「イタリア語の歴史 俗ラテン語から現代まで」を読んで、言葉は生きている文化であり、コミュニティの根幹であるとの思いを強くした。楽しく読めて学びが沢山ある良書です。

最近、イタリア語と、その源となったと思われるラテン語に興味を持っている。地元の図書館の蔵書をネットで検索していて、たまたまこの本を見つけた。

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著者は2人のイタリア語史の大学教授。学者の書いたものというと、引用だらけで、読みにくい、堅苦しいものかとおもいきゃ、さにあらず。読みだすと止まらないほど引き込まれる。2006年にイタリアで発売されるや、一般書に混じって大いに売上を伸ばしたという。さもありなん。

ラテン語のひとつの方言であった、フィレンツェ地方の話し言葉が、どのようにして現代のイタリア語になって来たのかを、ダンテや、ボッカチオ、メディチマキアヴェッリなどのエピソードをふんだんに交えながら、生き生きと語っている。言葉は生き物であって、その地域の人々の文化であるという思いが実にダイレクトに心に響く。

草皆信子さんの訳も素晴らしく、時に書き過ぎじゃないかと思えるほどの訳者注釈も大変ためになり、面白い。

学んだことがいっぱいあったので、読後メモを作り、感想を纏めてみた。

【読後メモ】

古代ローマの言語は連綿と現代イタリア語に繋がっており、イタリア語は今のイタリアで使われているラテン語である。そして、フランス語は今のフランスで使われているラテン語である。スペイン語ポルトガル語ルーマニア語もしかり。

ラテン語は一つだけではない。使用者の生活様式や文化の違いの組み合わせから生まれた無数のラテン語が存在する。

・ローマ建国時のラテン語キケロの時代のラテン語は違う。(日本書記、清少納言森鴎外村上春樹、どれも日本語だけれど、みな違うのと同じか:私の感想)

・今でもミラノで話されるイタリア語と、ナポリパレルモで話されているイタリア語は発音や語彙だけでなく、文法や統語法でも違っている。(イタリア語講座のイタリア語だけがイタリア語ではないんだ。日本でも、沖縄や東北の人々の日本語はかなり違っているだろう。)

ラテン語は、元々テヴェレ川下流の、羊飼いや農民からなる、小さなコミュニティの言葉であった。

ローマ帝国が版図を拡げるにつれて、様々な地域でその土地の言葉とラテン語との融合が起こった。そうして、イタリアにおけるフィレンツェ語、スペインにおけるカスティリア語のようなものができた。

・ただし、東方のギリシア文化圏ではラテン語は受け入れられなかった。それはローマ人を含め、多くの人々がギリシア語の方がラテン語よりも高度な言語であると考えていたから(ギリシア語には、哲学や文学、演劇など、膨大な文化遺産がすでにあったからなあ)

・ラテン詩人ホラティウスは、「ギリシアはローマによって軍事的には制服されたが、文学という武器でこの無知な勝者を征服した。」と書いている。

ラテン語には、古典ラテン語クラシコ)と俗ラテン語の二つがある。

古典ラテン語カエサルアウグストゥスの時代(BC50-AD50)の、ローマ黄金期の文学で使われた言語で、その後も最上流の階級で使われ続けた不変の書き言葉である(カトリック教会や学者の文章言語だな)。今でも学校で習うラテン語はこれ(日本でいう古文/漢文だ)。クラシコとは上流階級=クラスのこと(キャンティクラシコとは上流階級の飲むキャンティということか(笑))。

俗ラテン語とは上流階級を含めて普通に話されていた話し言葉のこと。低俗という意味ではない。

古典ラテン語の弱体化にはキリスト教が一役買っている。それは、キリスト教が、キリスト教コミュニティの言語であるギリシャ語の語彙を持ち込み、貧しい人にも布教するために福音書の翻訳に(書き言葉である古典ラテン語ではなく)、俗ラテン語を用いたことにある。

・また、5世紀以降の異民族の侵入によって、古典ラテン語が置き去りにされ、それが決定的な打撃となった。この時は、皮肉なことに、キリスト教会の修道院が、古典ラテン語の書物を保管し、書写することで、古典ラテン語を守った。

今のイタリア語やフランス語は、話し言葉である俗ラテン語から派生したものであると言える。

・ダンテに先駆けて、シチリアの詩人たちは、1220年から1250年にかけて俗語での詩歌文学を展開した。その時代は、あのフィボナッチ数列で有名なフィボナッチがピサにいた時でもある。

