれど、ガロアが投獄されるきっかけとなる事件を酒場で起こした時(1831年)に、アレクサンドル・デュマ(「三銃士」で有名)が同じ共和派の集いにいて、巻き込まれるのを恐れてその場を逃げ出したという本書の記述には、なにか妙にリアリティがある(デュマが回想録で書いているとのこと)。

とにかく、1830年頃のパリは凄まじいところだったんだな。

さて、彼の数学である。本書によれば、

ガロアは、超名門リセである「ルイ・ル・グラン」校(カルチェラタンにある)で、第ニ学級に落第した15歳の時に、ルジャンドルの書いた「幾何学言論」を読んで数学に目覚めたという(普通は2年かけて読むものをガロアはたった2日で読んだという)。

著者は、この時ガロアは、数学における直観性と形式美の織り成す世界を一望したのだという。

そして、数学にのめり込んだ18歳になったガロアは、代数方程式の問題に取り組む。

当時4次方程式までの解法は知られていたので、ガロアは5次方程式に取り組む。

そこでガロアは、5次方程式を飛び越え、5次以上の方程式は一般に「べき根による解法」では解くことができないという事を導き出す。

その発想は、いわゆる「コペルニクス的転回」というものだ。そして群という新しい概念を生み出して、数学そのものあり方を劇的に変えている。

普通、方程式を解くと言うと、式そのものを変形していって、解に到達しようとする(2次方程式の解の公式の導出を思い出して欲しい。これは解析学的な手法)。

それに対して、ガロアは、「解(=根)そのものの性質を調べることから始めて方程式に至る」という、最初にラグランジェが始めたやり方を発展させた。

ガロアは、根の置換の重要性に注目し(この置換操作の集まりが群になる)、方程式に内在した対称性をシステム(これを集合と呼ぶ)として考察する(これは幾何学)。

こういった構造主義的な手法を取り、5次以上の方程式は四則演算とべき根の計算だけでは解けないということを示したという(解析学の問題が構造を扱う幾何学に変換されて説明され切ったということかな)。

このガロアの理論は、後にリーマン(1826‐1866)によって深められた「構造的数学」のさきがけになっているという。

著者によれば、ガロア理論は、(当時はまだなかった)群と体という概念を使い、集合を用いて構造を記述するという構造主義的な記載をすれば、実に素直に(直観的に)理解できるという。その意味でガロアの数学は1世紀分を先取りをしているという。

彼の学術論文は、いろいろな不運がかさなり、正しく評価されることもなく(詳細は本書参照)残ってもいない。

明日決闘で死ぬと思って、監獄で書いた遺書は残っていて、その遺書にはガロアの思いが綴られている。

著者の訳を以下に引用してみる。

「長々とした計算はまずもって数学の進歩にはほとんど必要ない。」

「代数的変形がどこまで行っても見出されないという時がいずれやって来る」

「数多の計算を結合する足場まで飛躍すること、操作をグループ化すること。そして形によってではなく、難しさによって分類する事が未来の幾何学者の仕事である。」

「求める問題の特殊性に応じて形ではなく、難しさによって分類された計算が実現される日もやがて来るだろう。」

著者の言葉を借りれば、「数の難しさとは数の曖昧さであると、ガロアは気が付いていた。」という。これは、量子論とか、IUT理論の復元誤差とかを思いだす。

ああ、群論と集合を用いた構造の理解や概念の操作が現代数学か。その最初の発想はガロアから生まれたんだな。YouTubeにもいろいろ群論の講義があるし、勉強してみようかな。

ガロアはその破天荒な人生も含めて天才なんだな。それを因循姑息な連中が認められなかったのが、ありそうなこととは言え、残念だと思った。

時代背景が同じな「レ・ミゼラブル」をアマゾンプライムで見るとするか。