・イタリア語の父と言われ、「神曲」を書いたダンテ・アリギエリ(1265年-1321年)は、俗語はラテン語に引けを取らず、科学や哲学や文学を表現できる言語であると確信していた。

・「神曲」はComedia(コメディア)である。これは笑わせる(喜劇)という意味ではなく、複数の言語や文体を織り交ぜて書かれたという意味である。

・「神曲」は1300年代のフィレンツェ語(ダンテの母語)が文章の基盤をなしているが、ラテン語、イタリアの各地の方言、ラテン語起源の単語、プロバンス語なども使って書かれている。

・「神曲」の地獄篇では、不和の種をまいた人々の体が悪魔によってむごたらしく切り刻まれる様子が、フィレンツェの肉屋が使うような粗野な単語を使って生々しく描かれている(胃袋=食ったものを糞に変える袋)。

・一方、「神曲」の天国篇では、神の栄光と聖人たちの至福を寿ぐ(ことほぐ)ために、天使の一群の輝く飛翔を、つややかな花々と甘い蜜の間を飛び交う蜂の一群に例えて、ラテン語起源の単語を多用して、観照的な高次な文体を使って描いている。

・こういった超絶的な表現能力をもって、ダンテはイタリア語の父という称号に掛値なしに値する。

・「神曲」では、ダンテが地獄、煉獄と回って最後に天国に達して一心に祈っていると、そこに神が姿を現す。それは永遠の光だった。「(神とは)太陽や諸星を動かす愛(だった)ということばで「神曲」は終わっている。(草皆さんの解説)

感想:うーん、レクイエムや第九で歌っている世界観そのものだなあ。ゲーテの「Mehr Licht」という最期の言葉も思い出される。

・ダンテは三位一体説に基づいて「神曲」を書いたので、3という数字が重要。「地獄」、「煉獄」、「天国」の三篇はそれぞれ33の歌からなっている。詩型は三行で一連を形成する三行韻詩。各行は11音節からなっている。

・ボッカチオの「デカメロン=deka emeron=10日間というギリシア語」は1348年のペストが猛威を振るうフィレンツェで、若い7人の女性と3人の男性が、サンタ・マリア・ノベッラ教会(あの有名な世界最古の薬局をいまでも経営している教会)で会い、疫病を逃れるために郊外の田園地帯に避難し、そこでいろいろなテーマ(愛や貪欲、裏切りなど)について物語るさまを、洗練されたフレンツェ語を駆使して、散文で綴ったもの。

・14世紀のフィレンツェで、ダンテ、ボッカチオ、ペトラルカ(「カンツォニエーレ」を書いた詩人)の3人が、フィレンツェ語による俗語文学を打ち立てたと言える。

・15世紀になって、1469年にフィレンツェのシニョーレ(君主)になった、ロレンツォ・デ・メディチ(コジモの長男)はトスカーナの俗語を普及させる大々的なキャンペーンを展開した。

・ロレンツォは、また、美術アカデミーを作り、ミケランジェロを育て、ボッティチェッリをなどの美術家に活躍の場を与えた(フィレンツェルネッサンスパトロンなんだな)。多大なメセナ資金を使い、政治・外交でイタリア半島の安定に貢献があった(ナポリローマ教皇庁とのバランスを維持)反面、家業の銀行業には熱心でなかったので、彼の死後、メディチ家は急速に衰退した。(草皆さんの解説)

・1400年代、聖職者の説教は俗語で行われたが、ミサの重要な部分はラテン語で執り行われたので、庶民には理解できないこともあった(今の日本の仏教でもそういう感じがするなあ)。

・「君主論」で有名な、マキアヴェッリは14世紀の3文人(ダンテ、ボッカチオ、ペトラルカ)を引き合いにだして、フィレンツェ語を使って文章を書くことを主張した。

・「君主論」のなかに、「目的のためには手段を選ばず」という言葉はない。「君主は敵に対抗するためには、狐のように狡猾で獅子のように暴力的でなくてはならない」とは言っている。(草皆さんの解説)

・20世紀に、「君主論」の改訂版が3人の政治家から出されている。それはムッソリーニ1924年、クラクシ(1986年)とベルルスコーニ(1992年)である。(草皆さんの解説)

・17世紀には、14世紀のダンテらのフィレンツェ語を元にしたイタリア語の辞書が作られた。それは1612年(日本の徳川家康の時代)にクルスカ学会が行った。これはヨーロッパの最初の大辞書となった。

ガリレオは科学を語るために(ラテン語でなく)イタリア語(フィレンツェ語)を選択した。それは知を広めることの必要性を強く感じていたから。天動説の説明は、対話体のイタリア語で書かれている。ガリレオはピサで生まれたが一族はフィレンツェ出身のトスカーナ人である。

ガリレオがイタリア語で文章を書くことについて、ドイツの大天文学者であるケプラーは、そのことを人類に対する犯罪だと、ラテン語で非難した。ガリレオ科学書ラテン語に翻訳されてヨーロッパ中に広まった。

・1700年代、イタリア語は演劇と音楽と文学が融合したオペラの世界で成功していた(モーツアルトの「フィガロの結婚」はイタリア語だ)。このことが逆に、イタリア語は歌謡にしか向いていなくて(心地よく甘美で感傷的)、フランス語のように哲学や科学を語る言語より劣るものとのイメージが定着してしまった。

1800年代は辞書の世紀と呼ばれ、多くの辞書が編纂された。その背景には当時、日常生活や職場で、共通の実用的な言語を持たないことの不便さが増大していたことがある。

・いろいろな辞書の中で、ベルナルド・ベッリーニ他が編纂した、「イタリア語辞典(1861-1879年)」が面白い。かなり個人的な見解が書かれている。例えば、社会主義を、いつもの困った○○主義のひとつ。フランスより到来。コミュニズム専制主義の中間のようなもの。確たる道徳規範もないまま伝統も慣習もすべて壊し、市民生活を丸ごと作り変えようとするもの、と説明している(傑作な解釈だ)。

1800年代はイタリアの統一が進んだ世紀であり、それと同時に、イタリア語の統一をアレッサンドロ・マンゾーニが主導して推進した。

・当時、フランスは既に共通のフランス語を持っていたが、イタリアは、書き言葉は13世紀(ダンテの時代)のまま、話し言葉は各地域の方言、という状態だった。

・マンゾーニは、ミラノ生まれではあるけれど、名作「いいなずけ」を、当時のフィレンツェの教養ある人々が使っている話し言葉を使って書いた。それが現代イタリア語のベースとなった(日本の鴎外、漱石と言ったところか)。

・マンゾーニはダンテと並び称せられるイタリア最高の小説家で、イタリア統一後の最初の国会で終身上院議員となり、現代イタリア語の確立に大いに貢献した。つまりマンゾーニは、現代イタリア語の父と言える。

マンゾーニが1873年に亡くなると、そのことを悼んでベルディは「レクイエム」を作曲した。(草皆さんの解説)

 

・イタリアの統一国家ができた、1860年頃の時点で、2500万人の人口のうち、イタリア語を使えたのは人口の10%。非識字率は75%であった。それを改善したのは、イタリア語を教え、使う、公立学校の普及と徴兵制度であった。

・20世紀になって、ムッソリーニは1922年から1943年までの間、国粋主義、純粋主義的な言語政策を取り、方言と外国語の追放を推し進めた(ムッソリーニのイタリア語の演説の用語が説明されていて、とても興味深い)。

第二次世界大戦後、イタリア共和国憲法の文体が標準イタリア語の規範とされる。

・義務教育の普及とマスコミ(新聞、テレビ)が標準イタリア語の普及に貢献した。

・今日のテレビ番組のイタリア語は3種類ある。①政治文化科学を扱うやや上級なもの。②トークショーやクイズ番組の会話体(杜撰なものも含む)。③テレビドラマで使われる、文法に則った中級の話し言葉。(うーん、NHKニュースと、お笑い番組の日本語は違う種類と言うことか。関西弁もあるし。国会答弁を漫才師風にやれば不適切だから、それらは違う言葉だともいえる。)

・一方で、現代イタリア文学はもはや、スタンダートなイタリア語を提供してない(ウンベルト・エーコはどうなんだろう。日本語訳も読み進めるのが難しい)。

・イタリアの言語問題はいまでもある。北部(ミラノ、トリノ)の産業社会が生みだした無味乾燥なテクノロジー風味のイタリア語に対する批判がある。

・一方で、1988年にイタリア語文法の便覧や書物が出版され、立派な辞書も2冊でたので、イタリア語の標準は定まったと言える。

・世界共通の財産であるイタリア語を守り、伝えていくために、不断の努力(政府などの支援と人々の参画)が必要である。

【感想】

ギリシア語をしゃべるギリシア人はいるのに、ラテン語をしゃべるラテン人(古代ローマ人の末裔)はどうなっちゃったんだろう。北から来たイタリア人に吸収されてしまったのか。という疑問がこの本を手に取ったきっかけではあったけど、そういう事ではないことがよくわかった。イタリア語、フランス語、ルーマニア語などロマンス語と言われるものはみんなラテン語なんだと。

ギリシア語だと言っても、現代ギリシア語とプラトンなどの時代のギリシア後は随分違うんだろうなあ。物理では、ωとかΦとか散々お世話になっているけれど。

・ダンテのことが少し理解できた。「神曲」は凄い文学なんだなあ。

ヴェルディがその死を悼んで「レクイエム」を作った、マンゾーニのことを知れたのはよかった。

ヴェルディのオペラの台本やアリアはマンゾーニ推奨のイタリア語で書いてあるんだろうと推測する。

ヴェルディの「レクイエム」の約100年前に出来たモーツアルトの「フィガロの結婚(1778年)」は、今は現代イタリア語で演じられているように感じる(レチタティーボのところ)だけど、当時は今とは違う18世紀の言葉で演じられていたんだと思う。でもアリアの歌詞は音韻とメロディーの合わせがあるので、今でも当時の歌詞ままでないとおかしい気がするし。そこのところはいったいどうなっているのだろう。

・という事は、ヴェルディのオペラの台本やアリアはマンゾーニ推奨のイタリア語で書いてあるんだろうなあ。

・演劇と言葉の関係はとても興味深い。日本文化でいえば、歌舞伎のセリフは多分原作のままではないだろうし、落語も江戸時代と同じ言葉ではないだろう。能の謡がちっともわからないのは当時のままの言葉だからだろうか。歌曲は韻のようなものがあるから、ことばを変えるのは難しいのかと思う。お経はどうなんだろう。英語圏でいえば、シェークスピアの演劇は今は現代英語で演じられるのだろうか。ああ、クラシックな演劇や歌曲と言葉の関係に興味が尽きない。

・統一主権国家には国語の確立が必要であることがよくわかった。イタリアは1860年頃にそれが進められた。日本も明治維新で同じことが起こっている。言文一致の小説の勃興と、尋常小学校、徴兵制、 新聞の発達など。

・逆に言うと、コミュニティとは同じ話し言葉(文化)で意思疎通できる範囲ともいえる。コミュニティは意外と狭く、別の言葉(方言が)地域ごとに出来上がっていくのはいったいどいう訳だろう。

国家主義は統一言語の強制普及と表裏一体になるようにも思える。中国は、ある意味方言だらけ。なので、北京の方言であるマンダリンを国営テレビなどを通じて、簡体字の字幕もつけて、普及させている。

・中国の映画やTVドラマは字幕が出るだけではない。俳優は演じるだけで、声は声優がアフレコをしているということを最近知った。その理由は、俳優と言えども、出身地のアクセントが完全には抜けていないので、正調マンダリンをしゃべる美声の声優を使うんだそうだ。「瓔珞<エイラク>~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~」の「瓔珞」の声が別人とはちょっとびっくりした。

・その昔、湖南省出身の毛沢東湖北省出身の林彪は会話ができなかったという話もあるぐらいだ。昔はイタリアも日本も同じようなものだろう。薩摩と会津は会話できなかったりとか。書き言葉=古典ラテン語/漢文、があるから何とかなったというような。

・そういえば、薩摩出身の大山巌が、帰国子女で会津出身の捨松に一目ぼれし、最初のデートの時にフランス語で会話したとかいう話がウィキペディアに出ている。

・中国は、ウイグル自治区にはマンダリン教育を施しているだろう。香港は繁体字の広東語(カントニーズ)をレガシーにしているわけだけれど、これも今後どうなるのだろう。台湾はマンダリンだけれど、台湾語繁体字アイデンティティとして死守するだろう。

・ここで、「月曜物語(1873年)」の「最後の授業」を思い出した。ウィキペディアから引用しておこう。こういう時代が来ないことを祈るばかりだ。

「私がここで、フランス語の授業をするのは、これが最後です。普仏戦争でフランスが負けたため、アルザスプロイセン領になり、ドイツ語しか教えてはいけないことになりました。これが、私のフランス語の、最後の授業です」。これを聞いたフランツ少年は激しい衝撃を受け、今日はいっそ学校をさぼろうかと考えていた自分を深く恥じる。

先生は「フランス語は世界でいちばん美しく、一番明晰な言葉です。そして、ある民族が奴隸となっても、その国語を保っている限り、牢獄を握っているようなものなのです」と語り、生徒も大人たちも、最後の授業に耳を傾ける。やがて終業を告げる教会の音が鳴った。それを聞いた先生は蒼白になり、黒板に「フランス万歳!」と大きく書いて「最後の授業」を終えた。

・それほど言葉は大切なものなのですよ。